第41話:風を吸い込むリネンワンピース。十七歳の初めての深呼吸
パシィィィンッ! と甲高い音を立てて断ち切られた鯨骨コルセットの残骸が、縁側の板張りの隅へと無造作に転がり落ちていく。
千尋の裁ちバサミによる電光石火の外科手術ならぬ「拘束解除作業」によって、背中の編み上げ紐を失った豪奢な紫紺の夜会ドレスは、まるで重力に負けた抜け殻のように、ノエルの足元へとハラリと滑り落ちた。
「きゃっ……!?」
突如として外皮を奪われた小鳥のように、ノエルは細い両腕で自らの肩を抱きしめ、おずおずと身を縮こまらせた。
何重にも重ねられていた針金入りのペチコート、ペラペラと嵩張るばかりのシルクのスカート、そして肋骨を万力のように締め付けていた鯨骨のステー。それらすべてが床へと崩れ落ち、秋の微風が、下着姿となったノエルの剥き出しの肌をひやりと撫でる。
その薄い下着越しに見える十七歳の少女の身体は、千尋が外側から見て想像していた以上に、痛々しいほどに骨張っていた。
背中には、コルセットの骨組みが硬く食い込み続けていたことによる、生々しい赤紫色の圧迫痕が幾重にも筋となって刻まれ、皮膚は過度な摩擦と汗の蒸れによって赤く爛れかけている。
「……酷い。こんな鉄の檻みたいなものを、毎日朝から晩まで巻き付けられていたのね」
千尋の眉間に、深い怒りと哀憐の皺が寄った。
だが、感傷に浸っている暇はない。立ち止まっていれば、秋の森の冷気で冷え切った少女の身体が風邪を引いてしまう。
「アルヴィスさん! 男の人はあっち向いてて! 目を逸らすのよ、絶対に見ちゃダメ!」
「あ、ああ……! 無礼な真似は断じてせん!」
縁側の外の敷石の上で、アルヴィスは耳の先端まで真っ赤に染め上げながら、直立不動の姿勢で素早く回れ右をした。帝国最強の騎士が、エプロン姿の娘の一喝に怯え、庭の楡の木の幹を穴が開くほど見つめて硬直している姿は、普段の威厳を知る者が見れば腰を抜かすような光景だった。
「ルゥ、あんたもよ! 男の子なんだから、そこの座布団でおとなしく丸まってなさい!」
「わふ……ぼくは獣の姿だから関係ないと思うのだが……」
ルゥは不満そうに喉を鳴らしながらも、千尋のただならぬ気迫に気圧され、縁側の隅で素直にしっぽを丸めて伏せの姿勢をとった。
周囲の視界を完璧に遮断した千尋は、ノエルを抱きかかえるようにして、手早く寝室の引き戸を開け放った。
「さ、こっちへおいで。風に当たると冷えちゃうからね」
寝室の中へと導かれたノエルは、床を踏みしめる素足の感触に、早くも小さく息を呑んだ。
靴下すら脱ぎ捨てられた素足の裏を、パイン無垢材の滑らかな木肌が、吸い付くような温もりで迎える。トゲやささくれなど微塵もない、千尋の【住空間の調律】によって極限まで磨き込まれた床板。
部屋の中には、窓辺から差し込む秋の柔らかな陽だまりと、天日干しされたカモミールの甘やかなアロマが満ち、王都の宮殿のような冷たく刺々しい威圧感は欠片も存在しなかった。
「ノエルちゃん、その下着も脱いじゃいなさい。ワイヤーが入ってて苦しいでしょ」
「えっ……で、でも……下着まで……!?」
「いいのいいの! 誰も見てないし、体を締め付けるものは一ミリたりとも残しちゃダメ!」
千尋は手慣れた手つきで、ノエルの胸元を無理やりに押し上げていたワイヤー入りの窮屈な下着のホックをパチンと外した。
代わりに彼女の華奢な上半身へと滑り込ませたのは、千尋が自分用に針と糸で手縫いして仕立てておいた、天然木綿百パーセントの、縫い目のない柔らかなキャミソールだった。ゴムの締め付けすら一切ない、肌にふわりと寄り添うだけの優しい布地。
