第27話:濡れ髪の美形公爵と、喉を鳴らす氷水レモネード
カラリ、と脱衣室の引き戸が開き、温かな白い湯気とともに、千尋が居間へと戻ってきた。
その姿を一目見た瞬間、縁側付近で待機していたアルヴィスとユーグの動きが、彫像のようにピタリと静止した。
「……ふあぁぁ……生き返ったぁ……」
千尋は、洗いざらしの生成りのリネンで仕立てた、ゆったりとした長袖のワンピース――締め付けの一切ない部屋着を纏っていた。
普段はきっちりと後ろでまとめている栗色の髪は、毛先を麻タオルで丁寧に拭われ、しっとりと湿り気を帯びて肩口にふわりと散らばっている。
何より男たちを息呑ませたのは、その肌の質感だった。
香月木の檜に似た精油と、木春の濃厚な柑橘エキスを全身の毛穴から浴びた千尋の素肌は、内側から発光しているかのように瑞々しく、湯上がりの上気によって、両頬から耳たぶ、そして鎖骨の窪みに至るまで、淡い桜色のグラデーションに染め上げられていたのだ。
まとわりつく湯気からは、甘酸っぱい果皮の香りと、清涼な森林の匂いが、まるで春風のようにふわりと漂ってくる。
「……っ……」
アルヴィスは、息を呑む音すら立てずに、反射的にサファイアの双眸を伏せた。
耳の先端が、一瞬でカッと赤く染まる。
宮廷の夜会で贅を尽くした夜会服を纏う貴婦人たちを見ても眉一つ動かさなかった男が、ただの素朴な部屋着姿の、湯上がりの無防備な娘の姿を直視できずに激しく動揺していた。
一方のユーグも、礼儀としてサッと視線を斜め下へと逸らしながら、「おお、千尋殿……なんという瑞々しいお姿……」と感嘆の吐息を漏らす。
足元で丸まっていたルゥだけが、「わふっ!」と嬉しそうに駆け寄り、千尋の足首にすり寄ってクンクンと柑橘の匂いを嗅いでいた。
当の千尋はといえば、男たちのそんな複雑な動揺など微塵も気にする様子はなかった。
パイン材の床にペタンと座り込むと、首筋に巻いたタオルで髪をパタパタと叩きながら、満面の、とろけきった笑みをアルヴィスへと向けた。
「アルヴィスさん! 次、どうぞ!!」
「……は?」
突然の指名に、アルヴィスが固まった。
「どうぞって、お風呂よ! まだお湯はたっぷりあるし、保温の調律をかけてあるから熱々の適温のままよ! せっかくアルヴィスさんが水魔法で二百五十リットルも汲み上げてくれたんだから、このまま捨てちゃうなんて絶対にあり得ないわ! もったいなさすぎてバチが当たるもの!」
「い、いや……しかし、千尋」
アルヴィスは長身を強張らせ、居心地悪そうに身を引いた。
「それは……貴女が入った後の湯だろう。一介の男である私が、貴女の使った湯桶に入るなど、不敬にも程がある。それに……先ほども言ったが、深さのある木箱に肩まで浸かるなど、我が国では罪人の水責めか拷問の類だ。身体が麻痺して溺死する危険がある」
至極真面目な顔で、大真面目に「お風呂恐怖症」を主張する帝国最強の騎士。
だが、千尋の主婦魂とお風呂愛の前に、そんな軟弱な言い訳が通用するはずもなかった。
「水責めなわけないでしょ! 私が今、溺死してるように見える!? こんなにピカピカのお肌になって、肩こりも全部消え去って、天国を見て帰ってきたばかりなのよ!!」
千尋は立ち上がり、アルヴィスの逞しい背中へと回り込むと、両手でグイグイと容赦なく押し始めた。
「お湯はね、ちゃんと浮いてる髪の毛とか木屑をすくい網で綺麗に取ってあるから清潔そのものよ! 貴族のプライドなんてどうでもいいの! いいから入る! この温もりを知らずに北方の冬を迎えるなんて、人生の損失以外の何物でもないんだから!!」
「ちょ、待て……押すな、千尋! 押すなと言っている……ッ!」
数万の敵軍の突撃すら微動だにせず受け止める「氷の槍」が、エプロンを脱いだ小柄な娘の両手に押されて、ズルズルと浴室の方へ後退させられていく。
