第40話:ハサミ一閃。呼吸を止めるコルセットを断ち切れ
北方の遅い朝霧を切り裂いて、公爵家の紋章を覆い隠した一台の無地の黒塗り馬車が、領都の西門を静かに滑り出た。
車輪が石畳を叩く規則正しい音だけが、鉛色の静寂の中に響いている。
豪奢なクッションが設えられた車内には、向かい合って座る二人の姿があった。
片や、普段の重厚な軍服ではなく、動きやすい黒のリネンシャツに革の上着を羽織ったハルデンベルク公爵アルヴィス。
そしてもう一方は――豪奢な紫紺の夜会用ドレスに身を包み、彫像のように背筋を強張らせて座る、ルミエール公国の公女ノエルだった。
ノエルは、両膝の上で固く重ねた自らの指先を、痛いほどに見つめ続けていた。
指先は氷のように冷え切り、小刻みな震えが止まらない。
車窓の外に流れる風景は、次第に民家が途切れ、立ち枯れた巨木と深い茨が鬱蒼と生い茂る、忌まわしき『常闇の森』の異様な山並みへと移り変わっていた。
王国エルダリアにおいて、足を踏み入れれば二度と生きては戻れないと恐れられる魔境。
(……わたくしは、処分されるのね……)
ノエルの胸の内で、絶望が冷たい塊となって沈殿していく。
王都の社交界で重鎮貴族たちの悪意に晒され、食事も喉を通らず、夜も眠れず、衰弱しきった他国の公女。もはや政略結婚の駒としても使い物にならなくなった出来損ないの人形を、ハルデンベルク公爵は秘密裏に始末するつもりなのだ。
魔獣が跋扈する禁足地の奥深くへ連れて行き、事故に見せかけて命を奪うのか。あるいは、人知れぬ廃屋に幽閉し、野垂れ死ぬのを待つのか。
恐怖で心臓が早鐘のように跳ね上がり、呼吸がさらに浅くなっていく。
しかし――そんな絶望の淵にありながらも、ノエルの表情筋は、王都で徹底的に叩き込まれた「完璧な淑女の微笑み」を必死に張り付けたままでいた。
取り乱してはいけない。泣き叫んではいけない。
ルミエールの名を汚すような無様な姿を見せれば、祖国の父や母にまで泥を塗ることになる。最後まで誇り高い公女として、美しく壊れなくてはならない。
その歪んだ強迫観念が、彼女の細い首筋を締め上げていた。
「……ノエル様」
低く、柔らかな声が車内に落ちた。
アルヴィスが、サファイアの双眸を穏やかに細めてノエルを見つめていた。その瞳には、戦場の冷徹さも、貴族特有の品定めするような光も微塵もなかった。
「……は、はい……公爵閣下。何でございましょうか……?」
引き攣った笑みのまま、掠れた声を絞り出すノエル。
「そう身構える必要はない。……連れて行きたい場所があるのだ。少しだけ、身体の力を抜いて、窓の外を見てごらん」
「……は、はい……閣下の仰せのままに……」
従順に頷きながらも、ノエルは恐怖に目を伏せた。
力を抜けと言われても、抜けるはずがなかった。
ドレスの内側で、何本もの硬質な鯨骨と鉄の芯が仕込まれたコルセットが、肋骨を内側へ内側へと容赦なく圧迫し続けているのだ。息を吐き出すことはできても、吸い込むための肺の空間がどこにも存在しない。
肺胞の隅々が酸素を求めて悲鳴を上げ、視界の端がチカチカと白く明滅する。唇は紫に変色し、額には冷や汗がびっしりと滲んでいた。
やがて――馬車の速度が落ちた。
スッ……。
境界線を一本跨いだ瞬間、車内を満たしていた重苦しい圧迫感が、まるで奇跡のように消え去った。
ガラガラと軋んでいた車輪の音が、柔らかく湿った土を踏みしめる穏やかな音へと変わり、窓の隙間から滑り込んできた風が、甘く香ばしい「何か」を運んできたのだ。
(……え……?)
