第43話:神獣を抱き枕に。少女の顔を取り戻したまどろみ
ことん、と陶器の器がテーブルの上に置かれた余韻が、居間の穏やかな空気の中に溶けていく。
深底の器の底には、丸ごとの白カブの繊維ひとかけら、琥珀色のスープの一滴すら残されていなかった。数週間熟成させた塩豚の芳醇な旨みと、大地の滋養を凝縮した冬野菜のエキスを最後の一滴まで胃袋へと収めたノエルは、空になった器を呆然と見つめたまま、両手で自らのお腹をそっと撫でていた。
温かい。
痛くない。
喉が詰まることも、胃が痙攣して酸っぱい液を逆流させることもない。
何週間ものあいだ、王都の冷酷な社交界で「いつ毒を盛られるか分からない」という極限の恐怖に晒され、飢えと拒食の狭間で干からびていた十七歳の胃の腑が、今、確固たる生命の熱によって優しく包み込まれていた。
内臓が動き出しているのが手触りでわかる。
血液が、酸素と栄養をたっぷりと抱え込んで、冷え切っていた手足の爪先、強張っていた首筋、そして過熱して焼き切れそうだった脳の奥深くまで、ドクドクと力強く巡っていく。
チアノーゼを起こして紫色だった唇は完全に瑞々しい桜色へと蘇り、陶器のように白く濁っていた頬には、生まれたての林檎のような柔らかな紅潮が差していた。
「……ふぅ……っ」
ノエルの唇から、小さく、満ち足りた吐息が零れ落ちた。
すると――。
その瞬間を待っていたかのように、彼女の全身を、抗いようのない「ある感覚」が猛烈な勢いで襲いかかってきた。
重い。
瞼が、鉛の板を貼り付けられたかのように重たいのだ。
(……え……? な、何かしら……これ……?)
ノエルの思考が、急速にまどろみの霧の中へと沈み始めていく。
胃袋に温かい食べ物が満たされ、副交感神経のスイッチが力強く跳ね上がったことで、これまで全身を張り詰めさせていた防衛本能が、一瞬にして音を立てて解除されたのだ。
何ヶ月ものあいだ蓄積され続けていた膨大な睡眠負債。
鯨骨コルセットに肋骨を押し潰され、夜中に何度も悪夢に飛び起きては涙を流していた、あの果てしない不眠の疲労が、温かなスープの熱に溶かされ、一気に彼女の意識を底なしの眠りの海へと引きずり込もうとしていた。
こっくり、とノエルのプラチナブロンドの頭が小さく揺れた。
ハッとして目を見開く。
(だ、ダメ……! 起きていなくては……! 人前で居眠りをするなど、淑女としてあってはならない無作法……! ましてや、ハルデンベルク公爵閣下の御前で……っ)
王都で徹底的に刷り込まれた恐怖の掟が、ノエルの理性に警報を鳴らす。
彼女は必死に背筋を伸ばそうとし、膝の上の生成りのリネン布をぎゅっと握りしめた。
しかし――一度緩んでしまった筋肉は、言うことを聞かなかった。
背中を万力のように縛り上げていたコルセットはもうない。
ゆったりとしたリネンワンピースは、風を孕んでどこまでも柔らかく、彼女の身体を優しく解放し続けている。
ふわり、と首が傾き、長い睫毛がゆっくりと重なり合いそうになる。
船を漕ぎ、倒れそうになるノエルの肩を――。
スッ……と、温かな手のひらが、そっと横から支えた。
「……ふふ。ほら、もう限界じゃない」
千尋だった。
エプロンを外した千尋が、ノエルの隣に腰を下ろし、慈愛に満ちた瞳で少女の顔を覗き込んでいた。
その声には、礼儀作法を咎めるような気配など爪の先ほどもなかった。社畜時代、徹夜明けの朝礼で立ったまま白目を剥きかけていた後輩を見つめる時のような、どこまでも深く、温かな受容の響き。
「あ……千尋、様……っ。申し訳、ございません……わたくし、はしたなくも……お行儀悪く、舟を……」
ノエルは消え入りそうな声で弁明しようとしたが、舌が回らず、言葉が途切れ途切れになる。
「いいのよ。お行儀なんて、ここでは誰も気にしないわ」
千尋は優しく微笑み、ノエルの華奢な手を両手で包み込んだ。
「お腹がいっぱいになって、身体が温まったら、眠くなるのは当たり前。……ノエルちゃん、ずっと眠れなかったんでしょ? 王都の冷たいお屋敷で、一人きりで震えていたんでしょう?」