ユーグは止めに入るどころか、「閣下……千尋殿の仰る通りです。ここは我が身を挺して、未知の快楽へと飛び込むべきかと……!」と、むしろ背中を押すような目で主君を見送っていた。
「はい、脱衣室の籠に着替えのシャツとタオルを入れてあるから! 入る前に、ちゃんと木桶のお湯で身体を流してから湯船に入るのよ! わかった!?」
バタン! と勢いよく脱衣室の戸が閉められ、アルヴィスは一人、香月木の香りが立ち込める見知らぬ空間へと締め出された。
「…………」
アルヴィスは、閉ざされた扉を見つめ、深いため息をついた。
拒絶することは、武力をもってすれば容易かったはずだ。しかし、あの千尋の、嬉しそうに目を輝かせながら「あなたにもこの幸せを味わってほしい」と全身で訴えかけてくる眼差しを前にしては、彼の鋼の意志など砂の城のように脆かった。
「……水責め、か……」
自嘲気味に呟きながら、アルヴィスは黒いリネンシャツのボタンに手をかけた。
衣服を脱ぎ捨て、竹籠へと収める。
鍛え抜かれた見事な肉体が露わになった。広い肩幅、分厚く隆起した大胸筋、引き締まった腹筋。しかしその肉体には、過去の激戦を物語る無数の生々しい傷跡が刻まれていた。魔獣の爪痕、氷の矢が貫いた痕、そして魔力暴走の後遺症によって青白く変色したままの皮膚の強張り。
アルヴィスは千尋に言われた通り、木彫りの湯桶を手に取り、浴室の扉を押し開けた。
サァッ――。
立ち込める白い湯気が、彼の長身を包み込んだ。
足元の床板を踏みしめると、水に濡れているというのに、パイン材の床とはまた違う、吸い付くような白木の滑らかさが足裏を心地よく迎えた。
そして、鼻腔を直撃した芳香。
香月木の深い森林の匂いと、湯面に浮かぶ麻袋から漂う木春の甘酸っぱい香り。
それだけで、戦場で張り詰めていた頭蓋の奥の神経が、ふっと緩むのを感じた。
「……まずは、身体を流す、だったな」
アルヴィスは洗い場の木製丸椅子に腰掛け、恐る恐る湯桶を湯船へと沈めた。
すくい上げた湯は、透き通るような淡い黄金色を帯びている。
それを、自らの肩口へと、傾けた。
ザバァ……ッ。
「…………っ!?」
アルヴィスの喉仏が跳ね上がった。
熱い。だが、皮膚を焼く熱さではない。
角のない、まろやかなお湯の膜が、肌の表面を滑り落ちていく。
戦傷の古傷が、外気の冷気で青白く縮こまっていた毛細血管が、その一撃でジュワッと音を立てて開き、奥底に眠っていた温もりを呼び覚まされるような感覚。
アルヴィスは息を呑みながら、二杯、三杯と湯を被り、やがて立ち上がって、なみなみと湯を湛える香月木の浴槽の前に立った。
千尋の言う通り、お湯の表面にはゴミひとつ浮いておらず、澄み切った湯の底に、木目が美しく透けて見えている。
アルヴィスは意を決し、手すり代わりの縁に手をかけ、長い右脚を湯の中へと滑り込ませた。
チャプ……。
足先が沈む。
続いて左足。膝を折り、ゆっくりと腰を下ろしていく。
四十一・五度。
千尋の調律によって寸分の温度低下も許されていない「奇跡の湯」が、アルヴィスの太ももを、下腹部を、そして分厚い胸板を飲み込んでいった。
ザバァァァ……と、アルヴィスの巨躯によって押し出された湯が、香月木の縁から贅沢に溢れ出し、洗い場の床へと滑り落ちていく。
そして――。
アルヴィスが、首の付け根まで、完全に肩をお湯の中へと沈めきった、その瞬間。
「…………っ……ぐ、ぅ……ッ!!」
アルヴィスの口から、苦悶とも歓喜ともつかない、掠れた唸り声が漏れ出た。
身体が、軋んだ。
いや、軋んでいたのは、これまで彼の肉体と魂を縛り付けていた、目に見えない無数の「氷の鎖」だった。
――な、何だ……これは……!?
