第35話:金貨の山より上質な醤油をくれ。欲なき元社畜の勝利
秋晴れの澄んだ青空の下、山小屋の南側に張り出した白木の縁側には、静かな風鈴の音色と、対照的に張り詰めた商談の空気が漂っていた。
「僕と専売契約を結ばないかい? 流通も、貴族たちへの売り込みも、防犯も、すべて僕が完璧に手配してあげる。あなたはこの小屋で石鹸を量産し、花を干すだけでいい。……僕が、あなたを一生遊んで暮らせる『大富豪』にしてあげるよ」
旅の行商人にして当代屈指の敏腕情報屋――イヴァン・クレマンは、自らが提示した条件の完璧さに、内心で確固たる勝利を確信していた。
石鹸一個につき、金貨三十枚。
この世界の一般的な平民家庭が、質素に暮らせば五年は贅沢ができる天文学的な金額だ。王都の最高級サロンや、美と若さを競い合う大貴族の夫人たちが狂乱して買い漁る姿が、イヴァンの優秀な頭脳の中ではすでに明確な数字として弾き出されていた。
人間は誰しも欲を持つ。
貧民はパンと銀貨を求め、商人は富を求め、貴族は権力と名誉を求める。特にこのような人里離れた辺境の森の廃屋に一人で住んでいるような若い娘なら、目の前に積み上げられる「莫大な富と安全な将来」という甘い蜜に飛びつかないはずがなかった。
イヴァンは琥珀色の瞳を細め、自信に満ちた笑みを崩さぬまま、千尋の唇から零れ出るであろう歓喜と驚愕の言葉を待った。
だが。
「断ります」
返ってきたのは、息を吸うよりもあっさりとした、コンマ一秒の躊躇すらない冷淡な二文字だった。
「…………はい?」
イヴァンの完璧な営業用スマイルが、ピシリと音を立てて凍りついた。
耳を疑うとはまさにこのことだった。
聞き間違いかと思った。あるいは、あまりの法外な金額の大きさに、平民の娘の頭がキャパシティを超えて混乱しているのではないかとすら疑った。
「あ、あのね、奥さん? 僕の言葉がうまく伝わっていなかったかな? 銀貨じゃないよ? 金貨三十枚だよ? しかも一個で、だ。この棚にある石鹸を全部買い取るだけで、小さな城が買えて、召使いを十人雇って、一生指一本動かさずに遊んで暮らせる額なんだよ……!?」
イヴァンは身を乗り出し、革の帳面をトントンと指先で叩いた。
しかし――千尋の表情は、ピクリとも動かなかった。
それどころか、彼女の栗色の瞳の奥に宿っていたのは、歓喜でも困惑でもなく、底なしの暗黒――前世の地獄の底から這い上がってきた怨霊のような、深ーい、深ーい「虚無」の光だった。
「……あのねぇ、イヴァンさん」
千尋は、竹筒のハーブティーを縁側の白木の上にコトリと置いた。
そして、まるで聞き分けのない駄々っ子を諭す小学校の教師のように、あるいは納期直前に無茶な仕様変更を押し込んできた営業担当を冷徹に睨みつけるベテラン事務員のように、低くドスの利いた声で口を開いた。
「金貨三十枚で買い取るってことは……あんたはそれを王都の貴族に、四十枚か五十枚で転売するわけよね?」
「え、あ、まあ……商売だからね、手数料やリスクを考えれば当然の利鞘だけど……」
「そして、そんな暴利で売り捌くためには、常に『安定した供給量』が必要になる。違うかしら?」
「そ、それは……需要があれば、当然供給を増やして――」
「大量生産しろってことでしょ!!」
ドォンッ! と千尋が縁側の白木を手で叩いた。
あまりの気迫に、イヴァンがビクッと肩を跳ねさせて後ずさる。
「いい!? よく聞きなさいよ、このソロバン男!!」
千尋は立ち上がり、腰に両手を当てて、イヴァンの顔面へと仁王立ちで迫った。その背後には、目に見えるほどのドス黒い「社畜の怨念オーラ」が巨大な陽炎となってメラメラと立ち上っていた。
「石鹸を量産するってことはね! 毎朝五時に起きて大樽で植物油と灰汁を何時間も攪拌し続け! 苛性ソーダの有毒ガスで喉を痛めながら温度計と睨み合い! 型に流し込んで、保温箱に入れて、切り分けて、風通しの良い棚に並べて毎日ひっくり返し! 一ヶ月間、湿気やカビに怯えながら熟成を管理するってことなのよ!!」
「ひっ……!?」
