第39話:社交界の檻から逃げてきた、陶器の人形
北方の山並みを越えて吹き降ろす風が、ハルデンベルク公爵邸の堅牢な黒曜石の壁を冷たく撫でていた。
三日間にわたる国境沿いの領境査察を終え、城へと帰還したアルヴィス・フォン・ハルデンベルクは、執務室の窓辺に立ち、鉛色の雲が垂れ込める南の空を無言で見つめていた。
北方軍総大将としての長旅の疲労は、かつてのように彼の肉体を蝕んではいなかった。千尋の小屋で重ねてきた「本物の睡眠」と滋養に満ちた食事の蓄積が、彼の体内で魔力嵐が再燃するのを完全に防ぎ止めていたのだ。
だが、そのサファイアの双眸には、査察の疲れとはまったく別の、重苦しい影が沈んでいた。
「……閣下。王都からの極秘警護部隊が、城門の第二哨所を通過いたしました」
ノックとともに執務室に入ってきた副官ユーグが、沈痛な面持ちで羊皮紙の書状を机の上に置いた。
その書状に押されていたのは、エルダリア王国王室の金文字の封蝋と、同盟関係にある隣国「ルミエール公国」の白百合の紋章だった。
「予定通りだな、ユーグ」
「はっ……。表向きは、北方の清涼な空気による『静養と避暑』とされておりますが……実態は、王都の泥沼の権力闘争からの一時的な隔離、いえ、事実上の厄介払いでございます」
ユーグの言葉に、アルヴィスは薄い唇を固く引き結んだ。
事の発端は、数ヶ月前に遡る。
エルダリア王国と長年軍事同盟を結んできた隣国ルミエール公国から、同盟強化の証として嫁いできた若き公女――ノエル・ド・リュミエール。齢わずか十七歳。
ルミエール大公家の直系であり、息を呑むような美貌と高貴な血統を持つ彼女は、来訪当初、王都の社交界の中心として華々しく迎えられたはずだった。王太子妃の最有力候補として、誰もが彼女を称賛し、跪いた。
しかし――王都という場所は、華やかな黄金の刺繍で覆い隠された、猛毒のサソリが蠢く底なしの泥沼だった。
他国の皇女が王太子の寵愛を受けることを快く思わない王都の有力貴族派閥。特に、大公派の重鎮貴族たちは、ノエルを権力の座から引きずり降ろすため、ありとあらゆる陰湿な謀略を張り巡らせたのだ。
夜会での冷酷な品定め。
耳を塞ぎたくなるような嘲笑と、聞こえよがしに囁かれる悪意に満ちた陰口。
少しでも完璧な淑女の規範から外れれば「野蛮な東方の田舎公女」と蔑まれ、お茶会に出される菓子や紅茶には、毒物探知の銀匙を黒変させるような微量の遅効性毒や下剤が幾度となく仕込まれた。
誰が味方で、誰が敵なのか。
微笑みかけてくる淑女の扇の影に、どんな凶刃が隠されているのか。
十七歳の少女が一人きりで耐え抜くには、王都の社交界という檻は、あまりにも残酷で、あまりにも毒気に満ちていた。
「……王都の密偵からの報告によれば、ノエル公女殿下はここ一ヶ月、固形物をほとんど口にできず、夜も一睡もできぬまま自室で震えておられたとのことです」
ユーグが声を潜めて言った。胃痛の苦しみを知る彼だからこそ、その報告書を読み上げる声にはやり場のない憤りが滲んでいた。
「王室医師団は『心気症による衰弱』と片付け、厄介払いのように北方辺境のハルデンベルク領へ療養名目で送り込んできたのです。もし殿下が我が領内で息絶えるようなことがあれば、公国との外交問題に発展しかねません……」
「……死なせはしない」
アルヴィスは低く、地這うような声で断じた。
「我が領地に迎え入れた以上、誰であろうとハルデンベルクの誇りにかけて庇護する。……出迎えるぞ」
◇
ガラガラガラ……パッカ、パッカ、パッカ……。
重苦しい車輪の軋みとともに、公爵邸の中庭へと一台の豪奢な馬車が滑り込んできた。
白と金で装飾された王室専用の四頭立て大型馬車。しかし、長旅の泥に汚れたその車体は、どこか華美な棺桶のような陰鬱な気配を漂わせていた。
馬車が止まり、近衛兵が恭しくステップを下ろして扉を開ける。
中庭に整列した騎士たちや、テレーゼ率いるメイドたちが一斉に頭を垂れる中、車内から、静かにひとつの影が降り立とうとしていた。