――水責め……などではない……! 我が身体が……溶けて、いく……!?
凄まじい衝撃だった。
まず襲ってきたのは、下半身から胸元へと均等に押し寄せる「水圧」の抱擁だった。
北方防衛戦線で幾日も馬を駆り、ブーツの中で鬱血し、重たい鉄板が入っていたかのように強張っていたふくらはぎと太ももの筋肉が、お湯の圧力によってギュッと優しく揉みほぐされていく。
そして、ふわりと身体が軽くなる「浮力」。
百キロ近い自らの筋量と骨格の重みが、お湯の底なしの優しさに受け止められ、重力から完全に切り離される。
だが、何よりもアルヴィスを打ちのめしたのは――圧倒的な「温熱」の浸透だった。
ジュワァァァァァァァァ……ッ!
骨の芯まで染み付いていた、北方の厳冬の冷気。
十八歳で家督を継いで以来、魔獣を凍結させるために己の体内で励起させ続け、血管と神経の奥底に沈殿していた「氷魔力の毒素」。
そして、激戦で幾重にも切り裂かれ、引きつれたまま固まっていた無数の古傷の奥の鈍痛。
それらすべてが――。
香月木のお湯の熱に包まれた瞬間、まるで春の陽光を浴びた残雪のように、跡形もなく、細胞レベルで融解していったのだ。
(……温かい……。痛みが……ない……?)
痛覚が麻痺したのではない。
痛む理由そのものが、消え去っていくのだ。
血が巡る。
何年ものあいだ凍てついていたアルヴィスの全身の血管が、かつてないほどしなやかに広がり、濃厚な酸素と熱を含んだ血液が、指先、爪先、そして過熱していた脳の隅々にまでドクドクと送り届けられていく。
麻袋から染み出す木春の果皮の甘酸っぱいアロマが、湯気とともに鼻腔を満たし、アルヴィスの張り詰めていた自律神経を、力任せに弛緩の側へと引きずり倒していく。
「……あ、あぁ……」
公爵の喉から、情けない吐息が漏れた。
抗うことなど、不可能だった。
千尋の調律によって滑らかに面取りされた浴槽の縁に、アルヴィスは後頭部を預けた。
首筋に吸い付くようにフィットする木肌の曲線。
両腕を湯船の縁にだらりと広げ、長い脚を伸ばすと、足の指の先がお湯の中で心地よく泳ぐ。
頭の芯から、スーッと余計な思考が抜け落ちていく。
領地の防衛計画も、王都の貴族たちの謀略も、ハルデンベルクの当主としての義務も、何一つ思い出せない。思い出す必要すら感じられない。
「……これは……人間を、腑抜けにする……呪具か……」
掠れた声で呟きながら、アルヴィスは目を閉じた。
額から、さらりとした大粒の汗が滲み出し、頬を伝って湯面へとポタリと落ちる。
生きている。
ただ息をして、温かい湯に包まれているだけで、これほどまでに人間は満たされるものなのか。
冷徹無比と恐れられた氷の騎士は、千尋が仕掛けた「極楽の湯船」の前に、完全に理性と威厳を明け渡し、骨抜きになった大木のように、プカリとお湯の中に漂っていた。
◇
どれほどの時間が経っただろうか。
すっかり夜の帳が下り、秋の常闇の森は深い群青色の静寂に包まれていた。
ガラリ、と縁側へと続く木製の引き戸が開いた。
現れたのは、千尋が用意しておいた、ゆったりとした薄手の黒い部屋着チュニックを身に纏ったアルヴィスだった。