「…………っ」
ノエルの胸が、トクンと小さく跳ねた。
どうして、この人はこんなにも自分の痛みを正確に言い当ててしまうのだろう。
「もう頑張らなくていいのよ。……さあ、いらっしゃい」
千尋はノエルの手を引き、ゆっくりと立ち上がらせた。
素足でパイン材の床を踏みしめる。床板からは、千尋の【住空間の調律】による心地よいぬくもりが伝わってくる。
千尋が案内したのは、居間の奥にある、小さな寝室だった。
◇
引き戸が静かに開かれた瞬間、ノエルの鼻腔を、甘く、澄み切った芳香がふわりと包み込んだ。
「……わぁ……」
ノエルの唇から、無意識の感嘆が漏れた。
王都の宮殿のような、息の詰まる豪奢な天蓋も、埃を溜め込んだ重苦しいベルベットのカーテンもない。
壁は漆喰の清潔な白。窓枠は香月木で縁取られ、そこから差し込む秋の柔らかな木漏れ日が、床の上に穏やかな光の絨毯を描き出している。
窓辺の小さな木製チェストの上では、千尋が手作りした陶器のディフューザーから、細く白いアロマの蒸気がゆらゆらと立ち上っていた。
鼻をくすぐるのは、野生のカモミールが放つ青リンゴに似た甘やかな芳香と、心を芯から鎮静化させる最高純度のドライラベンダー。そこへ、庭の柑橘『木春』の果皮から抽出したスイートオレンジの微かな甘酸っぱさが重なり合い、部屋の空気を吸い込むだけで、肺の奥から緊張のトゲが一本ずつ溶けていくような感覚。
そして――部屋の中央に鎮座していたのは、素朴な木組みの大きなベッドだった。
そこに敷かれていたのは、今日のために千尋が朝一番から風通しの良い日向に干し、太陽の光をこれでもかと吸い込ませておいた、極上の寝具の数々だった。
マットレスは、香月木のフレームの上に、乾燥させた無毒の牧草とハーブを絶妙な比率でぎっしりと詰め込んだ、手作りのハーブベッド。
その上にピンと張られているのは、井戸水ですすぎ、パリッと糊の効いた、洗いざらしの純白のリネンシーツ。
そして、ふんわりと山のように盛り上がっているのは――先日、隣国の交易商人から手に入れた最高級の綿を打ち直し、空気をたっぷり含ませて膨らませた、特製の掛け布団だった。
「はい、ノエルちゃん。靴下も脱いだままでいいから、潜り込みなさい」
千尋が掛け布団の端をふわりと持ち上げる。
その瞬間、布団の隙間から、まるで焼きたてのパンのような、香ばしく暖かな「お日様の匂い」がブワッと溢れ出した。
「……ここに……わたくしが、横たわっても……よろしいのですか……?」
ノエルはおずおずと、信じられないものを見るようにシーツを見つめた。
「こんなにも白くて、清潔なお布団を……わたくしのような者が、汚してしまっては……」
「汚すだなんて、とんでもない!」
千尋はノエルの背中を優しく押し、ベッドの縁へと腰掛けさせた。
「このお布団はね、疲れた人が入るためにあるの。……ノエルちゃん。少し横になりなさい。ここでは誰もあなたを値踏みしないし、誰も入ってこないから」
「誰も……値踏み、しない……」
「そうよ。公女だとか、政略結婚だとか、社交界のしきたりだとか、そんなものは全部この扉の外に置いてきなさい。……ここではね、ただの十七歳の女の子でいいのよ」
千尋の温かな手のひらが、ノエルの背中を優しく撫で下ろす。
その言葉が、ノエルの胸の奥底に頑丈に掛けられていた最後の錠前を、カチャリと音を立てて解き放った。
ノエルは言われるがままに、ベッドの上へと足を滑り込ませた。
素足がシーツに触れる。
サクッ……。
「…………っ!!」
ノエルの全身が、微かに震えた。
冷たくない。
王都のシルクのシーツのように、肌に触れた瞬間にヒヤリと体温を奪う嫌な冷たさが微塵もないのだ。
太陽の熱をその身に宿したリネンは、さらりと肌を滑りながら、まるで生きている皮膚のように柔らかな温もりで彼女の素足を包み込んだ。
ノエルはゆっくりと身体を倒し、ベッドの中央へと身を沈めた。
