第28話:固くなったバゲットの奇跡。じゅわっと染みる黄金色のフレンチトースト
昨夜、香月木と木春の極上風呂に肩まで浸かり、湯上がりの冷たいレモネードを煽った効果は、千尋の予想を遥かに超えて絶大だった。
目覚まし時計のけたたましい金属音に脅かされることもなく、ハーブ入り干し草ベッドの中でゆっくりと目覚めた時、千尋の身体には羽毛のような軽やかさが満ちていた。手足の先までぽかぽかと温かく、関節の軋みや首の凝りなど微塵もない。
ベッドの足元では、白銀の毛玉――ルゥが、昨夜の温もりを反芻するように「ふすぅ……」と幸せそうに小さないびきをかいていた。
「……んーっ! 今日も最高の目覚め!」
千尋は素足に手作りのフェルトシューズを履き、パイン無垢材の床を踏みしめて台所へと向かった。
かまどに火を熾し、朝の白湯を沸かそうと調味料棚を開けた時、千尋は「あ」と小さく声を漏らした。
素焼きの小壺に入った粗塩の残りが底をつきかけており、炒め物や石鹸作りに使っていた植物油の瓶も、最後の一滴を使い切っていたのだ。
「……お塩と油のストックが切れちゃったわね。今日はお天気もいいし、麓の村の市場まで買い出しに行ってこようかしら」
千尋の言葉に反応したのか、ベッドからひょっこりと顔を出したルゥが、トコトコと歩み寄ってきて足首にすり寄ってきた。
「わふ? 千尋、山を下りるのか? ぼくも行く」
「ダメよ、ルゥ。あんたを連れて行ったら、珍しい銀色の獣だって大騒ぎになっちゃうでしょ。それに、昨日の今日でお風呂場の周りの結界を安定させたいの。お留守番して、小屋の周りの見回りをお願いね」
千尋が顎の下を撫でてやると、ルゥは不満そうに「くぅん」と喉を鳴らしたが、頭を預けて大人しく座り込んだ。
千尋は麻のエプロンを外して動きやすいリネンワンピースに着替え、肩から頑丈な背負い籠を担ぐと、秋晴れの常闇の森を抜けて麓の開拓村へと出発した。
◇
森の境界を抜けると、秋風に揺れる金色の麦畑の向こうに、活気あふれる開拓村の赤屋根が広がっていた。
広場には近隣の農家や行商人たちが露店を並べ、収穫の秋を祝うような賑わいを見せている。千尋は顔馴染みになった乾物屋の親父から、上質な大粒の岩塩を麻袋いっぱいに買い求め、油屋で搾りたての菜種油に似た黄金色の植物油をガラス瓶に詰めてもらった。
背負い籠はずっしりと重くなったが、生活の基盤が整っていく実感は、元社畜の千尋にとって何物にも代えがたい安心感だった。
(よし、必要なものは買えたし……せっかくだから、村のパン屋さんでお昼用のパンでも買って帰ろうかしら)
千尋は市場のメインストリートから一本路地へ入り、石畳の小道を歩いて「森の酵母パン」と看板の出ている素朴なベーカリーへと向かった。
村で唯一のパン屋であるその店は、普段なら開店と同時に薪窯で焼かれた香ばしい小麦の匂いが漂い、畑仕事へ向かう村人たちで賑わっているはずだった。
だが、今日に限っては、店先が妙に静まり返っていた。
(……あら? 今日はお休みなのかな……?)