普段の隙のない騎士服とは打って変わり、胸元の紐は緩められ、逞しい鎖骨が覗いている。
濡れた白銀の長髪は、手にした麻タオルで無造作に拭われ、束になって肩や首筋に張り付いていた。
そして――その顔立ち。
普段の青白い氷のような肌は、湯上がり特有の熱気によって、ほんのりと桜色に上気していた。サファイアの双眸はトロンと蕩け、歩く足取りすら、まるで夢遊病者のようにふわふわと頼りない。
「……あ、アルヴィスさん! 上がったのね!」
白木の縁側に腰掛け、足をぶらりと投げ出していた千尋が、振り返って満面の笑みを浮かべた。
その隣には、縁側の白木にペタンとお腹をつけて丸くなっているルゥ。
頭上では、夜風に揺られたガラス鉱石の風鈴が、チリン……と澄んだ音色を零している。
「……千尋……」
アルヴィスは縁側の端へと歩み寄り、崩れ落ちるようにドサリと腰を下ろした。
素足が白木を踏みしめる。
ヒュウ……と、夜の森から吹き抜けてきた冷涼な秋風が、湯上がりで火照ったアルヴィスの首筋を優しく撫で、濡れた前髪をふわりと揺らした。
「……っ……ふぅ……」
アルヴィスの口から、深いため息が漏れる。
熱せられた肉体に、冷たい夜風が触れる瞬間の、あの圧倒的な爽快感。
外気浴。
身体の芯には確固たる温もりの核が残りながら、皮膚の表面だけが夜風によって急速に冷やされ、温冷のコントラストが脳内麻薬をドバドバと分泌させていく。
「ふふ、見事な蕩けっぷりね。どうだった、初めての湯船は?」
「……言葉が、ない」
アルヴィスは縁側の白木に手をつき、夜空の月を見上げながら、呆然と呟いた。
「……あれは、反則だ。全身の筋肉が溶けて消え去ったかと思った……。戦場で負った古傷の疼きすら、完全に消えている……」
「でしょ! お風呂は世界を救うのよ!」
千尋は誇らしげに胸を張ると、傍らに置いていた竹筒の器を手に取った。
青竹を削り出した特製のグラスの表面には、極冷気によって細やかな水滴がびっしりと結露し、秋の月光を浴びてキラキラとダイヤモンドのように輝いている。
「はい、これ。お風呂から上がったら、絶対に水分補給をしなきゃダメよ。採れたてのレモンバームと、野生の蜂蜜をたっぷり入れた、特製の冷たいレモネード!」
「……レモネード……?」
アルヴィスはおずおずと、差し出された竹筒を受け取った。
手のひらに伝わる、痺れるような氷の冷たさ。
中を覗き込むと、井戸から汲み上げたばかりの濁りのない地下水の中に、庭のプランターで摘んできたばかりの鮮やかなエメラルドグリーンのレモンバームの生葉と、薄切りの木春の果肉が浮かんでいた。
水面が揺れるたびに、突き抜けるような柑橘の酸味と、ミントに似たハーブの清涼感、そして奥底から漂う百花蜜の濃厚な甘いアロマが、湯上がりの渇いた鼻腔を強烈に刺激する。
「一気に飲んでいいわよ!」
千尋の言葉に背中を押され、アルヴィスは竹筒を口元に運び、一気に傾けた。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ――!!
喉仏が、力強く、波打つように上下した。
冷たい液体が唇を割り、舌先を通過した瞬間、アルヴィスの脳裏で閃光が走った。
(……っ……!!)
