第26話:香るヒノキ擬きと柑橘の湯。限界OL、極楽浄土へ旅立つ
コン、コン、コッ……。
吸い付くような刃物の滑る音と、鼻腔をくすぐる清冽な芳香が、秋晴れの山小屋の裏手に満ちていた。
木屑が黄金色の陽光に透け、まるで削りたての飴細工のようにくるくると丸まって地面に落ちていく。大工のベルントが巨大な手カンナを走らせるたび、木肌から立ち上るのは――日本の深山幽谷に自生する樹齢数百年の檜に酷似した、どこまでも高く澄んだ森林の香りだった。
「……こいつが、親父の代から寝かせてあった『香月木』の芯材だ」
ベルントが太い指先で、削り上がったばかりの分厚い側板を叩いた。硬質で澄んだ、まるで陶器のような音が響く。
「油分がたっぷり詰まってて水に滅法強く、何十年湯を張り続けても内側から腐らねえ。刃を入れると刃こぼれしそうになるほど身が締まってやがるが……これほどの木風呂を組めるなんざ、大工冥利に尽きるぜ」
千尋が引いた設計図をもとに、ベルントは朝一番から小屋の北西側に張り出した四畳半ほどの浴室小屋の建て増しを進め、いま、その中心に据える「特製木風呂」の組み上げにかかっていた。
金属の釘は一切使わない。伝統のホゾ継ぎと、木材同士の膨張圧を利用した伝統の噛み合わせ工法だ。
長方形に組まれた浴槽は、大人の女性が足を悠々と伸ばし、なおかつ肩口までしっかりと沈める深さがある。底板には腰を痛めないよう滑らかな傾斜がつけられ、頭を預ける縁の部分は、首の頸椎に優しくフィットするよう緩やかな曲面へと面取りされていた。現代の人間工学と、異世界の匠の技の完璧な融合である。
「よし……最後の一枚、入るぞ!」
ベルントが木槌を振り下ろし、側板の留め木をコン、と叩き込む。
隙間なく噛み合った木組みが一体化し、美しく淡い桜色を帯びた木風呂が、どっしりと浴室の床へと据え置かれた。
「……完成だ。隙間風を防ぐ羽目板も、蒸気を逃がす天井の換気小窓も、嬢ちゃんの図面通りに作ってある。どうだ?」
汗を拭ったベルントが、満足げに胸を張る。
「……息を呑むほど、綺麗です……! ベルントさん、本当にありがとうございます……!」
千尋は両手を合わせ、完成したばかりの木風呂へと駆け寄った。
だが、元社畜OLの「お風呂にかける執念」は、単なる職人技の完成だけで終わるはずがなかった。ここからが、現代日本の住宅設備知識と、固有スキル【住空間の調律】による最終仕上げの真骨頂だった。
「さて……ここからは私の出番ね」
千尋は袖をまくり上げ、真新しい香月木の浴槽の縁へとそっと両手を滑らせた。
意識のチャンネルを深く沈め、魔力を手のひらから木の導管の奥深くまで浸透させていく。
(木肌の微細なささくれを、分子レベルで寝かせなさい。入る人の柔肌に、摩擦を一切感じさせない極上の絹肌になりなさい……!)
手のひらから放たれた淡い翡翠色の光が、浴槽の内側を波紋のように滑り抜けた。
木材の表面に残っていた目に見えない微小なトゲがすっと引っ込み、触れた指先が滑り落ちそうになるほどの滑らかさへと変貌していく。
続いて千尋は、長年のお風呂掃除で培った主婦の知恵――「防カビと撥水コーティング」のイメージを魔力へと変換した。
(内側の壁面は、水垢や皮脂汚れ、石鹸カスを一切寄せ付けない特殊な撥水被膜を形成。木が呼吸する通気性を残したまま、表面だけツルリと弾き飛ばしなさい!)