沈む。
ふわりと、身体の重みが消える。
干し草マットレスが、ノエルの細い身体の凹凸――背骨のS字カーブ、骨張った骨盤、そして華奢な肩甲骨を、均等な圧力で下からふんわりと押し上げて支えてくれる。硬すぎず、沈み込みすぎない、完璧な体圧分散。
千尋が上から掛け布団をふわっと被せてくれた瞬間、ノエルは温かな雲の塊の中にすっぽりと包み込まれたかのような錯覚を覚えた。
「……あ……っ、かるい……あたたかい……」
ノエルの唇から、掠れた声が零れ落ちる。
首筋まで布団を引き上げると、天日干しされたリネンの太陽の香りと、枕から漂うカモミールの香気が、鼻腔を満たしていく。
安全だ。
この場所は、世界で一番安全な、誰にも侵されない聖域なのだと、彼女の五感のすべてが確信していた。
その時だった。
タタタッ……。
廊下から、軽快な小さな足音が響いてきた。
「……わふ?」
寝室の開け放たれた引き戸から、ひょっこりと顔を出したのは――白銀の毛玉、神獣ルゥだった。
ルゥは丸い金色の瞳をパチクリとさせ、ベッドの中に潜り込んでいるノエルの姿をじっと見つめた。
そして、トコトコと迷いのない足取りでベッドの脇へと歩み寄ると、小さな前足をベッドフレームにかけ、ピョンッ! と軽やかに跳ね上がったのだ。
「きゃっ……!?」
ノエルが驚いて息を呑む。
王都では、犬や猫などの動物を寝室に入れるなど不潔の極みとされ、厳禁とされていたからだ。
しかし、ルゥはそんなノエルの動揺などどこ吹く風だった。
ルゥは布団の上を器用に歩いてノエルの顔のすぐ横までやってくると、小首をかしげ、「ふぅ……しょうがないな」とでも言いたげに、短く鼻を鳴らした。
そして――。
スルスルッ……。
ルゥは掛け布団の隙間に器用に鼻先を突っ込むと、自分からノエルの布団の中へと潜り込んできたのだ。
向かった先は、ノエルの胸元。
生成りのリネンワンピースを着たノエルの両腕の隙間へと、まるで最初からそこが自分の指定席であったかのように、スポッ! とすっぽり収まった。
「ふあ……っ!?」
ノエルの腕の中に、ずっしりとした、けれど驚くほど柔らかな塊が収まる。
ルゥはノエルの胸元に自分の背中をぴったりと密着させ、前足を小さく折りたたむと、くるりと丸くなって、ノエルの顎の下に自分の白銀の頭をコテンと乗っけた。
そして――。
じわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……ッ。
「…………っ……!!」
ノエルの全身を、息を呑むほどの温もりの衝撃が貫いた。
温かい。
ただの動物の体温ではない。
森の守護者たる神獣フェンリルが、体内で循環させている至高の聖なる魔力。千尋のブラッシングとホットミルクで極限まで浄化されたその魔力粒子が、ルゥの毛並みを通して、まるで極上の湯たんぽのように、じんわりと、けれど圧倒的な熱量となってノエルの胸元へと注ぎ込まれていったのだ。
冷え切り、怯え、頑丈な氷の檻に閉じ込められていたノエルの心臓が、ルゥの体温に直接触れた。
ジュワジュワと音を立てて、心の底の氷が溶けていく。
手で触れると、指先が吸い込まれそうなほどの毛並み。
千尋が毎日のように手作りの櫛で梳き、ハーブ水で磨き上げてきたルゥの白銀の毛は、最高級のシルクよりも細く、生まれたての小鳥の産毛よりも柔らかく、指を通すだけで摩擦がゼロになるほど滑らかだった。
「わあ……っ……やわらかい……いい匂い……」
ノエルの唇から、感嘆の吐息が零れ出た。
獣臭さなど微塵もない。
ルゥの毛並みからは、千尋が作ったラベンダー石鹸の香りと、お日様の匂い、そして微かな甘いミルクの香りがふわりと漂っていた。
「くぅん……」
ルゥはノエルの腕の中で気持ちよさそうに目を細めると、ピンク色の小さな舌で、ノエルの顎の先をチロッと一度だけ優しく舐めた。
――もう心配いらないぞ。
そう言っているかのように、ルゥの尻尾が布団の中でパタパタとノエルの太ももを優しく叩く。