衝撃的な美味さだった。
お風呂の熱気によって極限まで水分を欲していた乾いた口腔へ、木春の鮮烈な酸味がキュッと染み渡る。
続いて、レモンバームから滲み出た澄み切ったシトラスハーブの風味が、気管の奥深くまで冷涼な風を吹き込ませていく。
そして何より――喉を滑り落ちる瞬間に広がる、天然の蜂蜜のまろやかで奥深い甘み。
酸味と甘み、そしてハーブの清涼感。
千尋の【住空間の調律】によって完璧な黄金比でブレンドされたその液体は、ただの飲み物ではなかった。
食道を滑り落ち、胃袋へと到達した瞬間、ジュワァァァァ……と、熱を持っていた内臓の隅々にまで、冷たい潤いが急速に染み渡っていく。
汗をかいて失われていたビタミンと糖分、そしてミネラルが、乾き切った砂漠が雨水を貪るように、全身の細胞へと一瞬で吸収されていく感覚。
「…………ぷはぁっ!!」
最後の一滴まで飲み干したアルヴィスは、竹筒を膝の上に置き、肺腑の底から激しい息を吐き出した。
鼻腔を抜けていく、爽快極まりないレモンバームと蜂蜜の余韻。
喉の渇きは完全に消え去り、胃の腑から全身へと、清らかな活力が満ち溢れていく。
「……美味い……っ。何だ、この飲み物は……! 湯上がりの身体に、これほど完璧に馴染むものがあるのか……!?」
「ふふっ、最高でしょ? お風呂上がりの冷たいレモネードは、温泉文化の至宝なんだから!」
千尋も嬉しそうに目を細め、自分の竹筒を傾けてレモネードを喉へと流し込んだ。
ぷはーっと息を吐き、二人並んで縁側に腰掛け、夜風に吹かれる。
サワサワサワ……。
秋の夜風が木々の葉を揺らし、木漏れ日ならぬ月明かりが、白木の縁側を青白く照らし出していた。
足元では、ルゥがアルヴィスの足首に自分の背中をぴったりとくっつけ、満足そうに寝息を立て始めている。
アルヴィスは、竹筒を握る自らの大きな手を見つめた後、ゆっくりと首を巡らせた。
視線の先。
隣に座る千尋の横顔。
月光を浴びて淡く透き通る、湿り気を帯びた栗色の髪。
湯上がりで桜色に染まったままの、柔らかな頬の曲線。
長袖の部屋着から覗く、華奢で白い手首。
そして、風鈴の音に耳を傾けながら、心底幸せそうに目を細めるその横顔の、あまりの無防備さと、息を呑むような美しさ。
トクン……ッ。
アルヴィスの胸の奥で、先ほどまで湯船の中で完全に溶け去っていたはずの心臓が、跳ね上がった。
ドクン、ドクンと、激しい拍動が肋骨の裏側を強く叩き始める。
湯船で火照った熱とは違う。
身体の最深部から湧き上がってくる、甘く、熱く、狂おしいほどの感情の濁流。
(……あぁ……)
公爵としての誇り。
帝国最強の騎士としての自制心。
他者を決して踏み込ませまいと張り巡らせていた、何重もの冷徹な理性の防壁。
それらすべてが――。
香月木のお湯の温もりと、手作りのレモネードの甘み、そして隣で優しく微笑む千尋の存在の前に、音を立てて木っ端微塵に砕け散っていた。
守りたい。
この場所を。
この娘を。
この温かな日常を。
そして――できることなら、この娘の隣で、生涯をかけてこの安らぎを分かち合いたい。
「……千尋」
掠れた、熱を帯びた声が、アルヴィスの唇から零れ落ちた。
「ん? 何ですか、アルヴィスさん?」
千尋が不思議そうに、小首を傾げてアルヴィスを見上げる。
その無防備な瞳と視線がぶつかった瞬間、アルヴィスは息を詰まらせ、思わず伸ばしかけた右手を、膝の上でぎゅっと握りしめた。
「……いや。……今夜は、驚くほど……深く眠れそうだ」
「ふふ、当たり前よ! 私の特製お風呂に入ったんだから、朝までノンストップで泥睡間違いなしよ!」
千尋は屈託のない笑声を上げ、夜空の星を見上げた。
その隣で、耳の先まで真っ赤に染めた公爵が、激しく高鳴る心臓を鎮めようと必死に夜風を吸い込んでいることなど、元社畜OLの鈍感なレーダーには、やはり爪の先ほども引っかかっていないのだった。
チリン……。
秋の夜風に揺れた風鈴が、二人のあいだに流れる甘くもどかしい空気を優しく包み込むように、清らかな音色を響かせていた。




