第25話:お風呂に入りたい! 千尋の情熱に巻き込まれ、アルヴィスが水魔法で井戸から水を汲み上げる
常闇の森の木立を吹き抜ける風が、日を追うごとに冷たさを増していた。
南向きの白木の縁側には、ベルントが丹精込めてカンナをかけた香月木の清々しい芳香が漂い、秋の澄んだ陽光が部屋の奥まで心地よい光の帯を投げかけている。
床は磨き上げられたパイン無垢材、寝床には太陽の光とハーブの香りをたっぷり吸い込んだ極上の干し草マットレス、足元にはルゥの抜け毛から縮絨させた純白のフェルトシューズ。毎日の食事は家庭菜園の採れたて野菜と滋味深いスープに満たされ、夕暮れには縁側で冷たい焙煎麦茶を飲みながら、風鈴の澄んだ音色に耳を傾ける。
スローライフとしては、間違いなく百点満点だった。
前世の社畜時代――終電帰りと休日出勤の泥沼の中で擦り切れ、カフェイン錠剤を水で流し込んでいたあの過酷な日々から比べれば、ここは文字通りの天国であり、夢にまで見た理想郷そのものだった。
だが。
それでもなお、小早川千尋の魂の最深部には、どうしても埋めることのできない、ぽっかりと空いた「巨大な漆黒の欠落」が存在していた。
「……耐えられない」
秋晴れの清々しい朝、台所で手洗いのための湯を沸かしていた千尋は、木杓を握りしめたまま、ギリッと奥歯を噛み締めて呟いた。
その背中から立ち上る凄まじい気迫に、足元でホットミルクの入った木皿を舐めていた白銀の毛玉――ルゥが、ピクリと三角の耳を立てて顔を上げた。
「くぅ……? 千尋、どうしたのだ?」
まだ完全に人型化する魔力が戻りきっていないのか、子犬の姿のまま小首を傾げるルゥ。
千尋は、鬼気迫る表情でゆっくりと振り返り、ルゥの小さな鼻先をビシッと指差した。
「ルゥ。私ね、もう限界よ。……お風呂に入りたいの!!」
「……おふろ?」
「そうよ! 湯船! 熱いお湯をなみなみと張った大きな桶の中に、肩までどっぷりと身を沈めたいのよぉぉぉっ!!」
千尋の叫びが、山小屋の梁をビリビリと震わせた。
叫ばずにはいられなかった。
この世界に転移して以来、千尋の身体の衛生管理といえば、かまどで沸かした湯に手作りのラベンダー蒸留水を垂らし、固く絞った麻タオルで全身を拭く「清拭」だけだった。
もちろん、千尋の【住空間の調律】を纏わせた蒸しタオルは極上の心地よさであり、肌の汚れや余分な皮脂を完璧に吸着してくれる。汗臭さも残らないし、清潔さは十分に保たれていた。アルヴィスやユーグに対しても、その蒸しタオルで十全なケアを行ってきた。
けれど――それと「湯船に浸かること」とは、月とスッポン、天と地ほどの開きがあったのだ。
(拭くだけじゃ、皮膚の表面しか温まらないのよ……! 私が求めているのは、そんな生ぬるい衛生じゃない! 水圧によって全身の血管がギュッと押し戻され、浮力によって重力から解放され、四十一度の熱いお湯が毛穴という毛穴から骨の髄まで浸透して、ため息とともに『ふはぁぁぁぁ……っ、生き返るぅ……』って魂が口から抜け出る、あの日本人の業のような入浴体験なのよ!!)
