第九話 星辰の丘
「今日はちょっと付き合え」
日が落ちてしばらく経った頃、張飛は唐突にそう言うと、子義を馬に乗せて陣を出た。
「こんな時間にどこへ行くんだ」
「良いから良いから。着けば分かる」
子義の問いにもはぐらかすように答えるだけで、張飛は上機嫌に馬を進めていく。しばらく駆けた末に辿り着いたのは、陣から少し離れた小高い丘だった。
「――ここは」
馬を降りた子義は、思わず息を呑んだ。頭上には、こぼれ落ちそうなほどの星々が広がっている。地平の際まで途切れることなく続く光の粒に、しばし言葉を失った。
「な、綺麗だろ」
「……ああ。こんなに星が見える場所があったとはな」
張飛は満足げに笑うと、どっかりと草の上に腰を下ろした。抱えてきた酒瓶を掲げてみせる。
「お前と2人で、こうやって星見ながら酒飲みてぇと思っててよ」
子義は小さく笑うと、隣に腰を下ろした。差し出された酒瓶を受け取り、一口含む。夜風が心地よく頬を撫でていった。
*
それから、二人はとりとめのない話を続けた。子義は張飛の武勇伝に耳を傾け、時に呆れ、時に感心しながら相槌を打つ。
「――で、俺が一人で城壁登ってよ」
「それはさすがに無茶が過ぎるだろう」
「いやそれがなんとかなるもんなんだって!」
豪快に笑う張飛につられて、子義も自然と笑みを浮かべる。ふと空を見上げると、一際明るい星が目に留まった。
「……あの星は、確か北極星だったか。昔、兵法の師に教わったことがある。あれを頼りに進路を測るのだと」
「へぇ、子義って星のことも詳しいのか」
「詳しいというほどではないが……夜討ちの多い戦では、役に立つ知識だ」
さらりと語る子義に、張飛は素直に感心した様子で目を丸くした。
「お前、ほんとになんでも知ってんだな」
「お前が知らなすぎるだけだと思うが」
「うるせぇ!」
軽口を叩き合いながらも、二人の間に流れる空気は、どこまでも穏やかだった。星空の下、たわいもない話が尽きることはなかった。
やがて話がひと段落したところで、張飛がふと真顔になった。
「なぁ、子義」
「なんだ」
「前に約束したこと、覚えてるか」
子義の胸が、わずかに引き締まる。あの洞窟での夜のことは、忘れようもなかった。
「――ああ」
「もし。もしもだぞ。お前が死んじまったらよ…!
兄者も雲長もめちゃくちゃ悲しむだろ?
それに何よりよ……
俺が悲しい」
「……張将軍」
「だからよ……。改めて約束してくれ、義。無茶して勝手に死んだりしねぇって」
これまで「子義」と呼んでいた張飛の口から、初めて零れたその呼び方に、子義は目を見開いた。
「……いやか?」
張飛が少し不安げに尋ねる。子義は一瞬の間を置いてから、小さく首を振った。
「…嫌じゃない。……それと、分かってる。約束は守る」
「そっか」
ほっとしたように、張飛の顔がふわりと緩んだ。
「今は……、この軍は……、居心地がいいしな」
子義がぽつりと零すと、張飛は少し虚を突かれたような顔をしてから、じわりと嬉しそうに頬を緩めた。
「そ、そうか! そりゃ良かった!」
「ああ」
頷く子義に、張飛はふと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「なぁなぁ、それとよ、義もさ、俺のこと、益徳って呼んでくれねぇか?」
「――は?」
子義は少し困ったように眉を寄せた。
「……いいのか。お前は将軍で、俺は副将だぞ」
「んなこと今更気にすんな!」
あっさりと返す張飛に、子義はしばし考えるように黙り込んだ。それから、静かに口を開く。
「……分かった。だが、それなら人前ではこれまで通り張将軍と呼ぶ。二人の時だけにしよう」
張飛は思わず口を尖らせた。
「えー、別にいつでも良くねぇか?」
「軍の秩序というものがある」
「……まぁ、義がそう言うんなら、いいけどよ」
しぶしぶといった様子で、張飛は頷いた。
「益徳か。……ふふ」
小さく笑みを零しながら、子義はその名を口にした。何気ない仕草だったが、張飛はその笑顔に、思わず言葉を失う。
やがて、へにゃりと相好を崩すと、張飛はしみじみとした声で言った。
「――義、最近よく笑うようになったよな」
「……そうか?」
「おう。前はもっと、こう、なんつーか近寄りがたい感じだったのによ」
からかうように言われ、子義は少し気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……益徳のせいだろう」
「へへ、だろうな」
得意げに笑った後、張飛はふと真剣な表情になると、ぽつりと呟いた。
「……義は、笑ってる方が似合うぜ」
柄にもなく照れたような声だった。子義は不意を突かれ、思わず心臓が跳ねる。
「……なんだ、急に」
「い、いや、思ったことを言っただけだ!」
誤魔化すように張飛が声を張り上げる。子義はその様子に、小さく吹き出した。
*
しばらくして、二人は星空を後にすることにした。馬に跨りながら、子義はもう一度、丘の上を振り返る。
「また来よう、益徳」
「おう! いつでも付き合うぜ!」
弾んだ声でそう応える張飛に、子義は小さく笑みを零した。




