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第34話:美形行商人のソロバン勘定。ハーブ石鹸に付けられたとんでもない値札

常闇の森に訪れた秋は、日ごとにその色彩を深め、山小屋の周囲を取り囲む木々は燃えるような紅蓮と山吹色、そして深い琥珀色のグラデーションに染め上げられていた。

朝の光はどこまでも透き通っており、ひんやりとした冷涼な風が吹き抜けるたび、南向きの縁側に吊るされたガラス鉱石の風鈴が「チリン……チリン……」と澄んだ余韻を静寂の中に響かせている。


「……くそっ、なぜだ……! なぜ私が、このような下等な肉体労働に甘んじなければならんのだ……! しかし……雑草の根を引き抜くこの瞬間の、土壌アエテルの流動……計算式が、脳裏で完璧に組み上がっていく……!?」


早朝の前庭で、ぶつぶつと呪詛のような独り言を呟きながら、這いつくばって草むしりをしている白衣の男がいた。

王立魔導院の最年少首席研究員、ギルバート・アーセルその人である。

銀縁眼鏡の奥の瞳は血走っているが、昨日のような偏頭痛の苦悶は微塵もない。千尋から命じられた「家庭菜園の草むしり」「井戸からの水汲み」、そして「卓上ガラスランプへの魔力充填」という屈辱的な労働条件を呑み、納屋の極小書斎で一晩を過ごした結果――彼の頭蓋骨の内側は、十年来の神経痛が嘘のように完全に鎮静化し、驚異的な演算速度を取り戻していたのだ。

頭が冴え渡りすぎたせいで、草むしりをしながらでも空間魔導論の未解決難問が次々と解けてしまうという、彼にとっては天国なのか地獄なのか判別のつかない奇妙なハイ状態に陥っていた。


「はい、ギルバートさん。ブツブツ言ってないで、ハーブの根元を傷つけないように丁寧にね。終わったら井戸水二杯、台所のかまど横の樽に汲んでおいてちょうだい」

「ぐっ……千尋様、この私をただの給水配管のように扱うのは――」

「あ、文句言うなら納屋のカモミール枕、回収するわよ?」

「滅相もございません! 直ちに完璧な角度で根絶やしにしてみせます!!」


千尋の冷ややかな一言に、首席魔導士は悲鳴を上げて再び土へと顔を埋めた。

その光景を縁側から見下ろしながら、白銀の毛玉――ルゥは「ふふん、新入りがよく働いているな」とでも言いたげに、前足を揃えて優雅に欠伸(あくび)を噛み殺していた。


千尋は満足げに頷くと、母屋の縁側へと戻り、秋晴れの日差しが差し込む軒下の作業スペースへと向かった。

今日の千尋の仕事は、数週間前から丹精込めて仕込んできた「生活の潤いグッズ」の仕上がり確認だった。


縁側の軒先には、秋の乾いた風を受けて、色とりどりの野花や薬草の束が逆さまに吊るされていた。

青リンゴの香りを放つ野生のカモミール。

鮮やかな紫の小花をつけたラベンダー。

清々しい森の香気を凝縮したローズマリーとタイム。

そして、森の奥の崖下で見つけた、秋風に揺れる小さな野薔薇(ローズヒップ)の赤い実。

それらは、千尋の固有スキル【住空間の調律】によって、花びらの色褪せや縮みを極限まで抑えられながら、余分な水分だけが均一に抜かれた「極上ドライフラワー」だった。普通なら茶色く枯れてしまう花弁が、まるで時を止めたかのように瑞々しい色彩を保ち、風が揺れるたびに、甘く清らかな香りのシンフォニーを庭中に振りまいている。


そして――千尋の視線の先、風通しの良い木製の棚の上。

そこには、長方形の木枠から切り分けられ、乾燥と熟成を終えたばかりの、四角い石鹸のブロックが整然と並べられていた。


「……うん、完璧に熟成してるわね」


千尋は、その中の一つを愛おしそうに手のひらに乗せた。

それは、千尋が森の恵みと前世の知恵を結集して手作りした「特製コールドプロセス石鹸」だった。

熱を加えずに自然の反応熱だけでじっくりと一ヶ月間熟成させたその石鹸は、角が取れてほんのりと丸みを帯び、まるで削りたての最高級の大理石か、上質な白カビチーズのように艶やかな乳白色を放っている。