そして――千尋が箪笥の引き出しから取り出したのは、一枚のロングドレスだった。
「はい、バンザイして」
「ば、ばんざい……?」
聞き慣れない言葉にノエルが戸惑っていると、千尋が優しくノエルの両手首を取って、上へと持ち上げさせた。
すっぽりと、頭から被せられる布の重み。
サァッ……。
それは、千尋が日頃から愛用している部屋着――「洗いざらしのリネンサンドレス(ノースリーブワンピース)」だった。
染料すら使っていない、自然のままの生成り色。
井戸の清冽な地下水で何度も何度も洗い込まれ、秋の太陽と風を吸い込んで乾かされた最高級の平織り麻布。
首回りはゆったりとしたラウンドネックで鎖骨を締め付けず、脇の下の開きも広くとられ、胸元から裾にかけては、布地がたっぷりとしたドレープを描いて足首までふわりと広がっている。
ウエストを絞るベルトもなければ、背中のファスナーも、ボタンすらひとつもない。ただ、上から被るだけで全身を優しく包み込んでくれる、究極のリラックスウェア。
ストン、とリネンの裾がノエルの足首の上へと落ちた。
「…………っ……」
ノエルは、自分の身体を覆ったその布の感触に、驚愕のあまり目を丸くした。
軽い。
重さが、ない。
これまで彼女が身につけてきたドレスは、何十枚もの布地と宝石、金属の留め具のせいで、一着で数キロの重量があった。動くたびに肩や腰へと重石のようにのしかかり、着ているだけで体力を削り取られる「鎧」だったのだ。
だが、この服はどうだ。
まるで、温かな空気の層を一枚纏ったかのような、信じられないほどの軽やかさ。
麻のざっくりとした、けれど肌を引っ掻かないサラサラとしたテクスチャーが、汗ばんでいたノエルの背中や胸元の皮膚を、優しくサラリと撫でていく。
「ふふ、よく似合ってるわ。可愛いじゃない」
千尋は満足そうに微笑むと、ノエルの手首をそっと引き、寝室から再び南向きの縁側へと連れ出した。
「さ、お外へ出ましょう。アルヴィスさん、もう振り向いていいわよ!」
声をかけられたアルヴィスが、恐る恐る振り返った。
そして――白木の縁側の上に立つノエルの姿を視界に収めた瞬間、氷の公爵のサファイアの瞳が、ハッと大きく見開かれた。
「…………ノエル、様……?」
そこにいたのは、王都の宮殿で死人のような笑みを張り付けていた、あの痛々しい公女の姿ではなかった。
真珠や銀の重たい髪飾りは千尋の手によってすべて外され、プラチナブロンドの豊かな髪が、秋の光を浴びてさらさらと風に靡いている。
身に纏うのは、飾り気のない、素朴な生成りのリネンワンピース。
そして足元は――あの爪先を押し潰すような凶悪なヒール靴ではなく、完全に裸の「素足」だった。
華美な装飾をすべて剥ぎ取られたその姿は、息を呑むほどに純真で、まるで森の泉から抜け出してきた妖精の少女のように、透き通るような美しさを放っていた。
「ほら、ノエルちゃん。縁側の真ん中に立って」
千尋はノエルの背中を優しく押し、香月木の白木の真ん中へと立たせた。
深い軒の下、秋の澄み切った陽だまりが、足元の床板をぽかぽかと温めている。
「足の指、パーに広げてみて」
「えっ……あ、足の指を……ですか……?」
戸惑いながらも、ノエルはおずおずと視線を自分の足元へと落とした。
白木の木肌の上に下ろされた、自らの素足。