不審に思いながらパン屋の角を曲がり、裏口の作業場へと続く勝手口の前に通りかかった時だった。
千尋の耳に、グスッ、ヒック……という、押し殺したような小さな泣き声が飛び込んできた。
「……うぅ……どうしよう……お父さんたちがあんなに一生懸命粉を挽いてくれたのに……」
見ると、石造りの勝手口の階段に、粉まみれの大きなエプロンをつけた若い娘が一人、膝を抱えて蹲っていた。
艶やかな栗色の三つ編みのおさげ髪に、日に焼けた健康的な肌。年の頃は十九歳くらいだろうか。千尋の足音に気づいてびくっと顔を上げたその瞳は、大粒の涙でぐっしょりと濡れ、鼻の頭を真っ赤にしていた。
そして――娘の足元には、巨大な木製の平籠が二つ、うずたかく積まれていた。
その籠の中にぎっしりと並べられていたのは、赤黒い焼き色のついた、丸みを帯びた大ぶりのハードパン――カンパーニュ風の田舎パンだった。
だが、そのパンの表面には、焼きたてのふっくらとした命の気配はなかった。
「あの……大丈夫ですか?」
千尋がおずおずと声をかけると、娘は慌ててエプロンの端で涙を拭い、立ち上がろうとした。
「あ、ご、ごめんなさい! お客さんですよね……っ。申し訳ありません、今日の販売分は……いえ、お店はもう閉めようと思っていて……」
「いえ、お買い物はついでですから気にしないでください。それより……どうして泣いていたんですか? 怪我でもされたの?」
千尋の穏やかで押しつけがましくない声に、娘の張り詰めていた感情の糸が緩んだのか、彼女は足元のパンの山を見つめ、再びポロポロと涙をこぼし始めた。
「……これなんです。このパン……全部、昨日の売れ残りで……」
娘の名はセシル。このパン屋の娘で、父親と一緒に毎日夜明け前から窯に火を入れてパンを焼いているのだという。
聞けば、一昨日から昨日にかけて麓の地域を襲った急な冷え込みと局地的な雷雨のせいで、街道の往来が完全に途絶えて客足が激減。気合を入れて焼き上げた大量のハードパンが、ほぼ丸ごと売れ残ってしまったのだそうだ。
さらに悪いことに、昨夜の厳しい底冷えと乾燥によって、パンの内部の水分が完全に抜け落ちてしまっていた。
「……触ってみてください。もう、売り物にならないんです……」
千尋が促されるままに籠の中のパンを一つ手に取ってみると――ゴツッ、と鈍い重たい音がした。
軽い衝撃だった。
表面のクラスト(皮)はまるで乾燥した薪のように頑丈で、指で押しても一ミリたりとも凹まない。手で割ろうとしてもビクともせず、机に叩きつければ木槌のように硬質な音が響く。完全に水分が飛び、石のようにカチカチに硬化してしまっていたのだ。
「うちのパンは、ライ麦と全粒粉を自家製酵母でじっくり発酵させてるから、一度乾くと木炭みたいに硬くなっちゃうんです……。薄く削ってスープに浸そうとしても、表面が油分を弾いて吸い込んでくれないし、噛もうとしたら歯が折れそうになるって……村の人にも引き取ってもらえなくて……」
セシルは拳を握りしめ、ボロボロと大粒の涙を床に落とした。
「お父さんは『仕方ない、家畜の餌にするか捨てるしかない』って言うんですけど……わたし、嫌なんです……! 春から畑で小麦を育てて、重たい石臼を挽いて、夜中に火の番をして焼いたパンなんです……! 命を吹き込んだパンを、ゴミみたいに捨てるしかないなんて……そんなの、悲しすぎます……っ!!」
セシルの痛切な叫びが、路地に響いた。
その涙を見た瞬間――千尋の胸の奥底で、何かがパチンと弾け飛んだ。
(……許せない)
セシルの無念が、千尋の前世の魂に痛烈に突き刺さったのだ。
千尋が働いていた生活用品メーカーでも、需要予測の狂いや急なキャンセルで、丹精込めて作った商品が「廃棄処分」に回されることが幾度となくあった。倉庫の片隅で、まだ十分に使える家具や雑貨が容赦なく産業廃棄物のコンテナへ放り込まれていく光景を見るたび、千尋は胸を締め付けられるような罪悪感に苛まれていた。
ましてや、これは食べ物だ。大地の恵みと、人の汗と、祈りの結晶。
それを「硬くなったから」という理由だけで捨てさせるわけにはいかない。
さらに言えば――千尋は、過酷な社畜自炊生活の中で「特売で買った見切り品の硬いパン」をいかにして極上のご馳走に化けさせるかという、貧民の知恵の結晶を骨の髄まで極めた女だった。
「セシルさん、顔を上げて」
千尋はセシルの華奢な両肩に手を置き、力強く、けれど温かな光をその瞳に宿して告げた。