シュルシュル……と微かな気流の音がして、浴槽の内壁に目に見えない透明な保護膜が定着していく。これがあれば、入浴後に湯を抜いてサッと流すだけで、ヌメリや黒カビが湧く心配は永遠にゼロだ。
さらに、千尋のこだわりは止まらない。
(一番大事なのは……保温! 冬場の底冷えで、お湯がすぐに冷めないように。浴槽の外側全体に、穏やかな蓄熱と保温の結界を定着させて……!)
じわぁっ、と木風呂全体が淡く発光し、やがて光は木目の奥へと溶け込んで消えた。
これで、一度沸かした適温が、何時間でも魔法のように維持される「超高断熱浴槽」の完成である。
「……嬢ちゃん、今、何をしたんだ? 木肌が……まるで磨き上げた宝石みたいに光ってやがるぞ」
一部始終を見ていたベルントが、目を丸くして浴槽の内側を撫でた。指先が吸い付くように滑り、男は呆然と息を呑んでいる。
「これなら、赤ん坊をそのまま放り込んでも傷ひとつ付かねえ……。恐ろしい腕前だな」
「ふふ、お風呂掃除を楽にして、ゆっくり浸かるための企業秘密です」
千尋が悪戯っぽく微笑んだ。
◇
浴槽が仕上がれば、次は給水と湯沸かしの工程だ。
浴室の外では、千尋の熱烈な要請を受けたアルヴィスとユーグが、すでに待機していた。
「千尋、水を入れるぞ。木樋の配置はこれでいいか?」
「はい、お願いします、アルヴィスさん!」
アルヴィスが井戸の縁で両手を翳すと、昨日に引き続き、軍事機密レベルの高密度水流制御魔法が発動した。
ゴボボボッと井戸の底から清冽な地下水が湧き上がり、竹の木樋を通って、浴室の外壁に備え付けられた巨大な銅製の湯沸かし釜へと、一滴の飛沫も漏らさずに吸い込まれていく。
二百五十リットルの澄んだ水が、わずか数分で釜を満たした。
「火入れは任せてください!」
副官のユーグが腕まくりをし、かまどに乾燥した薪をくべる。アルヴィスが音速で割り、風通しよく積み上げておいた極上の針葉樹の薪だ。火打ち石を打ち合わせると、薪のヤニがパチパチと心地よい音を立てて爆ぜ、勢いよく赤い炎が立ち上がった。
銅釜の底を炎が舐め、湯気が煙突から空へと立ち上っていく。
沸いた熱湯が、循環用の木管を通って、室内の木風呂へとトポトポと注ぎ込まれていく。
冷たかった香月木の浴槽に、温かな湯が満ちていく。
その光景を見つめながら、千尋は台所から持参した「秘密の香り袋」を取り出した。
それは、庭の斜面に自生していた野生の柑橘類――『木春』の果皮を、千尋が丁寧にナイフで剥き、天日干しにしておいたものだった。
数日間、秋の強い太陽光を浴びてカラカラに乾燥した木春の皮は、ぎゅっと縮んで鮮やかなオレンジ色に輝き、表面の油胞には濃厚な天然のアロマオイルが凝縮されている。日本の柚子と甘夏を足して二で割ったような、甘酸っぱくもほろ苦い、爽快極まりない芳香。
千尋はその乾燥果皮を、目の詰まった清潔な麻の布袋にたっぷりと詰め込み、口を麻紐でしっかりと縛った。
そして、なみなみと適温(千尋の体感で四十一・五度)の湯が満ちた木風呂の中央へと、ポチャン……と静かに沈めた。
ジュワァァァァ……ッ。
熱い湯に触れた瞬間、乾燥していた木春の細胞が一斉に目覚め、麻袋の隙間から、黄金色の精油が水面へとふわりと溶け出した。
一瞬にして、浴室の空気が塗り替えられた。
香月木が放つ、胸の奥をすっきりと洗い流すような深い檜のウッディノート。
そこへ、お湯の蒸気に乗って爆発的に立ち上った、木春の果皮の甘酸っぱく瑞々しいシトラスの香り。
二つの天然アロマが湯気の中で絡み合い、浴室全体が、まるで雲上の高級温泉旅館の離れのような、神聖ですらある芳香で満たされていく。
「……できた。ついに……ついに完成したわ……!!」
千尋の瞳に、熱い涙が滲んだ。
前世の社畜時代から数えれば、どれほどの年月、この瞬間を夢見てきたことか。
千尋は浴室の引き戸をピシャリと閉め、外で待機していた男たちに向かって、キリッと声を張り上げた。