前世での千尋にとって、深夜二時に帰宅した後の熱い風呂こそが、人間としての尊厳を保つための最後の砦だった。
どんなに理不尽なクレームに晒されようと、どんなにエクセルの数字に目を灼かれようと、熱い湯船に肩まで沈み、頭のてっぺんまで湯気に包まれる十数分間だけは、すべての重圧から解放される無敵の時間だったのだ。
その至高の快楽を奪われたまま、これからやってくる北方の厳しい冬を乗り越えることなど、千尋の身体に染み付いた遺伝子が断固として拒絶していた。
「決めたわ。お風呂場を作る。誰が何と言おうと、絶対に湯船を設置するわよ!」
「……わふぅ……千尋がまた得体の知れない熱病に侵されている……」
ルゥは呆れたように小さく息を吐き、残ったミルクを舐める作業へと戻っていった。
◇
その日の夕方。
公爵邸の公務を驚異的な速度で片付け、定時退勤の鐘とともに馬を飛ばしてきたアルヴィスと副官ユーグが、いつものように山小屋の敷地へと足を踏み入れた。
馬を繋ぎ、泥落としのスノコでブーツを脱いだ二人を迎えたのは、しかし、いつもの穏やかな笑顔ではなかった。
「……千尋殿? その、腕組みをして庭の裏手を睨みつけておられますが、何か不審者でも……?」
ユーグがおずおずと尋ねる。
千尋は、小屋の北西側の空き地――日当たりが良く、かつ目隠しになる針葉樹に囲まれた一角に仁王立ちし、手にした羊皮紙に何やら凄まじい熱量で木炭ペンを走らせていた。
「帰ってきたわね、アルヴィスさん、ユーグさん。ちょうどいいところに!」
千尋はバッと振り返り、二人の眼前へ羊皮紙を突きつけた。
「……これは、何かの陣地配置図か?」
アルヴィスがサファイアの瞳を細め、真剣な眼差しで図面を覗き込む。
そこに描かれていたのは、小屋の勝手口から裏手へと伸びる渡り廊下、頑丈な板壁で囲まれた四角い小部屋、そしてその中央に鎮座する、大人が足を伸ばしてゆったりと入れるほどの巨大な長方形の木箱――。
「陣地じゃないわよ! お風呂! 私たちが今日から取り掛かる、極楽の入浴施設の設計図よ!」
「……お、風呂……?」
アルヴィスとユーグが揃って首を傾げた。
エルダリア王国において、貴族の入浴といえば、温水で湿らせた香油入りの布で従者に全身を拭かせるか、せいぜい浅い銅製の金盥に足を入れて足湯をする程度だ。平民に至っては、夏場に川へ飛び込むか、月に数回蒸し風呂に入るくらいが関の山である。
「千尋、待て」
アルヴィスは眉間に微かな皺を寄せ、極めて冷静な口調で窘めるように言った。
「湯を張った箱の中に、首まで全身を沈めるなど……危険すぎる。水圧で肺が圧迫され、意識を失って溺死するぞ。そんな大掛かりな水責めのような真似、貴族でも行わん」
「水責めじゃないわよ! 極楽浄土よ!!」
千尋は拳を握りしめ、アルヴィスの胸板に迫った。
「いい!? アルヴィスさん、あなた毎日あれだけ激しい薪割りをして、領地の重圧を背負って、肩や腰がバキバキに凝ってるでしょ!? ユーグさんだって、胃痙攣は治まったけど、長年のデスクワークと書類仕事で首の付け根に鉛が入ってるはずよ!!」
「うっ……そ、それは確かに……否定できませんが……」
図星を突かれたユーグが思わず首筋を押さえる。
「蒸しタオルで拭くだけじゃ、深層筋肉のコリはほぐれないの! 四十度前後の温かいお湯に全身を浮かせるとね、浮力で体重が十分の一になって、筋肉を支える重力から解放されるの! 温熱効果で血管が広がって、血行が一気に促進されて、乳酸や老廃物がドバドバ洗い流されるのよ! 夜はお布団に入った瞬間に秒で泥睡できるようになるんだから!!」
千尋の瞳の奥に燃え盛る、狂気じみた情熱。
インテリア雑貨メーカー時代、バスグッズや高機能入浴剤の企画書を何十本も通してきた元OLのプレゼン力は、歴戦の公爵と騎士を圧倒して余りある迫力を持っていた。
アルヴィスは気圧されたように半歩後ずさり、尖った耳の先をピクリと動かした。
「……秒で、泥睡……? そんなに……眠れるのか?」