「ちょっと、厨房をお借りしてもいいかしら?」
「えっ……? 厨房、ですか……?」
「そう。捨てなくていいわ。捨てるなんて絶対にさせない。……教えてあげるわ。固くなったパンこそが、世界で一番贅沢な『極上のご馳走』に化ける奇跡をね!」
◇
パン屋の奥にある厨房は、石造りの大きな薪窯と、使い込まれた分厚い樫の木の作業台が並ぶ、清潔で実直な空間だった。
千尋は手洗いを済ませ、セシルから借りた清潔なエプロンを身につけると、腕まくりをして作業台の前に立った。
「セシルさん、材料を揃えましょう。新鮮な卵はある?」
「あ、はい! 今朝、裏庭の鶏から採ったばかりの卵があります!」
「それから、新鮮なミルク。できれば濃厚なやつ。それとお砂糖、ほんの少しの塩、あと……たっぷりのバター!」
「す、すぐ用意します!」
セシルが厨房を駆け回り、作業台の上に材料がずらりと並べられた。
割ったばかりの卵は黄身が真ん丸に盛り上がり、搾りたての牛乳は甘い乳脂肪の香りを放っている。バターは村の酪農家が仕込んだという、淡いクリーム色の有塩バターだ。
「よし、完璧な布陣ね。まずはパンの下ごしらえからよ」
千尋はパン切り用の波刃ナイフを手に取り、石のように硬くなった丸パンをまな板の上に据えた。
ギコ、ギコ……と刃を入れ、厚さおよそ三センチ――大人の親指の幅よりも厚い、極厚の輪切りにスライスしていく。
断面が現れると、セシルが「あぁ……」と悲しそうに息を呑んだ。パンの気泡の隙間はカラカラに乾き、断面はまるで軽石のように荒れていた。
「セシルさん、悲しむところじゃないわ。ここを見て」
千尋はスライスしたパンの断面を指差した。
「このパン、すごく丁寧に気泡が入ってるわ。酵母がしっかり呼吸して、大小の空気の部屋を作ってる。……普通の柔らかいパンだとね、水分を吸わせすぎるとドロドロに崩れて離乳食みたいになっちゃうの。でも、この固くなったハードパンは違うわ。生地の骨格がしっかりしてるから、どれだけ液体を吸わせても、形を崩さずに全部抱え込んでくれるのよ」
「形を……崩さない……?」
「そう。このパンの乾いた気泡はね、いわば『美味しい液体を浴びるのを待っている乾いたスポンジ』なのよ」
千尋は手早く、大きめの平たい陶器の角皿を取り出した。
そこへ、卵を三個割り落とす。菜箸代わりの木杓で白身のコシを切り、手早く溶きほぐす。
そこへ、新鮮な牛乳をトポトポと注ぎ入れる。比率は、卵一個に対して牛乳がおよそ八十ミリリットル。濃厚なカスタードのような黄金色の液体が生まれていく。
さらに、きび砂糖に似た粗糖を大さじ二杯。そして――千尋は、ひとつまみの岩塩を指先でパラパラと振り落とした。
「……お塩も入れるんですか?」
「ええ。甘いお菓子にほんの少しの塩を入れるとね、甘みの輪郭がキリッと引き立って、後味がくどくならなくなるのよ」
千尋は固有スキル【住空間の調律】を、指先を通してボウルの中の卵液へとそっと通した。
卵とミルクの分子が綺麗に手を取り合い、気泡のない、まるで濾した後のように滑らかで艶やかな「黄金の卵液」が完成する。
「さあ、ここからが一番大事な魔法よ」
千尋は厚切りにしたカチカチのパンを、角皿の卵液の中へと並べて沈めた。
ジュワッ……。
静かな厨房に、微かな微かな吸水音が響いた。
「パンの気泡に、卵液をたっぷり吸わせるのがコツよ。表面だけ濡らして焼いちゃダメ。中心の芯まで、完全に卵液を染み渡らせるの」
千尋はフォークを手に取り、パンの表面にトントンと細かく穴を開けていく。
乾き切っていたパンの繊維が、飢えた砂漠のように、猛烈な勢いで黄金の液体を吸い上げ始めた。
数分後、千尋はパンを裏返し、反対側からもじっくりと吸わせる。
みるみるうちに、角皿の底に溜まっていた卵液の液面が下がっていく。
最初は石のように硬く、軽石のようだったパンが、液体を吸い込むにつれて、ずっしりとした重みを帯び、指でそっと触れると――ぷるん、とまるで生まれたての赤ちゃんの頬のように柔らかく押し返してくるまでになった。
「す、すごい……! あんなにカチカチだったパンが、液体を全部吸い込んで……持ち上げても崩れない……!?」
セシルが信じられないものを見るように目を見開く。
「ふふ、準備完了ね。焼きに入りましょう!」
千尋はかまどの上の平たい鉄製フライパンを弱火で温めた。
そこへ、大さじ二杯分ほどの有塩バターを、惜しげもなくぽとりと落とす。
ジュワァァァァ……ッ!
