↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
44/60

第44話:王都の影。不眠の権力者たちと『奇跡の聖女』の噂

常闇の森に訪れた秋は、日ごとにその深みを増していた。

木々の梢を彩っていた紅葉はハラハラと舞い落ち、地面には赤や山吹色、深い赤褐色の落ち葉が幾重にも敷き詰められ、森を渡る風は肌を刺すような冬の気配を帯び始めている。

だが、その冷たい外気とは裏腹に、山小屋の敷地内には、まるでここだけ季節が春先で足踏みをしているかのような、穏やかで柔らかな陽だまりが満ちていた。


「千尋お姉様! 見てください、こんなに立派な白カブが抜けました!」


前庭の家庭菜園から、鈴を転がすような明るい声が響いた。

声の主は、両手で泥のついた大きなカブを誇らしげに掲げている少女――ノエル・ド・リュミエールだった。


千尋の山小屋で療養生活を始めてから、ちょうど二週間。

その姿は、かつて馬車から降り立った時の「砕け散りそうな陶器の人形」とは、もはや完全に別人のように生まれ変わっていた。

身に纏っているのは、千尋が手縫いで仕立て直してくれた、ゆったりとした生成りのリネンワンピース。ウエストを縛るコルセットなど影も形もなく、裾からは手編みの靴下と、ルゥの抜け毛から作った純白のフェルトスリッパが覗いている。

複雑に結い上げられていたプラチナブロンドの髪は、素朴な三つ編みのおさげにまとめられ、額や首筋には秋風がさらりと吹き抜けていた。

何より劇的だったのは、その顔立ちだった。

かつて死人のように青白く濁っていた肌は、内側から朝露を浴びた花びらのように瑞々しい輝きを放ち、両頬には健康的な桜色の赤みがふわりと差している。

唇はぷるんと潤い、そして吸い込まれそうなほど澄み切った碧眼には、生きる喜びに満ちた眩い光が宿っていた。


「わあ、ノエルちゃんすごい! まん丸でずっしり重たいわね。それ、今日の夕飯のポトフに入れましょうか」

「はいっ! わたくし、泥を綺麗に洗い流してまいりますね!」


ノエルは満面の笑みを浮かべ、カブを抱えて井戸の洗い場へと小走りで向かった。

その足取りには、かつて爪先を痛めつけていたヒール靴の面影など微塵もなく、まるで野山を駆ける小鹿のように軽やかだった。

足元では、白銀の子犬――ルゥが「わふっ! わふっ!」と嬉しそうに尻尾を振りながら、ノエルの足首にじゃれついて走っていく。


「ふふ、すっかり元気になってよかったわ」


縁側で白灰鉱(重曹)を使ったスプーン磨きをしていた千尋は、目を細めてその背中を見送った。

この二週間、千尋がノエルにしたことといえば、驚くほど単純なことばかりだった。

身体を締め付ける狂気のコルセットを断ち切り、肌触りの良いリネン服を着せ、井戸水と手作りの石鹸で汗を流させ、家庭菜園の滋味深い野菜と熟成塩豚の温かなスープを食べさせ、そして――ルゥをもふもふしながら、ハーブの香るふかふかの羽毛布団で、毎日十時間以上泥のように眠らせた。

ただそれだけで、王都の宮廷医師団が「不治の衰弱」と匙を投げた隣国の公女は、みるみるうちに生命力を取り戻し、今では千尋を「お姉様」と呼んで甲斐甲斐しく家事を手伝うまでに回復したのだ。


「……千尋様。ノエル殿下のあの生体魔力の回復曲線、やはり異常です」


納屋の勝手口から、白衣を着たギルバートが銀縁眼鏡の位置を直しながら顔を出した。手には、千尋から命じられた「魔力ランプへの蓄電」を終えたばかりのガラス球を持っている。

「王都の社交界による精神汚染係数が、わずか十四日間で完全にゼロへと平滑化されています。体内の魔力循環は健全そのもの。……改めて確信しましたが、千尋様のこの空間は、生体の自然治癒力を通常の数十倍に加速させる絶対聖域です」