ノエルは、両腕にぎゅっと力を込めた。
壊してしまわないように、けれど決して離したくない宝物を抱きしめるように、胸元に丸まるルゥの身体をしっかりと抱きしめる。
そして、その極上の白銀の毛並みの中に、自らの顔を深く、深く埋めた。
すうぅ……と息を吸い込む。
ラベンダーの香り。
スイートオレンジの瑞々しさ。
太陽の光を吸い込んだ羽毛布団の温もり。
そして、腕の中で規則正しくトクン、トクンと脈打つ、神獣の命の温もり。
「…………ふふっ」
その瞬間。
ノエルの口元から、小さな、小さな笑い声が零れ落ちた。
それは、王都の宮殿で浮かべていたような、相手の顔色を窺い、身を守るために引き攣らせていた冷たい作り笑いなどでは断じてなかった。
目元を三日月のように細め、桜色の頬を緩ませ、白い歯を小さく覗かせた――。
十七歳の少女が、心底から楽しくて、嬉しくて、幸福でたまらない時にしか見せることのできない、息を呑むほどに純真で、無邪気な「本物の笑顔」だった。
「……あたたかい……。しあわせ……」
ノエルの呟きは、掠れ、次第に吐息へと変わっていった。
もう、抗う理由など何一つなかった。
目を閉じても、あの恐ろしい貴婦人たちの嘲笑は聞こえてこない。
暗闇の中から、自分を切り刻もうとする悪意の刃が伸びてくることもない。
世界はどこまでも優しく、暖かく、静かで、自分を無条件に肯定して包み込んでくれている。
ベッドの脇に立った千尋が、そっと身をかがめ、ノエルの額にかかった白金色の前髪を優しく撫で上げた。
そして、首元まで毛布を掛け直し、囁くように言った。
「おやすみなさい、ノエルちゃん。いい夢をね」
「……はい……千尋、お姉様……」
無意識のうちに零れ落ちた、甘えるような一言。
それが、ノエルの覚醒の最後の言葉となった。
ストン、と。
深い、あまりにも深い、安らかな眠りの底へと、ノエルの意識は真っ逆さまに落ちていった。
スゥ……スゥ……。
数分も経たないうちに、寝室の中には、小さく、規則正しい寝息が満ちていた。
ルゥを胸元にぎゅっと抱きしめたまま、ノエルは幸せそうに口元をほころばせ、泥のように深い眠りへと沈み込んでいた。
何ヶ月も彼女を苛み続けていた悪夢も、不眠の苦痛も、跡形もなく消え去っていた。
そこに横たわっていたのは、政略結婚の道具でも、社交界の生贄でもない。
ようやく自らの人生を取り戻し、安らかな眠りを許された、ただの一人の愛らしい十七歳の少女の姿だった。
「……よし。大成功ね」
千尋は満足そうに微笑み、足音を立てないように静かに身を引いた。
寝室の引き戸を、細い隙間だけを残して音もなく閉める。
居間へと戻ると、囲炉裏の傍らで待機していたアルヴィスが、サファイアの瞳を微かに揺らしながら、祈るような眼差しで千尋を見つめてきた。
「……千尋。ノエル様は……?」
「ふふ、秒で爆睡よ」
千尋は腰に手を当てて、誇らしげに胸を張った。
「ルゥをもふもふしながら、天使みたいな顔をして眠ってるわ。……アルヴィスさん、連れてきて正解だったわね」
「……そうか」
アルヴィスは肺腑の底から、重たい息を吐き出した。
その表情から、騎士としての張り詰めた緊張がすっと抜け落ち、柔らかな安堵の光が広がっていく。
「……よかった。本当に……よかった……」
「さて! ノエルちゃんがぐっすり眠っている間に、夕飯の仕込みをしちゃいましょうか。起きたらまたお腹が空くでしょうから、もっと元気が出るような美味しいものを作ってあげなきゃね!」
「ああ、手伝おう。薪ならいくらでも割るぞ」
千尋の明るい声に、アルヴィスが力強く頷く。
秋の常闇の森。
風鈴が「チリン……」と涼やかな音色を響かせ、黄金色の木漏れ日が、世界で一番温かい山小屋を優しく包み込んでいた。
傷つき果てた公女の心を救い上げた聖域には今、静かで、穏やかで、どこまでも甘美な安眠の時間が、いつまでも、いつまでも満ち足りて流れていたのだった。