ベースに使ったのは、麓の開拓村で手に入れた純度の高い菜種油風の植物油と、近隣の野生山羊から分けてもらった濃厚な「山羊乳(ゴートミルク)」。そこへ、天日干ししたラベンダーの乾燥花頭をすり鉢で細かくパウダー状にしたものと、抽出したばかりの高純度エッセンシャルオイルを贅沢に練り込んである。

千尋の調律スキルが介在したことで、苛性ソーダ(植物の灰から精製した強アルカリ液)のトゲは完全に中和され、肌に優しい天然のグリセリン(保湿成分)が、石鹸の内部にぎっしりと閉じ込められていた。

鼻を近づけると、ふわりと立ち上るのは、濃厚なミルクの甘いコクと、心を芯から解きほぐすようなラベンダーの清涼な芳香。


「これがあれば、毎日の洗顔もお風呂も、お肌がつっぱらずにしっとり保てるのよね……」


千尋がうっとりと石鹸の滑らかな木肌のような手触りを楽しんでいた、その時だった。


サクッ、サクッ、サクッ……。


常闇の森の境界を越えて、軽快で、どこかリズミカルな足音が近づいてきた。

重厚な金属鎧を鳴らす騎士の足音でもなければ、土足で踏み荒らす暴漢の足音でもない。荷物を積んだ木製の車輪のきしむ音とともに、軽やかな口笛のメロディが森の空気に溶け込んでくる。


「……わふ?」

縁側で丸まっていたルゥが、ピクリと耳を立てた。

家庭菜園で泥まみれになっていたギルバートも、跳ね起きるように眼鏡の位置を直して森の小道へと視線を向ける。


やがて、紅葉した木々の間から、一台の手押し荷車を引いた男が、ひょっこりと姿を現した。


「やあやあ、こんにちは〜! 噂には聞いていたけれど、こんな森の奥深くに、これほど素敵なお家があるなんて驚いたよ!」


鈴を転がすような、人懐っこく明るい声。

現れたのは、二十代後半――二十九歳ほどの青年だった。

亜麻色のくせ毛を無造作に揺らし、琥珀色の瞳は三日月のように細められ、口元には誰からも好感を抱かれるような柔らかな笑みが浮かんでいる。身に纏っているのは、丈夫な革と生成りの麻を組み合わせた、仕立ての良い旅装束。肩からは使い込まれた商人の革鞄を提げ、手押し荷車には、布で覆われた大小さまざまな木箱が整然と積まれていた。


「……誰だ、貴様は」

庭の隅から、ギルバートが泥だらけのスコップを構えて警戒の声を上げた。

「ここは私有地だぞ! 許可なく踏み込むことは空間法規ならびに――」

「おや、そこの眼鏡の旦那、ずいぶんと泥だらけだねぇ。家庭菜園のお手伝いかい? 精が出るね」


青年はギルバートの威嚇を柳のように軽やかに受け流すと、帽子の鍔(つば)に指を当てて優雅に一礼してみせた。


「僕はイヴァン。王都や近隣の領都を行き来している、しがない旅の行商人さ。麓の村でね、『森の奥に、奇跡のように美味いパンの知恵を授けた素晴らしいお嬢さんが住んでいる』って噂を耳にしてね。行商人の勘が騒いで、珍しいスパイスや布地でも物々交換してもらえないかと思って寄らせてもらったんだよ」


完璧な笑顔。

無害で、気さくで、素朴な旅の商人そのものの立ち居振る舞い。

しかし――。


(……何だ、この男は……?)


千尋の隣で、ルゥが金色の瞳をスッと細め、喉の奥で「グルル……」と極小の唸り声を漏らしていた。

神獣の直感が、青年の纏う「二面性」を瞬時に察知していたのだ。

イヴァン。

表向きは愛想の良い旅の商人。だが、その裏の顔は――王都の貴族たちや裏社会の大物とも繋がり、大陸全土の機密情報を売り買いする、当代屈指の「敏腕情報屋」だった。

ハルデンベルク公爵の不眠症の快復、常闇の森に発生した未確認の精神安定波長、そして麓の村で起きたパンの奇跡。それらの点と点を繋ぎ合わせ、真相を突き止めるために、自ら商人として潜入してきたのだ。