「はいはい、ギルバートさん。難しい講釈はいいから、そのランプを居間の机に置いて、ノエルちゃんが井戸水を汲むのを手伝ってあげてちょうだい」

「ぐっ……私は王立魔導院の首席であって、水汲み要員では……っ。わ、分かりました、今すぐ行きます!」


千尋の冷ややかな一言に、若き天才魔導士は肩をすくめて井戸へと走っていった。

縁先の風鈴が「チリン……」と心地よい音を鳴らし、居間の囲炉裏からは薪の爆ぜる音が聞こえてくる。

誰もが肩書きを忘れ、美味しいご飯を食べ、温かな布団で眠る。

この世のどこよりも平和で、どこよりも満ち足りた日常が、そこには確かに存在していた。


――しかし。

この山小屋を満たす穏やかな奇跡は、遠く離れた王都の闇にとって、決して見過ごすことのできない「巨大な獲物」として映り始めていた。


◇


北方辺境の澄んだ空気とは対極の、澱んだ熱気と悪意が渦巻く場所――。

エルダリア王国の王都中央に聳える、権力の中枢『王立貴族院』の地下深奥。

重厚な樫の木と真鍮で閉ざされた秘密の会談室には、昼間であるにもかかわらず分厚いビロードのカーテンが隙間なく閉ざされ、陰鬱な薄暗がりが支配していた。


部屋の中に立ち込めていたのは、安物の香油と、阿片(あへん)に似た精神沈静薬草の混ざり合った、胸の悪くなるような甘ったるい煙だった。

銀の燭台に灯された蝋燭(ろうそく)の炎が、円卓を囲む男たちの顔を不気味に照らし出している。


そこに座っていたのは、王都の最大勢力たる『大公派』に属する、重鎮貴族たちだった。

しかし――その姿は、およそ王国の頂点に立つ特権階級の威厳とは程遠い、醜悪極まりないものだった。


「……オエッ……クソッ……また、痛みが……頭蓋が、割れる……っ!」


円卓の端で、豪奢な絹のローブを纏った肥満体の老貴族が、自らのこめかみを骨がきしむほど力任せに押さえ、脂汗を垂らして呻いていた。

その隣の男も、青白い土気色の顔に、死人のように深く沈着した紫黒い隈を刻み、震える手で陶器の小瓶から苦い丸薬を何粒も口へ放り込んでいる。


王都の権力者たち。

彼らは全員、重篤な『不眠症』と『魔力過密障害』に苛まれていた。

権力を維持するための果てしない謀略、政敵からの毒殺や暗殺への恐怖、そして贅沢三昧の生活によって濁りきった体内の魔力粒子『アエテル』。

強い魔力を持つ貴族ほど、神経は過敏になり、脳は常に高熱を発し、目を閉じれば殺し合ってきた者たちの怨嗟の声が幻聴となって耳朶を打つ。

眠れない。

どれほど豪奢な羽毛ベッドに横たわっても、どんな高価な睡眠薬を呷(あお)っても、彼らの意識は休まることがない。常に頭痛と苛立ちに脳を焼かれ、神経をすり減らし、狂気と隣り合わせの状態で権力にしがみつき続けているのだ。


「……静かにしろ、見苦しいぞ」


円卓の上座から、冷酷で嗄(か)れた声が響いた。

大公派の筆頭執政官を務める男だった。痩せこけた頬に鷲鼻、血走った眼窩の奥に、猜疑心と底なしの野心の炎を宿している。

男の細い指先の下には、北方のハルデンベルク領から今朝届いたばかりの、機密暗号で記された数枚の羊皮紙が広げられていた。


「……北方監視網の密偵から、極めて興味深い報告が上がってきた」


執政官の声に、苦悶の声を上げていた貴族たちが一斉に顔を上げた。


「……ハルデンベルク公爵に関する報告か?」

「そうだ。あの『氷の死神』……アルヴィス・フォン・ハルデンベルクだ。奴の体内で暴れ狂い、神殿の秘宝ですら抑え込めなかったはずの魔力過密障害と不眠症が……完全に、鎮静化したという」