ノエルはおずおずと顔を上げ、恐る恐る車窓の外を覗き見た。
そこに広がっていたのは、彼女が想像していたような、魔獣が肉を喰らい、瘴気が渦巻く地獄の光景などではなかった。
黄金色と茜色の木漏れ日が、まるで祝福の粉のように降り注ぐ、清らかな森の小道。
木々の梢からは名前も知らない小鳥たちがチュンチュンと愛らしくさえずり合い、足元には瑞々しい野花が絨毯のように咲き乱れている。
そして、小道の先にぽつんと佇んでいたのは――。
煙突から細い薪の煙をゆらゆらと立ち上らせる、素朴で、可愛らしい、木造の小さな山小屋だった。
南向きの白木の縁側には、色とりどりのハーブが植えられた木製プランターが並び、軒先には小さなガラス鉱石が揺れ、秋の薫風を受けて「チリン……」と澄んだ涼やかな音色を零している。
庭の陽だまりでは、純白の毛並みを持つ小さな獣――ルゥが、前足を投げ出して呑気に欠伸を噛み殺していた。
生と温もりに満ち溢れた、おとぎ話の絵本から抜け出してきたような、奇跡の楽園。
「……着いたぞ。降りよう」
アルヴィスが先に馬車を降り、優しく手を差し伸べてきた。
ノエルは夢遊病者のように、震える足取りでステップへと爪先を下ろした。
細い革紐で足首を限界まで締め付けた高いヒール靴が、庭の柔らかな敷石を踏みしめる。
その瞬間、立ち上る清涼な土の匂いと、天日干しされたリネンの香ばしい香りが、ノエルの鼻腔をふわりとくすぐった。
「アルヴィスさん、おかえりなさい! 領境の査察、お疲れ様でし――」
山小屋の勝手口から、エプロン姿の娘がパタパタと軽快な足音を響かせて現れた。
栗色の髪を後ろでラフに束ね、袖を肘まで捲り上げ、その手には収穫用の小さな籠が抱えられている。小早川千尋だった。
留守にしていた主君の帰還を笑顔で迎えようとした千尋は、しかし、馬車の横に立つノエルの姿を視界に捉えた瞬間――ピタリと、その足を止めた。
「…………」
千尋の瞳が、スッと細まった。
前世の社畜時代、過労死ラインを遥かに越えて限界まで働き詰め、ある日突然デスクの前で糸が切れたように倒れて救急搬送されていった数多の同僚たち。
その「生命の灯火が消えかけている人間」の特有の気配を、千尋の直感は瞬時に感知していた。
一方のノエルは、目の前に現れたエプロン姿の娘を見て、激しい動揺に襲われていた。
身分もわからぬ平民の娘。だが、アルヴィス公爵がこれほど親しげに視線を向けている。
粗相があってはならない。王都の規範に従い、完璧な礼節を尽くさなければ。
ノエルは鉛のように重たい腕を持ち上げ、紫紺のドレスの裾を震える指先でつまみ上げた。
そして、呼吸すらままならない胸を押し殺し、完璧なカーテシーを披露すべく、膝を深く折ろうとした――。
グラリ。
酸欠によって視界が真っ白に吹き飛んだ。
平衡感覚を失い、細い足首が悲鳴を上げ、ノエルの華奢な身体が、地面の敷石へと吸い込まれるように前のめりに崩れ落ちかけた。
「あ……っ」
倒れる。泥にまみれる。恥を晒す。
恐怖に目を瞑ったノエルの身体を、地面に激突する寸前で――柔らかく、けれど驚くほど力強い「二つの腕」が、真正面からしっかりと受け止めた。
トン……。
「……はい、ストップ。お辞儀なんてしなくていいから」
耳朶を打ったのは、凛とした、どこまでも真っ直ぐで温かな女性の声だった。
抱き留められた腕を通して伝わってくるのは、日向に干したばかりのリネンの匂いと、手作りの石鹸の清潔な香り。
ノエルがおずおずと瞼を持ち上げると、そこには、自分を抱き起こしながら、眉間に深い深いシワを寄せて自分を見つめる、千尋の真剣な瞳があった。
千尋の鋭い視線は、ノエルの顔など見ていなかった。
千尋の目は、ノエルが身に纏う豪奢な夜会ドレスの胸元――その内側で、肋骨を万力のように締め上げている「狂気の拘束具」だけに、激しい怒りを込めて突き刺さっていた。
「……ちょっと、アルヴィスさん」
低く、ドスの利いた声。
千尋はノエルを抱き抱えたまま、ゆっくりと首だけを巡らせ、傍らに佇んでいた公爵をギロリと睨みつけた。