「アルヴィスさん! ユーグさん! ベルントさん! 一番風呂は、このお風呂の設計者である私がいただきます! 絶対に、何があっても覗かないでくださいね!! いいですね!?」
「の、覗くわけがあるまい! 無礼なことを言うな!」
外からアルヴィスの、耳を真っ赤にして狼狽しているのが丸わかりな声が返ってくる。
「千尋殿、ご安心を! 近衛の誇りにかけて、周囲五十メートルの完全警戒ラインを敷きます!」
ユーグの生真面目すぎる返答とともに、扉の足元には白銀の毛玉――ルゥが「わふん」と座り込み、番犬(番神獣)として陣取った気配が伝わってきた。
完璧なプライバシーの確保。
千尋は脱衣室の木製籠の前に立ち、身につけていたエプロンを解き、麻のワンピースの紐を緩めた。
下着を脱ぎ捨て、生まれたままの姿になる。
脱衣室の床板も香月木で仕上げられており、素足で踏みしめると、吸い付くような温もりが足裏を包み込む。
千尋は木彫りの小さな湯桶を手に取り、浴室の扉をガラリと押し開けた。
サァッ……と、温かな白い蒸気が千尋の裸身を優しく包み込んだ。
寒さなど微塵もない。千尋の調律スキルが空間の温度を一定に保っているため、冬場の浴室にありがちな「ヒートショック」の冷気は完全に遮断されている。
まずは、洗い場の木製の丸椅子に腰を下ろし、湯桶で浴槽からお湯をすくい上げる。
ザバァ……。
足先から、ふくらはぎへ。
続いて、太ももから肩口へ、胸元へ。
「……っ……あ……ぁ……」
かけ湯が肌を滑り落ちた瞬間、千尋の口から、掠れた吐息が漏れた。
柔らかい。
アルヴィスが汲み上げた清冽な地下水に、香月木の油分と木春のエキスが溶け込んだそのお湯は、まるで極上の化粧水のようにとろみがあり、肌に触れた瞬間に吸い付くように馴染んでいく。
石鹸で軽く身体を洗い清め、髪をお団子に結い上げた千尋は、ついに、湯船の縁へと歩み寄った。
手すり代わりの滑らかな縁に手をかけ、右足の爪先を、静かに湯の中へと沈める。
すぅっ……。
足の指の股、土踏まず、踵、そして足首へ。
四十一・五度の絶妙な熱が、冷え切っていた皮膚を優しく包み込み、毛細血管をじわりと押し広げていく。
続いて左足。
千尋は息を潜めながら、ゆっくりと腰を落とし、膝を折り、下半身を沈めていった。
チャプ……チャプチャプ……。
静かな浴室に、お湯が揺れる清らかな音だけが響く。
太ももが沈み、下腹部が沈み、やがて豊かなお湯の海が、千尋のみぞおちを越え、胸元を覆い、鎖骨の窪みへと到達する。
最後に、肩まで。
全身をすっぽりと、琥珀色に透き通る香月木のお湯の中へと預けきった、その瞬間――。
「…………っっっっっっっっっっ!!」
声に、ならなかった。
息が、止まった。
あまりの快楽の衝撃に、千尋の背筋がピンと弓なりに反り、次の瞬間には、骨という骨からすべてのカルシウムが抜け落ちたかのように、ぐにゃりと脱力した。
「ふ……ぁ……ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!!」
肺腑の底から絞り出されたのは、人間がこの世で最も幸福な瞬間にしか漏らすことのできない、魂の融解の叫びだった。
――生き返る。
――いや、一度死んで、極楽浄土で生まれ変わったのだ。
全身を包み込む、圧倒的な「水圧」の恩恵。
足の先から腰回りにかけて、何十キロという均等な圧力がお湯によって優しく加えられる。そのポンプ作用によって、下半身に鬱血し、重たく澱んでいた静脈血が、ドクドクと勢いよく心臓へと押し戻されていく。
そして、「浮力」。
体重がふわりと十分の一になり、何十年ものあいだ千尋の肉体を地球の底へと縛り付けていた「重力」の鎖が、跡形もなく消滅した。
肩の僧帽筋にかかっていた頭部の重みも、腰椎を圧迫していた上半身の質量も、すべてがお湯のクッションの中に溶けていく。
じわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……ッ!