「な……何だと!?」

貴族たちから驚愕のどよめきが上がった。

「馬鹿な! 奴の魔力嵐はすでに致死域に達していたはずだ! いずれ自壊し、北方防衛軍の指揮権ごと我が派閥が奪い取る手はずだったのではないのか!?」

「それだけではない」

執政官は冷たく言葉を重ね、別の羊皮紙を叩いた。


「二週間前、厄介払いとして北方へ送り込んだ、あの隣国の小娘……ノエル・ド・リュミエール公女だ」


「ああ、あの衰弱しきった田舎娘か」

肥満の老貴族が嘲笑混じりに鼻を鳴らす。

「社交界の洗礼に耐えかね、食事も受け付けず、一睡もできぬまま死人のようになっていたはずだ。公爵領で野垂れ死ねば、ルミエール公国とハルデンベルクの間に亀裂が入り、好都合だと思っていたが……」


「その小娘が――完全に、息を吹き返した」


ピタリと、部屋の空気が凍りついた。


「……は? 息を吹き返した……?」

「医師団の診断では、心不全寸前、胃壁はただれ、余命幾許(いくばく)もないとされていたはずだ。だが、密偵の報告によれば……ノエル公女は今や肌艶を取り戻し、食事を平らげ、笑みを浮かべて庭を走り回っているという」


「ば、馬鹿な……! あり得ん! どんな奇跡の秘薬を使ったというのだ!? 王室薬師ギルドの霊薬ですら、あの娘の拒食と精神衰弱を治すことは不可能だったはずだぞ!!」


貴族たちの困惑と動揺が、密室の中に波紋のように広がっていく。

無理もなかった。

一人は、帝国最強の剣士にして、不治の魔力暴走を抱えていた公爵。

もう一人は、王都の謀略によって心身を限界まで破壊され、餓死寸前だった公女。

その二人が、ほぼ同時期に、北方の辺境において奇跡的な快復を遂げているのだ。偶然で片付けられるはずがなかった。


「……さらに、だ」

執政官の鳶色の瞳が、不気味に細められた。

「王立魔導院の観測記録と、先だって行方不明となった首席研究員ギルバート・アーセルの足取りを洗わせたところ……異常な魔力波長の震源地が特定された。北方国境の禁足地――『常闇の森』の奥深く、結界のように清浄な一角だ」


「常闇の森だと……!? あの呪われた魔境に、何があるというのだ!?」


「――『聖女』だ」


執政官の唇から零れ落ちたその単語に、全員が息を呑んだ。


「古代の精神浄化魔法を操る、未知の存在がそこに潜んでいる。ハルデンベルクの荒れ狂う魔力を一瞬で凪がせ、衰弱した公女の魂を短期間で完全に修復した……失われた神代の調律術式を操る、奇跡の聖女だ」


ゴクリ、と誰かが重たい唾を飲み込む音が響いた。

聖女。

奇跡の精神浄化。

その言葉が、不眠と激痛に苛まれ、死の恐怖に怯え続ける権力者たちの脳髄を、強烈に撃ち抜いた。


「……そ、その聖女の力があれば……」

肥満の貴族が、血走った目をギラつかせ、震える声で呟いた。

「我々のこの……頭蓋を焼き切ろうとする魔力の激痛も……消えるのか……? 十年間、一度も味わったことのない、深い、安らかな眠りを……手に入れることができるのか……!?」


「それだけではないぞ!」

別の貴族が、身を乗り出して唾を飛ばした。

「肉体の疲労を癒やし、魔力過密を完全に中和できる力など、国家の最高軍事機密すら凌駕する至宝だ! そんな奇跡の存在を、ハルデンベルクごときに独占させておく手があるか!!」


欲望の炎が、瞬く間に男たちの瞳を焼き尽くしていった。

痛みを消したい。

眠りたい。

若さと健康を取り戻したい。

そして何より――その奇跡の力を我がものとし、王宮の頂点に君臨し、政敵を平伏させたい。

傲慢と猜疑心に凝り固まった貴族たちの胸の内で、どす黒い独占欲がマグマのように煮えたぎっていく。


「ハルデンベルク公爵の手から、その聖女を奪うのだ」

一人の貴族が、残酷な笑みを浮かべて言い放った。

「辺境の森の奥に隠し、己のためだけに甘露を貪るなど、公爵にあるまじき反逆行為ではないか! 直ちに王都へ招聘(しょうへい)し、我が大公派の厳重な庇護下に置くべきだ!」