「眠れるどころの騒ぎじゃないわ! 意識がとろけて宇宙と一体化するわよ!!」
「う、宇宙……!?」
不眠症という地獄を誰よりも知るアルヴィスにとって、「さらなる極上の安眠」という単語は、抗うことのできない甘美な毒薬だった。
サファイアの瞳が揺らぎ、アルヴィスは唾を飲み込んだ。
「……そこまで言うのなら、試す価値はあるかもしれん。浴槽となる木箱の調達は、あの村の大工……ベルントに頼めばいいのだな?」
「そう! 浴槽本体と小屋の増築は、明日ベルントさんに相談するわ! だけどね、アルヴィスさん……木箱を作る前に、どうしても解決しなきゃいけない『最大の物理的障壁』があるのよ」
千尋はすっと真顔になり、庭の井戸を指差した。
「……水よ」
「水?」
「そうよ。人間が一人が肩まで浸かるお湯の量って、大体二百リットルから二百五十リットル必要なの。あの井戸から手桶で何往復も汲み上げてたら、お湯が沸く前に私の腰が砕け散るわ! しかも、毎日そんな重労働をしてたら、癒やされるどころか過労死に逆戻りよ!!」
そう、お風呂作りの最大のボトルネックは「給水」だった。
水汲み用の木桶は、一杯でせいぜい十リットル。二百五十リットルを満たすには、最低でも二十五往復。それを手作業で運び、かまどの湯沸かし釜へ注ぎ込むなど、現代日本の蛇口を捻れば水が出る環境に慣れきった千尋にとっては、拷問に近い肉体労働だった。
「だからね……アルヴィスさん」
千尋は、これ以上ないほどキラキラとした、媚びるような、けれど有無を言わせぬ満面の笑みをアルヴィスに向けた。
「あんた、確か……『氷の槍』って呼ばれるくらい、強力な氷系統の魔力を持ってるのよね?」
「……ああ。北方防衛を担うハルデンベルクの血筋は、氷と冷気の魔力を極限まで高めた家系だ」
「氷ってことは、元を辿れば『水』よね?」
「……理論上はそうだが、それが何か……?」
「井戸から浴室予定地まで、水を引っ張ってきてほしいの!!」
「…………は?」
アルヴィスの端正な顔が、ポカンと硬直した。
「ほら、見て!」
千尋は足元に転がっていた、竹を縦半分に割って作った長い木樋を指差した。
「井戸の底から水を汲み上げて、この木樋を通して、浴室のかまど釜まで流し込む水流を作ってほしいのよ! 水圧を一定に保って、蛇口みたいに水がドバドバ出る水流の核を、魔力で固定してほしいの!!」
「なっ……!? ば、馬鹿なことを言うな!!」
アルヴィスの後ろで聞いていたユーグが、思わず悲鳴のような声を上げた。
「千尋殿、滅多なことを仰らないでください! ハルデンベルク家の氷結・水流制御魔法は、一国の軍団を一瞬で凍結破砕するための、国家機密指定の戦略級軍事魔術ですよ!? それを……井戸からの水汲みと給水配管に使うなど、帝国建国以来前代未聞の暴挙です!!」
騎士団副官としての正論。至極真っ当な抗議だった。
しかし、千尋は一切動じることなく、フンッと鼻を鳴らした。
「軍事魔術だろうが何だろうが、平和に使えるならそれに越したことないでしょ! 人を殺すための魔法より、人をぽかぽかに温めるためのお風呂に使う方が、よっぽど魔法も喜ぶわよ!」
「ぐっ……そ、それは哲学的ですが、しかし……ッ!」
言い淀むユーグ。
そして――千尋の視線は、当事者であるアルヴィスへと真っ直ぐに向けられた。
上目遣いに、少しだけ首を傾げて、懇願するように青い瞳を見つめる。
「……アルヴィスさん、ダメ……? 美味しいご飯の後、温かい湯船に浸かって……ふかふかのシーツで一緒に泥のように眠るの、楽しみじゃない?」
「…………っ!!」
ドクン、とアルヴィスの胸の奥で、不器用な心音が跳ね上がった。
夕暮れの木漏れ日を浴びて透き通る、千尋の栗色の髪。
エプロン姿の彼女が、自分だけを頼りにして、期待に満ちた眼差しで見つめてくる。
その破壊力は、北方戦線で浴びたどんな敵の殲滅魔法よりも、アルヴィスの理性を木っ端微塵に打ち砕くのに十分だった。