「……この子、息してないじゃない」
「なっ……」
アルヴィスが息を呑み、思わず半歩後ずさる。
「見なさいよ、この唇の色! 完全にチアノーゼを起こして紫色になってるじゃない! 指先も冷え切ってガタガタ震えてる! ……一体どういうつもり!? こんな華奢な女の子を、こんな鉄の拘束具で締め上げて……殺す気なの!?」
千尋の怒号が、秋の森の静寂をビリビリと震わせた。
社畜時代、理不尽なドレスコードでパンプスを強要され、足指から血を流しながら笑顔で営業回りをさせられていた後輩女子を見た時以上の、激しい憤りが千尋の胸の中で爆発していた。
アルヴィスは気まずそうに視線を泳がせ、慌てて弁明するように両手を上げた。
「ち、千尋、待て! 私が締め上げたわけではない! それは……王族の礼装なのだ。ルミエール公国の格式と、王都の貴族社会のしきたりに従い、公女としての威厳を保つために――」
「命より大事なしきたりが、この世のどこにあるのよぉぉぉぉっっっっ!!!!」
カッ!! と千尋の瞳に業火が灯った。
帝国最強の騎士たる公爵を一喝で黙らせる、元社畜OLの凄まじい気迫。
アルヴィスは喉を詰まらせ、完全に直立不動のまま縮こまるしかなかった。
「しきたりだか格式だか知らないけれど、人間が息もできない服を着せるなんて、ただの拷問具じゃない! 肺が広がらない状態で何時間も馬車に揺られて……どれだけ苦しかったか、あんたたちには分からないの!?」
千尋の叫びを聞きながら、抱きしめられているノエルは、完全に混乱していた。
公爵を怒鳴りつけている。
平民の娘が、あの「氷の死神」と恐れられるアルヴィス公爵を、子供を叱る母親のように怒鳴りつけている。
そして――何よりノエルを打ちのめしたのは、千尋が自分に向けてくれている、その猛烈な「怒り」の正体だった。
自分を責めているのではない。
自分の苦しみを、自分の痛みを、誰よりも理解し、自分の代わりに理不尽な世界に対して激怒してくれているのだ。
「あ、あの……わたくしは……平気、ですわ……」
ノエルは消え入りそうな声で、なおも礼儀の仮面を守ろうとした。
「これは……淑女の嗜みで……わたくしが、至らないだけで……」
「あんたは黙ってなさい!」
千尋は優しく、けれど絶対に逆らえない強い口調でノエルの言葉を遮った。
「苦しい時に『平気』なんて言うんじゃないの! 息ができないのは、あんたのせいじゃない! こんな理不尽な服を作った連中と、それを強要した馬鹿どもが悪いのよ!」
千尋は躊躇なく、ノエルの身体を支えながら、小屋の縁側へと上がらせた。
泥落としのスノコの上で、ノエルの足首を締め付けていた高いヒール靴を、手際よく引き抜く。
スポン、スポンッ!
拷問具のような靴から解放された瞬間、ノエルの白ウールの靴下が、香月木の白木の縁側の上へと下ろされた。
「ちょっと、動かないでね」
千尋はエプロンのポケットに手を突っ込み、一振りの道具を引き抜いた。
ジャキィン。
鈍い金属音を立てて現れたのは、千尋が日頃、麻布の裁断やシーツの仕立てに使っている、刃渡りの長い大きな「鉄製の裁ちバサミ」だった。
「ひっ……!?」
刃物の輝きを見たノエルが、怯えて身体を強張らせる。
アルヴィスも血相を変えて制止の声を上げかけた。
「ち、千尋! それはルミエール王家の国宝級の夜会ドレスで――」
「うるさい! 脱がせるための編み上げ紐を解いてる時間すら惜しいわ!!」
千尋はノエルの背後へと、電光石火の身のこなしで回り込んだ。
ドレスの背中。
そこには、細いウエストを極限まで絞り上げるため、何重にも交差して硬く結び合わされ、もはや指先では解けないほどガチガチに固まった、強靭な絹の編み上げ紐が張り巡らされていた。
肋骨を締め上げる、呪いの鎖。
千尋は迷うことなく、裁ちバサミの鋭利な刃先を、その編み上げ紐の最も強く張り詰めた中央の結び目へと差し入れた。
そして――全身の力を込めて、刃を噛み合わせた。
――ジャキンッッッ!!