「そうだ! 王命の勅令状を偽造してでも構わん! 王都専属の治癒聖女として、強制的に身柄を確保しろ!」

「逆らうならば、力ずくでも構わん! 裏ギルドの屈強な傭兵を雇い、森ごと包囲して連れ去るのだ!」


喚き散らす男たちを見下ろしながら、筆頭執政官は冷ややかに口角を吊り上げた。


「……すでに、手配は進めてある」


執政官は懐から、一通の赤い封蝋が押された密命書を取り出した。

「我が派閥の手駒である官吏――オズワルドを団長とし、裏ギルドの腕利き傭兵どもを連れ添わせた『特別招聘使節団』を、すでに北方の常闇の森へと向かわせた。表向きは王都からの公式な使者、裏では何があっても聖女の身柄を確保する拉致部隊だ」


執政官の濁った瞳に、冷酷な光が宿る。

「ハルデンベルクの若造がどれほど抗おうと、王都の威光と圧倒的な兵力の前には屈するほかない。……その聖女の身柄は、必ずや我が大公派が手に入れる。そして、その奇跡の力をもって、王国全土を我らの意のままに操って見せよう」


「「「素晴らしい……!」」」


薄暗い密室の中に、権力者たちの醜悪な笑い声が反響した。

安物の香油の煙がゆらゆらと立ち上り、彼らの飢えた影を壁一面に巨大に揺らめかせている。

己の快楽と延命のためだけに、他者の平穏を踏みにじることを何とも思わない、王都のどす黒い欲望の牙。

その毒牙が今、静かに、けれど確実に、あの温かな常闇の森の山小屋へと向けられようとしていた。


◇


夕暮れの常闇の森。

西の山並みに沈みゆく太陽が、木々の葉を燃えるような茜色と琥珀色に染め上げていた。


山小屋の南向きの縁側では、秋の冷涼な風を受けて、軒先のガラス風鈴が「チリン……チリン……」と澄んだ高い音を小さく響かせている。

居間の中央では、ベルントが作ってくれた囲炉裏にパチパチと炭火が赤く熾(おこ)り、鉄鍋の中で冬野菜と塩豚がコトコトと柔らかな煮沸音を立てていた。


「ノエルちゃん、お皿を並べるの手伝ってくれる?」

「はい、千尋お姉様! 木匙も四人分用意いたしますね!」


台所からは、千尋とノエルの楽しげな笑い声が聞こえてくる。

縁側の白木の上では、ルゥがお腹を出して丸くなり、庭の楡(にれ)の木の下では、公務を終えて駆けつけたアルヴィスが、力強い音を響かせて薪を割っていた。


バァンッ! と心地よい破砕音とともに、丸太が綺麗に四等分される。

額の汗を拭ったアルヴィスは、ふと、薪割りの手を止め、南の空を見上げた。


「…………」


サファイアの双眸が、鋭く細められる。

秋の澄み切った大気の奥底に、微かに混ざり込んだ、不穏な気配。

戦場で幾度となく嗅いできた、冷酷な謀略と、欲に塗れた人間たちが放つ濁った魔力の残り香。

アルヴィスの全身から、無意識のうちに鋭利な氷の冷気が立ち上りかけた。


だが――。


「アルヴィスさーん! 薪割りはそこまでにして、ご飯にしましょう! 冷めないうちに上がってー!」


小屋の勝手口から、エプロン姿の千尋がひょっこりと顔を出し、湯気を立てる木椀を手に笑顔で手を振った。

その無防備で、温かな日常の光景を目にした瞬間、アルヴィスの冷気はすっと霧散した。

氷の公爵の口元が、ふわりと柔らかく綻ぶ。


「……ああ。今、行く」


アルヴィスは斧を置き、泥落としのスノコへと歩み出した。

王都から伸びてくる黒い影が、すぐそこまで迫っていることなど、まだ誰も知る由もなかった。

しかし、どれほど巨大な嵐が吹き荒れようとも――この世界で一番温かい山小屋と、そこに集う者たちの絆は、決して揺らぐことはない。

夕闇が迫る森の中、山小屋の窓から漏れる琥珀色の光は、秋の冷気を優しく溶かすように、今夜もどこまでも暖かく輝き続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。