熱が、染み込んでくる。
皮膚の表面だけではない。
毛穴の奥深く、皮下脂肪を通り抜け、カチカチに硬直していた深層の筋肉の筋膜へ、そして骨の芯へ。
前世の社畜時代、深夜残業のデスクワークで鉄板のように凝り固まり、どんな高級マッサージ店でもほぐれなかった首の付け根のコリ。
冷房の吹き出し口の直下で冷え切り、ジンジンと痛んでいた腰の奥。
それらすべての「前世の呪い」のような疲労物質が、香月木の熱いお湯に包まれて、まるで熱湯に落とした角砂糖のように、ジュワジュワと音を立てて溶け崩れていく。
(……あ、あたまが……とろける……)
千尋は、浴槽の縁の滑らかな木肌の上に、後頭部をそっと預けた。
首筋のカーブに完璧に沿う木肌の感触。
目を細めると、水面には、千尋が浮かべた小さな木桶がプカリプカリと心地よさそうに揺れている。
湯気の中に立ち込める、香月木の清々しいフィトンチッドの芳香。
そして、麻袋から染み出す木春の果皮から放たれる、天然のリモネンの甘美な香り。
柑橘の成分が鼻腔をくすぐり、自律神経の副交感神経のスイッチを、バチンと力任せに跳ね上げる。
脈拍が、ゆっくりと穏やかに落ちていく。
全身の血管が限界まで拡張し、皮膚がほんのりと桜色に染まっていく。
額から、サラサラとした清らかな汗の粒が、ポタリと湯面へと零れ落ちた。老廃物とストレスが、汗とともに体外へと洗い流されていく快感。
「……んんぅ……もう、指一本……動かないわ……」
千尋は水の中で、両手をだらりと投げ出した。
湯船の中で手足を思い切り伸ばす。
足の指をパーッと広げると、お湯が指の間をさらさらと通り抜けていく。
骨抜きになったクラゲ。
あるいは、温かいスープの中で煮崩れた大根。
今の千尋を形容するなら、まさにそれだった。思考する能力すら奪われ、ただ「温かい」「気持ちいい」「幸せだ」という原始的な感覚だけが、脳内を満たしている。
(……日本人で、よかった……。人間として生まれて、本当によかった……)
異世界に追放されたあの日、誰もが自分を「戦闘スキルなしのハズレ」と嘲笑った。
けれど、見よ。
この世に、これ以上の贅沢が存在するだろうか。
どんな豪奢な宮殿の玉座も、どんな強力な殲滅魔法も、この木風呂の一杯のお湯がもたらす至福の前には、塵芥に等しかった。
自分の手で住空間を整え、信頼できる仲間たちの手を借りて作り上げた、世界でたったひとつの極楽温泉。
「……ふへへ……極楽、極楽……」
千尋は蕩けきった締まりのない笑顔を浮かべ、水面に小さな波紋を立てながら、どこまでも、どこまでも深い多幸感の海へと沈んでいった。
天井の小窓から差し込む夕暮れの光が、湯気を黄金色に染め上げ、山小屋の浴室には、秋の静かな風と、満ち足りた吐息だけがいつまでも優しく響き続けていた。