「一個や二個なら楽しい趣味よ! だけど、百個、千個となったらどうなる!? 原材料の山羊ミルクの仕入れが追いつかなくなって牧場主と揉め! 天候不順でラベンダーが枯れたら代替品を探して山中を駆けずり回り! 『先月のロットと香りが微妙に違う』『泡立ちがほんの少し足りない』って王都の傲慢な貴族夫人どもから理不尽極まりないクレームの嵐を浴びせられ! 納期の遅れをあんたみたいな仲介業者から毎日ネチネチと催促されるのよ!!」
千尋の早口なマシンガントークが、縁側の静寂を木っ端微塵に粉砕していく。
その言葉の一つ一つには、血を吐くような生々しいリアリティがこびりついていた。
「朝から晩まで石鹸を練って! 夜中まで検品と帳簿づけに追われ! 休日は次の原料の手配で潰れ! 睡眠時間は削られ、肌は荒れ、頭痛薬と胃薬を手放せなくなり、何のために生きているのか分からなくなる……!! そんな生活、前世で死ぬほどやって、過労死寸前まで追い詰められて、もう金輪際懲り懲りなのよぉぉぉぉっっっっ!!!!」
魂の絶叫だった。
資本主義の豚どもの歯車として擦り切れ、終電帰りと休日出勤の泥沼の中で心身を破壊された元社畜OLの、根源的なトラウマの咆哮。
「私が欲しいのはね! 金貨の山なんかじゃないの!!」
千尋はビシッと、自らの胸元を親指で指差した。
「私がこの異世界で求めているのは! 定時退勤! 誰にも邪魔されないお茶の時間! そして、太陽の匂いがするシーツにくるまって貪る、八時間ノンストップの極上の睡眠なのよ!! 一生遊んで暮らせる大富豪? 寝言は寝てから言いなさい! そんな怪しげな巨万の富のために、私のこの穏やかで完璧なスローライフを差し出すわけがないでしょうがぁぁぁっ!!」
シーン……。
常闇の森の庭先に、圧倒的な静寂が落ちた。
木々の葉を揺らす秋風の音すら、恐れをなしてピタリと止まっていた。
縁側の白木の上で、イヴァンは完全に言葉を失い、口を半開きにしたままアワアワと震えていた。
大陸全土の裏情報を握り、王都の宰相や裏社会のドンとも対等に渡り合ってきた百戦錬磨の情報屋が、ただのエプロン姿の娘の「労働環境への怨念」に、手も足も出ずに完膚なきまでに叩きのめされていたのだ。
「……す、すごい迫力だ……」
庭の片隅で、泥だらけのスコップを握りしめたまま草むしりをしていたギルバートが、眼鏡を震わせて息を呑んでいた。
「資本の論理を、個人の安眠という絶対的価値観で力任せに論破した……。千尋様、恐るべき精神構造だ……」
足元では、白銀の毛玉――ルゥが、前足を揃えて座り込み、「ふっ……愚かな人間め。千尋の睡眠欲を侮るからそうなるのだ」とでも言いたげに、冷ややかな視線をイヴァンへと投げかけていた。
「あ、あの……千尋さん……?」
イヴァンは冷や汗を拭いながら、引きつった笑みを浮かべて両手を掲げた。降伏のポーズだった。
「ご、ごめん……僕が悪かったよ。あなたの言う通りだ……。大量生産なんてさせないし、無理な納期も絶対に押し付けない。だから……その、鬼のような形相を解いてくれないかい……? 情報屋の僕でも、命の危険を感じるよ……」
「……分かればよろしい」
千尋はスッと深呼吸をし、乱れたエプロンを整えて縁側へと座り直した。
先ほどまでの般若のような形相は嘘のように消え去り、再び穏やかで人当たりの良い、いつもの脱力系元OLの顔に戻っている。この感情の切り替えの早さもまた、理不尽なモンスタークライアントの電話対応を幾度となくこなしてきた社畜の業だった。
イヴァンは脱力したように大きくため息をつき、自らの額を押さえた。
商人として、情報屋として、数多の人間を見てきた。
誰もが「もっと金が欲しい」「もっと贅沢がしたい」「もっと安全な地位が欲しい」と浅ましく目を血走らせ、提示された金貨の前に平伏してきたのだ。
それなのに、目の前の少女はどうだ。
小さな城が買えるほどの富を目の前に積まれながら、それを「睡眠を邪魔するゴミ」と一蹴し、ただ自分の手で整えた空間と、一杯のお茶の時間を何よりも尊び、守り抜こうとしている。
(……参ったな。本当に、金で釣れない人間を見るのは生まれて初めてだ……)
イヴァンの胸の内に湧き上がったのは、商談に失敗した悔しさではなく、呆れ果てた末の、清々しいまでの「敗北感」だった。
そして――それと同時に、この小早川千尋という底の知れない娘に対する、強烈な敬意と興味だった。