熱された鉄の上で、白いバターが一瞬で黄金色の泡となって弾け飛んだ。
立ち上る、濃厚で香ばしいミルクの焦げる匂い。
千尋はフライパンを回して油膜を全体に行き渡らせると、卵液を吸い込んで限界まで重くなった極厚のパンを、滑り込ませた。
ジューーーッ……。
心地よい、柔らかな焼き音が響く。
千尋は即座に、平たい木の蓋をフライパンの上にピタリと被せた。
「強火で一気に焼いちゃダメよ。焦げるだけで中まで火が通らないから。弱火で、蓋をして、じっくりと『蒸し焼き』にするの。蒸気でパンを膨らませながら、内側のカスタードを固めていくのよ」
チリチリ、パチパチ。
蓋の隙間から、甘い蒸気が漏れ出してくる。
焼かれたパンの香ばしさ、焦がしバターの芳醇なコク、そして卵とミルクが熱によって凝固していく甘美なプリンの香り。
厨房の空気が、まるで王都の最高級カフェのサロンのように、甘く贅沢な多幸感で満たされていく。
三分後。
千尋は蓋を取り、フライ返しをパンの底へと慎重に滑り込ませた。
手首のスナップを利かせて、クルリとひっくり返す。
パシッ。
「わぁぁぁっ……!!」
セシルから歓声が上がった。
現れたのは、息を呑むほど美しい「完璧な狐色」だった。
バターの塩気と砂糖がキャラメリゼされ、表面はパリッと香ばしい琥珀色の薄氷のように焼き固められている。
再び蓋をして、さらに二分。
内部の空気が温められ、パン全体がまるで焼きたてのスフレのように、ふるふると二倍近くに膨らみ上がっていく。
「……よし! 最高の焼き上がり!」
千尋は熱々のフレンチトーストを、清潔な白磁の大皿へと移した。
大皿を揺らすと、三センチの厚みを持つトーストが、まるで極上のプリンのように「ぷるん、ぷるん」と小気味よく震える。
仕上げに、千尋が背負い籠から取り出した小瓶――常闇の森の岩陰で自生していた野イチゴを手摘みし、少量の蜂蜜と煮詰めて作っておいた「自家製野イチゴジャム」を、木スプーンで山盛りにすくい、トーストの頂点へとぽとりと落とした。
黄金色に輝くフレンチトーストの上に、ルビー色に透き通る野イチゴの果肉がとろりと零れ落ちる。
熱で温められたジャムから、野性味あふれる甘酸っぱいベリーの香りが立ち上り、焦がしバターの香気と完璧に溶け合った。
「完成! 名付けて、『カチカチパンの奇跡のフレンチトースト』よ!」
「こ、これが……昨日の……パン……?」
セシルは皿の前に立ち尽くし、震える手でナイフとフォークを握りしめた。
石のように硬く、捨てるしかないと絶望していたあの丸パンが。
今、目の前で、黄金色に輝き、甘い湯気を立ち上らせて、まるで王侯貴族のデザートのようにプルプルと震えているのだ。
「冷めないうちにどうぞ。ナイフを入れてみて」
千尋に促され、セシルはおずおずと銀のナイフの刃先を、トーストの表面へと当てた。
サクッ……。
軽やかな、薄い硝子を割るような香ばしい感触。
しかし、その直後――ナイフは何の抵抗もなく、スルスルと真下へと吸い込まれていった。
刃の重みだけで切れていく。
切り分けられた断面から、湯気とともに現れたのは――パンの気泡の奥の奥まで完全に一体化した、とろっとろの、クリーム色のカスタードの層だった。
外側はカリカリのカラメル状、内側は完全に濃厚な温かいプリン。
セシルはフォークでその一口をすくい上げた。
野イチゴのジャムを少し絡め、ふうふうと息を吹きかけて冷まし、そっと唇へと運ぶ。
「…………っ!!」
セシルの身体が、雷に打たれたようにビクッと跳ねた。
次の瞬間、その大きな茶色の瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
噛む必要など、どこにもなかった。
舌の上に乗せた瞬間、香ばしいクラストのサクサクとした歯ざわりが一瞬だけ弾けたかと思うと、内側の生地が、体温によってジュワァァァッと音を立ててほどけていったのだ。
口いっぱいに広がる、濃厚な卵のコクと、搾りたてミルクの優しい甘み。
そこに、有塩バターのキリッとした塩気が加わることで、甘みが何倍にも深く膨らんでいく。
そして何より――。
(……小麦の味がする……!)