イヴァンの琥珀色の瞳は、笑顔の仮面の裏で、猛烈な速度で周囲の情報をスキャンしていた。


(……噂以上だな、ここは)


イヴァンは内心で、冷や汗を流していた。

森の境界を一本跨いだ瞬間から、肌を撫でる大気の密度が異常だった。

何百年も魔獣を狂わせ、人間を拒絶してきたはずの常闇の森の瘴気が、この敷地内だけ一分子たりとも存在しない。

大気のアエテルは寸分の乱れもなく平滑化され、結界の強度は王宮の近衛魔導結界すら凌駕している。

しかも、前庭の隅を見れば、普段なら人間を一撃で噛み殺すはずの野生の黒熊や大角鹿が、家庭菜園の生垣の向こうで牙を隠し、日向ぼっこをしながら呑気に昼寝をしているのだ。


(あのスコップを持った男……王立魔導院の首席、ギルバート・アーセルじゃないか? 王都で行方不明の大騒ぎになっていた天才が、なぜこんなところで泥まみれで草むしりをしている……? それに、あの縁側の足元にいる銀色の獣……まさか、伝説の神獣フェンリル……!?)


情報屋としての常識が、足元から音を立てて崩れ落ちそうになる。

だが、百戦錬磨のイヴァンは、その動揺を微塵も顔に出さなかった。

営業スマイルを完璧に維持したまま、荷車を庭の片隅に止めると、縁側に立つ千尋に向かって恭しく頭を下げた。


「突然の訪問を許してほしいな、奥さん。山道を登ってきたら喉がカラカラでね。もしよければ、一杯の水を恵んではもらえないかい? もちろん、相応のお礼は弾むよ」


千尋は、じっとイヴァンの顔を見つめた。

身なりは小綺麗だが、旅慣れた身のこなし。言葉遣いは丁寧だが、どこか計算高いビジネスマン特有の鋭い観察眼が、瞳の奥にチラチラと見え隠れしている。

前世の社畜時代、幾度となく遭遇した「笑顔で近寄ってくるやり手の下請け営業」や「大手クライアントの切れ者バイヤー」と同じ匂いがした。


(……なるほどね。ただの通りすがりの商人じゃなさそうだけど……)


千尋はふっと肩の力を抜き、エプロンのポケットに手を当てて笑いかけた。

怪しいからといって追い返したりはしない。喉が渇いて困っている旅人に一杯の水を出すのは、人として当たり前のことだ。

ただし――千尋のテリトリーには、決して曲げられない「絶対の鉄則」が存在する。


「いらっしゃいませ、商人さん。お水ならいくらでもどうぞ。……ただし!」

千尋はピシッと人差し指を立て、玄関ポーチの敷居を指差した。


「泥だらけの外靴のまま敷居を跨ぐのは断固禁止です! 靴を脱いで、そこの手洗い場で手を洗ってから上がってくださいね!」


「……おっと、これは失礼。郷に入っては郷に従え、だね」

イヴァンは苦笑しながら、手際よく革のブーツの留め金を外し、靴を揃えてスノコの上へと置いた。

千尋から手渡された手作りの麻スリッパに足を入れる。


サクッ……。


「…………っ!?」

イヴァンの足裏が、微かに跳ねた。

柔らかい。

締め付けられていた長旅の足の鬱血が、スリッパの内側に仕込まれた干し草と羊毛のクッションに包まれた瞬間、ふわりと解放される。底冷えを完全に遮断するその履き心地に、情報屋の眉がピクリと動いた。


(……何だ、この履物は……? ただの布スリッパじゃない。歩行の衝撃を完全に吸収している……)


驚きを隠しながら、イヴァンは千尋に促されるまま、玄関脇に設えられた木製の洗面台へと向かった。

そこには、真新しい香月木の桶に、井戸から汲み上げたばかりの澄んだ地下水がたっぷりと湛えられていた。


「はい、お水で手を濡らしたら、その石鹸を使って洗ってくださいね。長旅で埃や雑菌がついているでしょうから」


「ああ、ありがとう。……おや?」


洗面台の白木の皿の上に置かれていたものを見て、イヴァンの目が吸い寄せられた。

それは、千尋が先ほどまで熟成棚で検品していた、あの乳白色の四角い「手作りハーブ石鹸」だった。


エルダリア王国において、一般に流通している石鹸といえば、動物の脂身を灰汁(あく)で煮詰めただけの、黄ばんで油臭い、触るとヌルヌルする粗悪な塊がほとんどだ。貴族たちが使う最高級品であっても、香油で誤魔化した硬い石のようなものが関の山である。