「……参ったよ、完敗だ」
イヴァンは肩を竦め、苦笑いを浮かべた。
「じゃあ……千尋さん。僕に、君のその素晴らしい石鹸やドライフラワーを、少しでも分けてもらう方法はないのかい? 金貨がダメなら……一体、何なら僕と取引してくれるんだい?」
イヴァンの問いかけに、千尋は小さく顎に指を当てて考え込んだ。
そして、パッと表情を明るく輝かせると、指を一本ずつ折りながら告げた。
「そうねえ……金貨はいらないけれど、『物々交換』なら歓迎よ」
「物々交換?」
「ええ。この森じゃ絶対に手に入らない、私の生活の質を爆上げしてくれるような、素敵な品物と交換ならね!」
千尋の瞳が、キラキラと少女のように輝き始めた。
「まず一つ目は……良質な紅茶の茶葉! 王都の貴族が飲んでいるような、香りの高い本物の茶葉が欲しいの。ハーブティーも美味しいけれど、たまには渋みとコクのある温かい紅茶を淹れて、縁側でスコーンと一緒に優雅なティータイムを楽しみたいじゃない?」
「紅茶だね。お安い御用さ。王室御用達の東方ブレンドでも、幻の高原茶葉でも、僕のツテならいくらでも最高級品を仕入れてこられるよ」
イヴァンが頷く。
「二つ目は……王都にしかない珍しいスパイス類! 黒胡椒の粒とか、シナモンの樹皮、ナツメグ、クローブ……そういうお料理に深みを出してくれる香辛料ね。今は塩とハーブだけで味付けしてるけれど、スパイスがあれば、ポトフもスープも何倍も身体が温まるご馳走になるもの!」
「なるほど、スパイスか。南方の交易船から直輸入された極上品を揃えてみせるよ」
そして――千尋は、身を乗り出し、この日一番の真剣な眼差しで、三つ目の条件を口にした。
その声には、先ほどの社畜の怨念とはまた違う、日本人の血が滾るような、猛烈な「食への執念」が込められていた。
「そして……三つ目! これが一番重要よ、イヴァンさん!!」
「ごくり……な、何だい?」
「……大豆を発酵させて作るっていう、東方の『黒い液体調味料』……いわゆる、お醤油を手に入れてきてほしいの!!」
「……しょ、しょうゆ……?」
聞き慣れない異国の単語に、イヴァンが目を丸くした。
「そうよ! 大豆と小麦に麹菌を混ぜて、塩水と一緒に樽の中で何ヶ月も熟成させて絞り出す、あの芳醇で香ばしい奇跡の液体調味料よ!! 私ね、この世界でお味噌(味噌風調味料)はなんとか自作できたの。でも、お醤油だけは……どうしても澄んだ液体として絞り出す設備と技術が足りなくて、作れなかったのよ!!」
千尋の鼻息が荒くなる。
日本人にとって、味噌が「母の温もり」なら、醤油は「魂の根幹」だ。
焼き立ての薄焼きパンにバターと醤油をほんの少し垂らして焦がした時の、あの暴力的なまでの香ばしさ。
煮物にひとさじ落とした瞬間に生まれる、深い照りとコク。
家庭菜園の大根の煮物にも、アルヴィスが釣ってくる清流の魚の塩焼きにも、もし本物の醤油があれば――この山小屋の食卓は、三ツ星和食料亭の領域へと一気に昇華するのだ。
「東方の交易船が、王都の港に時折寄港するって聞いたわ! 船乗りたちが樽で持ち込んでいるはずよ! お金ならいくら払ってもいい……あ、お金持ってるのはあんたか。とにかく! 本物の美味しいお醤油をひと瓶持ってきてくれたら、私のとっておきの熟成石鹸と、最高級のドライフラワースワッグを、いくらでも分けてあげるわ!!」
千尋の熱烈すぎるプレゼンに、イヴァンは一瞬呆然とした後――。
「……あはははははっ!!」
腹を抱えて、盛大に吹き出した。
笑いすぎて涙を浮かべながら、イヴァンは何度も縁側の床板を叩いた。
「あっははは! 最高だ、千尋さん、君は本当に最高だよ! 金貨の山を積まれて眉一つ動かさなかった娘が……たった一本の東方の黒い調味料のために、これほど目を輝かせるなんてね!」
「笑い事じゃないわよ! お醤油は文化の極みなのよ!!」
千尋が頬を膨らませて抗議する。
「分かった、分かったよ! 交渉成立だ!」
イヴァンは涙を拭い、満面の笑みで立ち上がると、千尋に向かって右手を差し出した。
「約束しよう、千尋さん。僕の商売の意地と誇りにかけて……王都の最高級サロンの貴婦人たちを泣かせる極上のダージリン茶葉と、南方の最高級スパイス、そして――東方の交易商人から、何年熟成かも分からない極上の本物の『醤油』を一樽、必ず手に入れて届けてみせるよ!」