生まれてこの方、高貴な公女として靴を脱いで人前に素足を晒すことなど、一度たりとも許されなかった。足元を覆うのは常に、硬い革と鋭いヒール。足指は重なり合って鬱血し、感覚を失いかけていた。
ノエルは恐る恐る、足の指先に力を込め、ギュッと丸めた後――パーッと、五本の指を外側へと大きく広げてみた。
サクッ……。
「…………っ!!」
その瞬間、ノエルの背筋を、電撃のような快感が駆け抜けた。
指と指のあいだを、秋の乾いた空気がすーっと通り抜けていく。
足裏全体が、香月木のきめ細やかな木肌に吸い付くように密着し、床が蓄えていた太陽の微熱が、足の裏のツボを通して、じんわりとふくらはぎへと吸い上げられていく感覚。
どこにも痛いところがない。
どこにも締め付けがない。
大地の上に、ただ己の二本の足で真っ直ぐに立っているという、生まれて初めての強烈な「接地感」。
「あ……足が……ひろがる……? いたく、ない……?」
ノエルの唇から、掠れた呟きが漏れる。
その時だった。
ヒュウゥゥゥ……と。
常闇の森の奥深奥から、ひんやりと冷涼な、けれど陽だまりの温もりを含んだ初秋の薫風が、南向きの庭を吹き抜けてきた。
深い軒をくぐり抜けた風が、ゆったりとしたリネンワンピースの裾を、ふわりと大きく持ち上げた。
「あっ……!」
ノエルは思わず両腕を広げた。
風が、服の中を通り抜けていく。
コルセットという鉄壁の防壁に遮られていた風が、ゆったりとしたリネンの織り目を通り抜け、脇の下を抜け、背中を撫で、胸元をすり抜けて、全身の皮膚という皮膚を、まるで羽毛で撫でるかのようにさらさらと通り過ぎていく。
チリ……ン……。
頭上の軒先で、ガラス鉱石の風鈴が、世界で一番澄んだ高い音を一粒、森の静寂へと零し落とした。
プランターに植えられたスペアミントの爽快な香りが、風に乗ってふわりと鼻腔をくすぐる。
「ノエルちゃん」
傍らに立つ千尋が、優しく微笑みかけながら、自らの胸に手を当ててみせた。
「鼻から吸って、口からゆっくり吐いて。……息、吸えるでしょ?」
千尋の温かな声に促され、ノエルはおずおずと、自らの胸へと細い手を添えた。
肋骨を締め上げる万力はない。
肺を押し潰す鯨骨の凶刃もない。
あるのはただ、ゆったりとした麻の布地と、どこまでも広がる自由な空間だけ。
ノエルは瞼を閉じ、小さく開いた唇から――息を、吸い込んだ。
すうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……ッ。
その瞬間、ノエルの世界が、音を立てて色鮮やかに弾け飛んだ。
入ってくる。
空気が、入ってくる。
喉元で引っかからない。気管の途中で押し戻されない。
青い森の木々の匂い、手入れされた家庭菜園の黒土の香り、天日干しされたカモミールの甘美な芳香、そして太陽の光そのものの暖かな匂い。
それらの滋養をたっぷり含んだ清冽な大気が、まるで枯れ果てた大地に注ぎ込まれる清流のように、彼女の肺胞の隅々へ、胸の奥深くまで、そして――十七年間の人生で一度も届いたことのなかった、お腹の底の底の最深部にまで、怒涛の勢いで満ち溢れていったのだ。
胸郭が、大きく、豊かに広がる。
肋骨が自然なアーチを描いて持ち上がり、横隔膜がぐっと押し下がる。
肺いっぱいに酸素を溜め込んだ瞬間、ノエルの心臓が――トクンッ! と、力強く、激しく跳ね上がった。
そして――。
ふうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……。
口から、長く、深い息が吐き出された。