それなのに、目の前にあるこの石鹸はどうだ。

角が滑らかに整えられ、まるで切り分けたばかりの極上のお菓子のように清潔な乳白色。

表面には細やかなラベンダーの花粒が星のように散りばめられ、水をつける前から、鼻腔をくすぐる上品で甘やかなアロマを漂わせている。


「……綺麗な石鹸だね。手作りかい?」

「ええ、私の趣味よ。山羊のミルクと植物油を練り込んで作ったの」


イヴァンは興味本位で、桶の水に手を浸し、その石鹸を両手で包み込んだ。

そして、水の中で軽く二、三度、手のひらを擦り合わせた。


その、瞬間だった。


シュワッ……フワァァァァァッ……!!


「…………っっっ!?」


イヴァンの琥珀色の瞳が、これ以上ないほど見開かれた。

息が、止まった。


――な、何だこれは……!?

――泡が……泡が、生きているのか……!?


摩擦を加えた瞬間、手のひらの間で起きたのは、粗悪な石鹸のような粗い泡立ちではなかった。

きめ細やかな、あまりにも濃密な「超微細マイクロホイップ」。

まるで、最高級の生クリームを限界まで泡立てて手肌に乗せたかのような、圧倒的な密度と弾力。

手のひらを返しても一ミリたりとも零れ落ちず、吸い付くように肌の毛穴ひとつひとつへと浸透していく。

長旅の砂埃や馬の手綱でこびりついていた頑固な皮脂汚れが、泡に触れた瞬間にシュワシュワと音を立てて浮き上がり、包み込まれていくのが手触りで分かった。

しかも――擦っても、肌が痛くない。

油分を力任せに奪い取るような突っ張り感は皆無。山羊乳の濃厚な天然保湿成分とグリセリンが、汚れを落とすと同時に、肌の表面に薄い潤いのヴェールを何重にも形成していく。


そして――何よりもイヴァンの脳髄を撃ち抜いたのは、立ち上った芳香だった。


ジュワァァァァァァッ……!


水と体温を得たことで、石鹸の内部に閉じ込められていた最高純度のラベンダー精油が爆発的に気化した。

鼻腔を突き抜け、大脳の奥深くまで直接浸透していく、甘く澄んだ紫の香り。

情報屋として、常に他者の嘘を見抜き、暗殺や裏切りに怯え、四六時中神経を針金のように尖らせていたイヴァンの張り詰めた自律神経が――。

その香りを吸い込んだ瞬間、まるで温かい毛布で包まれたかのように、フッと、急速に弛緩していったのだ。


「……あ……っ……」


イヴァンの喉から、掠れた声が漏れた。

水で泡を洗い流す。

ジャバァ……と冷たい地下水が泡を押し流した瞬間、再び衝撃が走る。

泡切れが、異常に早い。肌にヌメリが一切残らず、サラリと水とともに落ちていく。

手肌を麻タオルで拭き上げたイヴァンは、自らの両の手のひらを見つめて硬直した。


白い。

旅先で日焼けし、荒れ果てていたはずの自分の手が、まるで貴族の温室育ちの貴婦人の手のように、しっとりと吸い付くような潤いを湛え、毛穴の汚れが消え去って陶器のように発光していた。

触れると、吸い付くようなモチモチとした弾力。

そして、手肌からほのかに立ち上り続ける、極上のラベンダーの残り香。


(……馬鹿な。あり得ない……!)