卵やバターの濃厚さに、パンが負けていないのだ。
セシルたちが丹精込めて発酵させた、自家製酵母の豊かな酸味と、ライ麦の素朴で力強い大地の風味が、卵液を吸ったことで逆に何倍にも引き出され、奥深い旨みとなって喉を通り抜けていく。
仕上げに絡む、野イチゴジャムの鮮烈な甘酸っぱさが、濃厚な脂をすっきりと洗い流し、次の一口を激しく要求してくる。
「……おいしい……っ、おいしいです……!!」
セシルはフォークを動かす手を止められなかった。
二口目、三口目。
熱い湯気を立てるトーストを夢中で口に運び、涙を流しながら咀嚼する。
最後の一切れを野イチゴのソースごと綺麗に平らげた時、セシルはその場にストンと、腰を抜かすようにへたり込んでしまった。
「……これが……本当に、昨日のあの売れ残りのパンなんですか……? 嘘みたいです……こんなに柔らかくて……こんなにとろけて……わたし、生まれて初めてこんなに美味しいものを食べました……っ」
セシルは空になった皿を見つめ、震える声で呟いた。
そこには、もう絶望の涙はなかった。
自分たちが丹精込めて焼いたパンが、捨てられることなく、これほどまでに気高く、これほどまでに人を幸せにするご馳走に生まれ変わったことへの、魂の底からの感動の涙だった。
「ふふ。言ったでしょ? 固くなったパンこそ、最高の宝物なんだって」
千尋は優しく微笑み、セシルの頭をぽんぽんと撫でた。
「この作り方、セシルさんのお店で使っていいわよ。売れ残ったパンがあれば、こうやって卵液に浸して、朝に焼いて出せばいいの。『黄金の甘蜜パン』とか名前をつけて売り出せば、村中の人たちが飛びついて買いに来るわよ」
「えっ……!? い、いいんですか!? こんな素晴らしいレシピ、門外不出の秘伝でしょうに……!?」
「いいのよ。パンが捨てられずに、みんなが美味しく食べて笑顔になってくれるなら、それが一番なんだから」
千尋は屈託なく笑い、エプロンを外してセシルに返した。
前世で培った知恵が、この異世界の誰かの絶望を救い、新しい希望の火を灯す。
誰かに評価されるためでも、出世のためでもない。ただ目の前の生活を豊かにし、笑顔を増やすための知恵。それこそが、千尋の求めてやまないスローライフの真髄だった。
「……千尋さん。わたし、絶対にこの味を大切にします!」
セシルは立ち上がり、深く、深々と頭を下げた。その瞳には、先ほどの弱々しさは消え失せ、職人としての誇りと熱意が眩しいほどに宿っていた。
◇
買い出しを終え、背負い籠に岩塩と植物油を詰め直した千尋は、セシルから「お礼にどうしても受け取ってください!」と持たされた、焼き立ての丸パンを抱えて山小屋への帰路についた。
森の境界を越え、清浄な空気の満ちる山小屋の前庭へと戻ると――。
縁側の白木の上で、退屈そうに前足を投げ出していたルゥが、耳をピクンと立てて跳ね起きた。
「わふっ! 千尋、おかえり! ……ん? なんだかすごく甘くていい匂いがするぞ!」
トコトコと駆け寄ってきたルゥを抱き上げ、千尋は夕暮れの空を見上げた。
裏庭の方からは、すでに公務を終えて駆けつけたアルヴィスが、リズミカルに薪を割る力強い破砕音が響いてきている。
軒先の風鈴が「チリン……」と涼やかに鳴った。
「ふふ、ルゥ。今日の夕飯のデザートはね、アルヴィスさんたちにもあのフレンチトーストを焼いてあげましょうね」
「わーい! ぼくの分にはミルクの膜も乗せてくれよ!」
嬉しそうにしっぽを振る神獣を撫でながら、千尋は温かな我が家へと足を踏み入れた。
秋の常闇の森に、またひとつ、甘く優しい幸せのレシピが刻まれていた。