胸の奥に澱んでいた王都の毒気、社交界の恐怖、疑心暗鬼、冷たい悪意、そして自らを縛り続けていたすべての重圧が、その一息とともに、白い霧となって秋の空へと吐き出されていく。
「…………っ……あ……」
ノエルの全身の毛細血管が、一斉に花開いた。
酸素を取り戻した血液が、猛烈な勢いで全身を巡り始める。
冷え切っていた手足の指先へと、じんわりとした温もりの奔流が駆け込み、チアノーゼを起こして紫色だった唇が、一瞬にして生まれたての薔薇の花びらのような、瑞々しい桜色へと染め上がっていく。
青白く濁っていた頬に、ポッと、健康的な紅潮が差した。
ノエルは目を見開いた。
その碧眼は、先ほどまでの絶望の濁りを完全に脱ぎ捨て、まるで雨上がりのルミエールの青空のように、キラキラと眩い光を宿していた。
「あ……っ……わたし……いきが、できる……」
震える声が、ノエルの唇から零れ落ちた。
自らの胸に当てた手のひらに、ドクドクと力強く脈打つ温かな心音と、呼吸に合わせて規則正しく上下する胸の膨らみが、確かに伝わってくる。
「くるしく、ない……っ。いきを、すっても……むねが、いたくない……っ!!」
当たり前のことだった。
生きている人間が、息を吸い、息を吐く。
それだけのことが、どれほど尊く、どれほど甘美で、どれほど生きている実感に満ちた奇跡であるのかを――十七歳の少女は、生まれて初めて知ったのだ。
ボロボロと、大粒の涙がノエルの瞳から溢れ出した。
堪えようとしても、止まらなかった。
かつて王都で流していた、恐怖と悔しさの冷たい涙ではない。
身体の芯から湧き上がってくる、圧倒的な安堵と、生への歓喜の涙だった。
涙は顎を伝い、生成りのリネンワンピースの胸元へと、ポタリ、ポタリと濃い染みを作っていく。
「うっ……うわぁぁぁん……っ、ひぐっ……ふぇぇぇぇん……っ!!」
ノエルはその場にペタンと座り込み、素足の膝を抱えて、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
十七歳の公女としての体裁も、社交界の淑女としてのプライドも、すべてが涙となって流れ去っていく。
ただの一人の、傷つき、疲れ果てていた少女が、ようやく呼吸を許された世界の中で、心の底から感情を解き放っていた。
「……よしよし。いっぱい泣きなさい」
千尋はノエルの隣に膝をつき、その細い肩を抱きしめた。
トントン……と、背中を優しくリズミカルに叩く。
リネンの布越しに伝わってくる、生身の人間の柔らかな体温。
「我慢しなくていいのよ。息を吸って、泣いて、お腹が空いたらご飯を食べる。……人間なんてね、それだけで百点満点なんだから」
千尋の穏やかな声が、秋の薫風に溶けていく。
その光景を敷石の上から見つめていたアルヴィスは、静かに目を細め、深く、長い息を吐き出した。
胸の奥を締め付けていた重苦しい罪悪感が、雪解け水のようにすっと引いていくのを感じていた。
王族の権力でも、軍隊の武力でも救えなかった隣国の公女の魂が今、この山小屋の縁側で、一枚の素朴なリネンワンピースと素足の深呼吸によって、確かに救い出されていた。
縁側の隅からは、ルゥがトコトコと歩み寄ってきて、泣きじゃくるノエルの足元に前足をちょこんと乗せ、「くぅん」と優しく鼻を鳴らした。
神獣の柔らかな温もりが、ノエルの足首を温める。
頭上では、風鈴が「チリン……」と涼やかに揺れていた。
秋の木漏れ日の中、息を吹き返した少女の新しい人生が、常闇の森の温かな住空間の中で、静かに、けれど力強く動き始めていた。