イヴァンの頭の中で、商人としてのソロバンが狂ったような速度で弾き鳴らされた。

王都の社交界。

美と若さを保つためなら、金貨数百枚の出費すら厭わない傲慢な公爵夫人や王侯貴族たち。

彼女たちが使っている、王立薬師ギルドが独占販売している一握りの「高級香油石鹸」ですら、この石鹸の足元にも及ばない。

肌荒れを起こさず、汚れだけを落とし、精神を瞬時に鎮静化させるアロマ効果。

これは、ただの衛生用品ではない。

貴族社会の勢力図すら塗り替えかねない、美の劇薬――究極のラグジュアリーアイテムだ。


「……ふぅ。さっぱりしたかしら? はい、お茶どうぞ」


千尋が、縁側の木製丸テーブルの上に、竹筒のカップをコトリと置いた。

中に入っているのは、軒先に吊るしてあった自家製ドライハーブ――スペアミントとカモミールをブレンドして淹れた、黄金色の透き通るハーブティーだった。

ふわりと立ち上る湯気。

テーブルの上には、手作りの木製トレイに乗せられた、野イチゴジャムを添えた素朴なスコーンが一切れ。

そして、縁側の梁からは、色とりどりのドライフラワーの花束(スワッグ)が揺れ、秋の陽光を浴びて淡い虹色の光を放っている。


イヴァンは、ゆっくりと縁側の白木に腰を下ろした。

ハーブティーを一口含む。

ミントの爽快感とカモミールの甘みが、乾いた喉を優しく潤し、胃袋へと染み渡っていく。

頭上を見上げれば、完璧な色彩を保ったまま香りを放ち続けるドライフラワーの群れ。

手元には、奇跡の潤いを取り戻した自らの両手。


カチリ。

イヴァンの中で、商人としてのリミッターが完全に外れた。

気さくな行商人の仮面が、スッと剥がれ落ちる。

現れたのは、獲物を前にして瞳の奥にギラギラとした冷徹な炎を宿した、当代屈指の「敏腕ディーラー」の顔だった。


イヴァンはハーブティーの竹筒を置き、身を乗り出した。

琥珀色の鋭利な瞳が、千尋の穏やかな顔を射抜く。


「……奥さん」


低く、甘く、けれど有無を言わさぬ迫力を孕んだ声だった。


「これ……どこで仕入れた?」


「え? 仕入れたって、さっきも言ったけど、庭のハーブと山羊のミルクで私が作ったのよ」


「……本気で言っているのかい?」

イヴァンは乾いた笑いを漏らし、洗面台の石鹸と、頭上に吊るされたドライフラワーを指差した。


「この石鹸のキメの細かい濃密な泡立ち……汚れだけを完璧に吸着して、肌の油分を一滴も奪わない絶妙なしっとり感。そして、精神を瞬時に弛緩させるこの高純度のアロマ……! さらに、このドライフラワーだ。花弁の細胞を壊さず、色と香りを完璧に封じ込めたこの保存技術……王都の最高級サロンの調香師たちですら、逆立ちしたって再現できない神業だよ」


イヴァンは懐から、上質な革の帳面と羽根ペンを取り出し、テーブルの上へと滑らせた。

その指先は、興奮で小刻みに震えている。


「奥さん、単刀直入に言おう。この石鹸とドライフラワー、王都の最高級サロンや貴族街の専売店へ持っていけば……石鹸一個で、金貨二十枚……いや、三十枚は下らない値がつく」


「……は?」

千尋の口が、ポカンと開いた。


「金貨三十枚だ。普通の平民の家族が、五年は贅沢に暮らせる大金だよ。それが、この棚にある石鹸の数だけで……数百枚、数千枚の金貨に化ける」

イヴァンはニヤリと笑い、千尋の顔を覗き込んだ。甘美な悪魔の囁きのような、圧倒的な商談の持ちかけ。


「僕と専売契約を結ばないかい? 流通も、貴族たちへの売り込みも、防犯も、すべて僕が完璧に手配してあげる。あなたはこの小屋で石鹸を量産し、花を干すだけでいい。……僕が、あなたを一生遊んで暮らせる『大富豪』にしてあげるよ」


金貨三十枚。

一生遊んで暮らせる大富豪。

どんな人間であっても、目を眩ませ、歓喜の悲鳴を上げて飛びつくであろう、破格中の破格の提案。


しかし――。

その言葉を聞いた元限界社畜OLの瞳に宿ったのは、歓喜などでは断じてなかった。

むしろ、氷点下の絶対零度すら生温いほどの、深ーい、深ーい「闇」の光だった。


風鈴が「チリン……」と小さく鳴る。

敏腕情報屋イヴァンのソロバン勘定と、元社畜OLの譲れない価値観が、秋の縁側で真っ向から衝突しようとしていた。

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