そして――。
従者の手に支えられながら、ステップへと爪先を下ろしたその姿を目にした瞬間、出迎えたアルヴィスも、ユーグも、そして歴戦のメイド長テレーゼすらも、思わず息を呑んで凍りついた。
「…………っ」
そこに現れたのは、瑞々しい十七歳の少女などでは断じてなかった。
それはまるで――今にも自らの重みで粉々に砕け散ってしまいそうな、痛々しいほどに儚い「白磁の陶器人形」だった。
透き通るような白金ブロンドの長髪は、王都の厳格な宮廷儀礼に従って一分の乱れもなく複雑に結い上げられ、重たい真珠と銀の髪飾りが何重にも挿し込まれている。
纏っているのは、ルミエール公国の格式を示す最高級の絹とレースをふんだんに使った、豪奢極まりない紫紺の夜会用ドレス。スカートは何層ものペチコートと巨大なパニエによって大きく膨らまされ、裾には細やかな宝石が散りばめられていた。
しかし、その華麗な装飾とは裏腹に、彼女の肉体は――見るも無惨なほどに削り取られていた。
首筋から覗く鎖骨は刃物のように鋭く突き出し、手首は少し力を込めればポキリと折れてしまいそうなほど細い。
陶器のように白い肌には、生きている人間の放つべき温かな血色は微塵もなく、死人のように青白く濁っていた。
そして何より――彼女の胸元。
王都社交界の歪んだ美の規範――「小鳥のように細いウエストこそが高貴の証」という狂気の美意識に従い、ドレスの内側に仕込まれた硬質な鯨骨のコルセットが、親指と人差し指で輪が作れるのではないかと思えるほどに、暴力的な力でギリギリと締め上げられていたのだ。
(……息をしていない……!?)
アルヴィスの鋭い眼光が、ノエルの胸元の微細な動きを捉えた。
肺が広がる余白などどこにもない。
コルセットの鉄と骨の骨格が、彼女の肋骨を内側へと押し潰し、内臓を圧迫しているせいで、呼吸は浅く、速く、喉元だけで微かに空気を貪るようにヒュウ、ヒュウと掠れた音を立てている。酸欠のせいで、薄い唇は不健康な紫色に変色し、指先は細かく痙攣していた。
ト……と、頼りない足取りで石畳を踏みしめたノエル。
その両足には、細い革紐で足首を限界まで締め付けた、爪先の尖った高いヒール靴が履かれていた。歩くたびに激痛が走るのか、膝が小刻みに震え、風が吹けばそのまま倒れ込んでしまいそうだ。
やがて、ノエルは出迎えたアルヴィスの前に進み出た。
その瞳――かつてはルミエールの青空のように澄んでいたはずの碧眼は、底なしの暗闇に沈み、一片の光も宿していなかった。周囲に並ぶ屈強な北方騎士たちの姿を見るたび、彼女の瞳の奥に、怯えた小鳥のような激しい恐怖の波が走る。
だが。
そんな限界状態にありながら、ノエルは――。
スッ……と、流れるような所作でドレスの裾を摘み上げると、完璧な角度で膝を折り、深く優雅なカーテシー(淑女の礼)を披露してみせたのだ。
そして、顔を上げたその唇には。
「……お初にお目にかかります、ハルデンベルク公爵閣下。ルミエール公国が娘、ノエル・ド・リュミエールにございます。……この度は、北方辺境の地にてご厄介になりますこと、心より感謝申し上げますわ」
完璧な。
しかし、表情筋だけを機械的に引き攣らせたような、心の一片も通っていない「貴族の作り笑い」が、仮面のように貼り付けられていた。
「…………」
アルヴィスの胸を、鋭利な氷の破片で突き刺されたような激痛が貫いた。
知っている。
この目を。この表情を。この、魂が死に絶えているのに体裁だけを取り繕って笑顔を浮かべる痛々しい姿を、アルヴィスは嫌というほど知っていた。
かつて、魔力暴走の激痛と不眠に苛まれ、いつ狂気に呑まれるか分からない恐怖に怯えながら、部下たちの前で「冷徹な総大将」の仮面を被り続けていた、あの忌まわしい過去の自分自身の姿そのものだった。
「……ノエル様」
アルヴィスは威圧感を極限まで殺し、低く、穏やかな声で語りかけた。