乾いた、鋭い破断音が、秋の空へと響き渡った。
「あっ……!」
ノエルの口から、細い悲鳴が漏れた。
パシィィィィィンッッッ!!
次の瞬間、まるで張り詰めた弓の弦が弾け飛んだかのような、凄まじい衝撃音が響いた。
千尋が紐を断ち切った瞬間、内部に蓄積されていた凄まじい張力が一気に解放され、何本もの硬質な鯨骨のステー(骨組み)が、バチバチと音を立てて外側へと弾け飛んだのだ。
締め上げられていたドレスの背中が、左右へと大きく裂けるように開き、重苦しいパニエの針金が歪んで床へと落ちていく。
パサリ……。
ノエルの身体から、十七年間の人生を縛り続けていた、重く冷たい「金属の枷」が、完全に抜け落ちた瞬間だった。
「…………っ、ぁ……!」
ノエルの身体が、大きくグラリと揺れた。
圧迫されていた胸郭が、外側からの暴力的な拘束を失い、一気に元の位置へと押し戻される。
肋骨が軋む痛みが消え去り、押し潰されていた内臓が、驚いたように血流を取り戻していく感覚。
千尋はハサミを床に置き、背後からノエルの華奢な身体を、両腕で優しく、けれどしっかりと抱き留めた。
耳元で、囁くように、穏やかな声が落ちてくる。
「……はい、深呼吸の準備。息を吐いて……そう、全部吐き出して」
千尋の手が、ノエルの背中を上から下へ、優しく優しく撫で下ろす。
呼吸の仕方を忘れていた少女の魂を、硬直した筋肉を、千尋の【住空間の調律】が手のひらを通してじんわりとほぐしていく。
「……吸うのよ。胸いっぱいに、この森の空気を吸い込みなさい」
ノエルは、千尋の胸の中に身を預けたまま、震える唇を、おずおずと開いた。
すうぅぅぅぅぅぅぅぅ……ッ。
冷たく、清らかな、秋の薫風が。
太陽の光と、枯葉の香ばしさと、ラベンダーの甘い匂いをたっぷり含んだ常闇の森の空気が。
生まれて初めて、何の邪魔も受けることなく、彼女の気管を通り抜け、肺胞の奥の奥まで――胸の底の底まで、怒涛の勢いで満ち溢れていった。
「…………っ、は……ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!!」
ノエルの喉から漏れ出たのは、悲鳴ではなかった。
人間が、自らの命を取り戻した瞬間にしか上げることのできない、魂の産声だった。
血が巡る。
酸素を含んだ温かな血液が、ドクドクと勢いよく心臓から送り出され、冷え切っていた手足の先へ、青白かった頬へ、そして過熱していた脳の隅々にまで駆け巡っていく。
紫色だった唇に、みるみるうちに瑞々しい桜色の赤みが差していく。
瞳の奥に淀んでいた暗闇が光の粒子に洗われ、ルミエールの青空のような、どこまでも澄み切った碧眼の輝きが蘇っていく。
「あ……っ、わたくし……いき、が……っ」
ノエルは自らの胸に両手を当て、信じられないものを見るように見開いた目で、自分の呼吸を確かめた。
胸が膨らむ。
痛くない。
苦しくない。
息を吸うという、ただそれだけのことが、これほどまでに甘美で、これほどまでに温かい奇跡だったのか。
「……ふふ、吸えたわね」
千尋はノエルの背中をぽんぽんと優しく叩き、悪戯っぽく笑いかけた。
「さあ、こんな重たくて邪魔なボロ布、全部脱ぎ捨てちゃいましょう! 世界で一番気持ちいいお洋服に着替えさせてあげるからね!」
秋の木漏れ日が、縁側の白木を暖かく照らし出していた。
社交界の冷酷な檻は、一振りのハサミによって粉々に断ち切られた。
呼吸を取り戻した少女の頬を、大粒の温かな涙が、静かに、けれど確かに伝い落ちていた。