「本当!? 絶対に約束よ!!」
千尋は歓声を上げ、イヴァンの差し出した手を両手でぎゅっと握り返した。
「ああ、約束だ。……その代わり、その石鹸とドライフラワーを、僕が王都の信頼できる得意先にだけ、ごく少量ずつ紹介する分として、今日手持ちにある分から少し分けてほしい。無理な量産なんて頼まない。君が自分の生活のついでに作った、余り物の分だけでいいからさ」
「ええ、それくらいならお安い御用よ! ちょうど熟成が終わった石鹸が五個あるから、持っていってちょうだい!」
◇
商談がまとまった後、イヴァンは庭の荷車へと駆け寄り、積んであった木箱の中から、手土産代わりにといくつかの品物を取り出してきた。
「これは前払いのサンプルだよ。王都の最高級商館から仕入れてきた、アールグレイの茶葉と、手に入りにくいシナモンスティックだ。よかったら使ってくれ」
「わぁぁっ……! いい香り……! ありがとう、イヴァンさん!」
千尋はお礼にと、台所から素焼きの急須と湯呑み風の木製カップを盆に乗せて運んできた。
淹れたのは、庭で収穫した野生の大麦をじっくり深煎りし、干したカモミールの花びらをブレンドした、千尋特製の「焙煎ハーブ麦茶」だった。
「はい、長話で喉が渇いたでしょ。どうぞ」
「おや、ありがとう」
イヴァンは縁側に腰掛け、差し出された温かい麦茶を両手で包み込んだ。
ふう、ふう、と息を吹きかけ、一口すする。
ずずっ……。
「…………っ」
イヴァンの動きが、止まった。
口いっぱいに広がる、深煎り大麦の香ばしくも力強い大地の薫香。
そこへ、カモミールの青リンゴに似た柔らかな甘みがふわりと重なり、喉を通り抜けた瞬間、長旅で冷え切っていた胃袋の奥底へと、じんわりとした温もりが波のように染み渡っていく。
高価な香料を塗りたくった王都の紅茶とは違う。
着飾り、嘘で塗り固められた貴族たちのサロンでは決して味わうことのできない、素材の滋味と、作り手の真心がそのまま溶け込んだ、魂を解きほぐすような優しい味。
「……美味いな……」
イヴァンの唇から、情報屋としての計算を一切含まない、素朴な本音の呟きが零れ落ちた。
「嘘がつけない味だ。……僕が今まで飲んできたどんな高いお茶よりも、ずっと身体に染み渡るよ」
「ふふ、でしょ? ただの麦茶だけど、縁側で風に吹かれながら飲むと、何倍も美味しくなるのよ」
千尋も隣で自分のカップを傾け、美味しそうに喉を鳴らした。
秋の柔らかな陽だまりが、縁側の白木を黄金色に染め上げていく。
軒先の風鈴が「チリン……」と小さく鳴り、庭の家庭菜園からは、雑草抜きを終えて腰を叩くギルバートの「ふぅ、終わった……」という安堵の溜息が聞こえてくる。
足元では、ルゥが千尋の足首に顎を乗せ、満足そうに目を細めてまどろんでいた。
イヴァンは空になったカップを見つめ、静かに立ち上がった。
その背中には、千尋から受け取った五個の特製ハーブ石鹸と、小さなドライフラワーの花束が、清潔な麻布に包まれて大切そうに収められていた。
「それじゃあ、僕はそろそろ行くよ。王都へ戻って、君のための『最高の醤油』を探し出してこなきゃいけないからね」
「よろしく頼むわね! 楽しみに待ってるから!」
イヴァンは荷車の手押し棒を握り、くるりと振り返ると、帽子の鍔に指を当てて爽やかに微笑んだ。
「また来るよ、千尋さん。……君のいるこの場所は、僕にとっても、世界で一番居心地のいい寄港地になりそうだ」
手押し車の車輪の音をカタカタと響かせながら、美形の行商人は、秋色の森の小道へと軽やかに去っていった。
その背中を見送りながら、千尋は縁側で大きく伸びをした。
「ふあぁぁ……! さて、お醤油が届いたら、どんなお料理を作ろうかしらね!」
「わふっ! 千尋、肉を焼いてその黒い汁をつけるのか!?」
「そうよ、ルゥ。香ばしいお醤油のタレで焼いたお肉なんて、ほっぺたが落ちちゃうくらい美味しいんだから!」
金貨の山よりも、一杯の温かいお茶と、一本の醤油。
欲なき元社畜OLのブレない生活の知恵が、また一つ、この山小屋のスローライフに豊かな実りと、美味しい未来の約束をもたらしたのだった。