「長旅、誠にご苦労でした。……無理に喋る必要はありません。礼儀も、挨拶も不要です。まずは部屋へ入り、身体を休めてください」
主君としての、心底からの気遣いの言葉だった。
だが――その優しさすらも、王都の毒気に蝕まれた少女の心には、別の「試練」として届いてしまったようだった。
ノエルの肩がピクリと跳ね、貼り付けた笑みをさらに必死に引き締めながら、震える声で答えた。
「い、いいえ……滅相もございませんわ、閣下。わたくしは、平気ですわ……。ルミエールの誇りある公女として、これくらいの行軍で弱音を吐くような無作法はいたしません……。どうぞ、公爵家の定めに従い、どのような儀礼でも申し付けてくださいまし……」
平気、なはずがなかった。
その額には大粒の冷や汗が滲み、呼吸はますます乱れ、指先はドレスの布地を千切れるほど強く握りしめている。
弱みを見せれば、また蔑まれる。
「使えない田舎娘」と王都へ書き送られ、祖国の立場を危うくしてしまう。
倒れることすら許されないという恐怖の呪縛が、彼女の細い身体を内側から縛り上げていた。
「……テレーゼ」
アルヴィスが低く呼ぶと、後ろに控えていたメイド長が進み出た。
「客室へ案内しろ。……最高のもてなしを用意しろ」
「畏まりました、閣下」
テレーゼは深く一礼し、ノエルの傍らに寄り添った。
倒れそうになる少女の肘をそっと支えながら、公爵邸の本館へと消えていく二人の背中を、アルヴィスは拳を握りしめたまま見送るしかなかった。
◇
公爵邸の最上階、もっとも日当たりが良く、静かな特等客室。
豪奢な天蓋付きベッド、毛足の長い羊毛の絨毯、壁には暖炉の火が赤々と燃え、テーブルには公爵邸の料理長が腕によりをかけた豪華な晩餐が並べられていた。
北方特産の最高級鹿肉のロースト、濃厚な牛骨の煮込みスープ、白パン、そして領都の温室で育てられた甘い果実のコンポート。
しかし――その部屋の空気は、まるでお通夜のように重く沈んでいた。
「……オエッ……ケホッ、ケホッ……!」
客室の洗面台の前で、ノエルは口元を押さえ、激しく胃液を吐き戻そうとしていた。
何も胃に入っていないため、吐き出されるのは苦い唾液だけだ。
テーブルに並べられた豪奢な肉料理から立ち上る濃厚な脂の匂い。普段ならば王侯貴族を唸らせる絶品の香りが、今のノエルにとっては、胃袋を内側から引っ掻き回すような猛烈な悪臭でしかなかった。
「ノエル様……! 白湯をお持ちいたしました、口をゆすいでください!」
テレーゼが背中をさすりながら、銀のカップを差し出す。
しかし、ノエルはそのカップを見た瞬間、ビクッと身体を縮こまらせ、怯えた目でテレーゼを見上げた。
「……そ、そのお水には……な、何も……入って、いませんわね……?」
「入っているはずがございません! 公爵邸の清潔な井戸から汲み上げた、ただの白湯でございます!」
「あ……ご、ごめんなさい……ごめんなさい……! わたくし、失礼なことを……っ」
ノエルは震える手でカップを受け取ったが、唇を濡らす程度に一口含むと、喉が痙攣してそれ以上飲み込むことができなかった。
拒食。
王都でいつ毒を盛られるか分からないという極限の疑心暗鬼に晒され続けた結果、彼女の自律神経は完全に破壊され、固形物はおろか、水を受け付けることすら身体が拒絶していたのだ。
「ノエル様、ドレスをお脱ぎになりませんか? そのコルセットを外して、楽な寝間着に着替えましょう」
テレーゼが痛ましそうに声をかける。
だが、ノエルは首を激しく横に振った。
「だ、ダメです……! 公爵邸の皆様に……だらしない姿を……見せるわけには……まいりません……! 完璧な淑女で……いなければ……お父様に、叱られてしまいます……」
恐怖に支配された瞳。
彼女はベッドの端に腰掛けたが、天蓋付きベッドの分厚いスプリングマットレスに身体を預けることすらできず、背筋をピンと伸ばしたまま、固く拳を握りしめていた。
眠れるはずがなかった。
肋骨を圧迫するコルセットの激痛。
頭蓋の奥でカンカンと鳴り響く偏頭痛。