アルヴィスの耳の先が、カッと林檎のように赤く染まる。
「……か、閣下!? まさか――」
「ユーグ、下がっていろ」
「閣下ぁぁぁぁぁっ!?」
アルヴィスは咳払いを一つし、黒いリネンシャツの袖を力強く捲り上げた。
露わになった逞しい前腕の筋肉に、青白い魔力の奔流がバチバチと火花のように走り始める。
「……井戸から、浴室予定地の釜までだな。水圧と水量を一定に保ち、途中で溢れさせぬよう制御すればいいのだな?」
「そう! さすがアルヴィスさん、話が早いわ!」
千尋が手を叩いて喜ぶ。
アルヴィスは井戸の縁へと歩み寄り、深呼吸をして両手を虚空へと翳した。
その瞬間、大気の空気が一変した。
常闇の森を満たす微小な魔力粒子『アエテル』が、まるで巨大な渦潮のようにアルヴィスの両の手のひらへと収束していく。
青白いサファイアの燐光が彼の全身を包み込み、白銀の長髪が魔力の風を孕んでふわりと宙に舞い上がった。
帝国全軍の頂点に立つ最高指揮官が、数万の敵軍を前にして見せる、神々しいまでの魔力励起。
その凄まじい威圧感に、庭の片隅で見ていたルゥすらも「うわっ、あいつ本気だぞ……」とドン引きして後ずさるほどだった。
「――深層の湧水よ、我が呼びかけに応じ、秩序の環を成せ」
アルヴィスの低く澄んだ詠唱が響く。
サファイアの双眸が、鋭利な刃物のように井戸の底を射抜いた。
ゴボッ、ゴボボボボッ……!!
地鳴りのような重低音とともに、井戸の深奥から、透明な水の柱が音を立てて湧き上がってきた。
それはただの水ではない。アルヴィスの極限まで研ぎ澄まされた魔力によって、水分子同士の結合が完璧にコントロールされた「超高密度水流」だった。
水柱は井戸の縁を越えて宙へと浮遊し、まるで生き物のようにしなやかに鎌首をもたげると、千尋が敷設した竹の木樋の上へと、滑らかに着地した。
ジャァァァァァァァァァッ……!!
白波を立てることなく、水滴を一滴たりとも外へ飛び散らせず、均一な厚みと流速を保ったまま、清冽な地下水が竹樋を滑り落ちていく。
「……こうして、水流の核を作り……水圧を一定に保ちながら、木樋へ流し込めばいいのか?」
アルヴィスが、額に薄く集中の一滴を浮かべながら、真剣な眼差しで千尋に問いかける。
その指先は、まるで最高峰のヴァイオリンの弦を爪弾くかのように、ミリ単位で水流の脈動を微調整していた。
「そう! アルヴィスさん天才!! 水道局の管轄レベルの安定感よ!!」
千尋の歓声が響く。
竹樋の末端に置かれた大樽の中へと、激しい勢いで、けれど飛沫を一切上げずに澄んだ水が満ちていく。
二百五十リットル。
普通なら手作業で半日かかる水量が、アルヴィスの神業のような魔力制御によって、わずか三分足らずで、濁りひとつない完璧な状態で満水となった。
「ふぅ……」
アルヴィスが指先を握り込むと、水流はピタリと止まり、井戸の水面へと静かに引き戻されていった。
大気中の青い光が霧散し、森に再び穏やかな静寂が戻る。
「……どうだ、千尋。これで、足りるか?」
少し息を整えながら、アルヴィスが照れ隠しのように横を向いて尋ねる。
千尋は大樽の縁に駆け寄り、満たされた清らかな水を両手ですくって、満面の笑みをアルヴィスに向けた。
「完璧! 完璧すぎるわ、アルヴィスさん! これなら毎日だって水が張れる! お風呂計画の最大の壁が、一瞬で消し飛んじゃった!」
「そ、そうか……。役に立ったのなら、何よりだ」
千尋の屈託のない称賛に、アルヴィスは居心地悪そうに鼻の頭を掻きながら、耳の赤さを隠すように俯いた。
その後ろで、副官ユーグは天を仰ぎ、乾いた笑いを漏らしていた。
「……ハルデンベルク公爵家の、国家最高機密たる秘伝水流魔術が……。お風呂の水汲みに……完璧に活用されている……。もう、何も言うまい……」
夕闇が迫る常闇の森。
大樽に湛えられた澄んだ水面には、夕焼けの茜色と、これから始まる「極上の木風呂づくり」への胸躍る期待が、美しくキラキラと反射していた。