目を閉じれば、王都の貴婦人たちの嘲笑が、冷酷な品定めをする視線が、暗闇の中から無数に湧き上がってきて彼女の喉を締め上げる。
一晩中、明かりを消すこともできず、ノエルはただ、冷え切った自らの指先を見つめながら、静かに、音もなく涙を零し続けていた。
◇
翌朝。
公爵邸の執務室の空気は、昨日以上に重苦しく沈み込んでいた。
「……昨夜の食事は、一切手つかずでございます」
報告に訪れたテレーゼの声は、沈痛を極めていた。
「白湯をスプーン一杯召し上がっただけで、激しい嘔気(吐き気)を催され……寝台に入られることもなく、椅子に腰掛けたまま、一睡もなさらずに夜を明かされました。……今朝、お顔を拝見いたしましたが、唇のチアノーゼ(紫色)はさらに濃くなり、もはや自力で立つことすらままならない状態です」
「……このままでは、一週間も持たんぞ」
アルヴィスが執務机の天板を拳で強く叩いた。
サファイアの瞳の奥で、激しい怒りと焦燥が渦巻いている。
王都の腐りきった貴族どもへの怒り。そして、目の前で壊れかけている罪なき少女を、公爵としての権力や財力をもってしても救うことができない己の無力さへの焦燥。
「王都から高位の治癒魔導士を呼び寄せますか、閣下?」
ユーグが進言するが、アルヴィスは首を横に振った。
「無駄だ。治癒魔法は肉体の外傷を塞ぐことはできても、恐怖で縮こまった心や、荒れ果てた自律神経を癒やすことはできん。……ましてや、見知らぬ魔導士が魔力を流し込めば、彼女の過敏になった神経は余計にパニックを起こすだけだ」
アルヴィスは立ち上がり、執務室の窓から北西の方角――常闇の森の彼方を見つめた。
かつての自分もそうだった。
どんな神殿の高名な大司教の鎮静祈祷も、どんな高価な精神安定薬も、彼の凍てついた心を溶かすことはできなかった。
重圧に押し潰され、呼吸の仕方を忘れ、死の淵へと彷徨い込んだ人間を救うことができるのは――。
権力でも、豪奢な宮殿でも、仰々しい魔法でもない。
――埃ひとつない、磨き上げられた木の床。
――太陽の光とハーブの香りをたっぷり吸い込んだ、ふかふかの干し草ベッド。
――靴を脱ぎ捨て、素足で外の風を感じられる、白木の縁側。
――そして、弱り切った胃袋を優しく包み込む、温かな一杯のスープ。
(……千尋……)
脳裏に浮かんだのは、エプロン姿で腰に手を当て、「土足厳禁!」と笑う、あの飾らない少女の横顔だった。
あそこしかない。
この世界で唯一、すべての身分と重圧の鎖を解き放ち、ただ一人の人間として「深呼吸」を許してくれる、奇跡の聖域。
アルヴィスがゆっくりと振り返った。
その瞳からは迷いが完全に消え去り、静かで、確固たる決意の光が宿っていた。
「……ユーグ。馬車を用意しろ」
「はっ……? 馬車、でございますか? どちらへ向かわれるおつもりで……」
「常闇の森だ」
アルヴィスは短く、けれど凛とした声で命じた。
「ノエル公女を、千尋の小屋へ連れて行く。……極秘のピクニックだ」
「なっ……!?」
ユーグとテレーゼが、揃って目を見開いた。
他国の公女を、護衛もつけずに森の廃屋へと連れ出すなど、本来ならば軍規にも外交儀礼にも反する前代未聞の暴挙だ。
しかし――テレーゼは反対するどころか、その鳶色の瞳をパッと明るく輝かせ、力強く頷いてみせた。
「……名案でございます、閣下! あの子屋の空気と、千尋様のあたたかな手料理……そしてあのふかふかの寝具こそが、ノエル様の凍てついた心を救う、唯一無二の特効薬に違いありませんわ!」
「テレーゼ、お前も着替えの準備を手伝え。……窮屈なドレスの代わりになる、もっとも柔らかく、肌に優しい布地を用意するのだ」
「畏まりました! 直ちに手配いたします!」
主従の迷いは消え去っていた。
社交界の冷酷な檻に閉じ込められ、呼吸を奪われた陶器の人形を救い出すための、秘密の救出作戦。
アルヴィスはマントを翻し、少女が待つ客室へと大股で歩み出したのだった。




