第十話 酔っぱらい
朝稽古の最中、子義はふと違和感に気づいた。
「張将軍、こちらの型はこれで合ってますか?」
若い兵卒の一人が、必要以上に張飛の傍に寄っては、あれこれと話しかけている。稽古の指導そのものは自然なやり取りのはずなのに、なぜかその距離の近さが、子義の目には妙に引っかかった。
「……」
自分でも理由の分からないまま、子義は黙々と木刀を振り続けた。眉間には、いつの間にか皺が寄っていた。
「――義? どうした、怖ぇ顔して」
異変に気づいた張飛が声をかけてくる。子義は素っ気なく答えた。
「別に、なんでもない」
「なんでもないって顔じゃねぇけどな」
張飛はしばらく子義の様子を窺っていたが、やがてにやりと口の端を上げた。
「……もしかして、ヤキモチか?」
「なっ――違う」
思わず声が裏返る。気まずさと動揺を隠しきれず、子義はますます不機嫌そうに顔をしかめた。その反応が何よりの答えになっていることに、本人だけが気づいていない。
「へぇ、耳まで赤くなってんぞ」
「な、なってない!」
張飛にからかわれ、子義は思わず耳を押さえた。その仕草がますます図星を裏付けているとも知らず。
少し離れた場所からその様子を眺めていた劉備と関羽は、顔を見合わせて苦笑した。
「分かりやすいものだな、益徳も子義殿も」
「うむ。まったくだ」
*
その夜、諸将が集う宴席が開かれた。
「義、飲め飲め!」
「……あまり強くない。ほどほどにしてくれ」
固辞する子義に構わず、張飛は上機嫌に杯を勧めてくる。断り切れないまま、子義は次第に杯を重ねていった。
「そういや、義が酔ったとこ見たことねぇな。どうなんだ?」
「……知らん方がいい」
興味津々に尋ねる張飛に、子義は珍しく歯切れの悪い返事をした。その反応が、かえって張飛の悪戯心に火をつけたのは言うまでもない。
そして、案の定というべきか。
「おいこら益徳ぅ……お前はよぉ……そういうとこがよ……」
すっかり出来上がった子義が、据わった目で張飛の髭を引っ張りながら、要領を得ない説教を始めた。人前にも関わらず張将軍ではなく、益徳と呼んでいることからその酔っぱらい具合が伺える。
「イテッ! 髭!引っ張んなって! ちょ、兄者、雲長! 笑ってねぇで助けてくれ!」
「知らん、お前が悪い」
「うむ、子義殿に無理に飲ませた益徳が悪い」
関羽と劉備はニヤニヤしながら、そっけなく返すと痛がる張飛を肴に酒を啜った。
「いてて…っ! わ、悪かった! 何が悪いかは分からんが、悪かった!」
髭を引っ張られながら平謝りする張飛に、周囲は大笑いだった。だが説教は長くは続かず、子義はやがてそのままぐらりと傾ぐと、豪快な寝息を立て始めた。
「……おい、義? 義ってば」
揺すっても起きる気配はない。張飛は仕方なさそうに笑うと、子義を背負って天幕を後にした。
*
夜道を歩きながら、背中の子義がもぞもぞと身じろぎする。
「……益徳……また、無茶ばっかり……」
寝言だった。誰に言うでもなく、それでも確かに自分に向けられた言葉に、張飛は思わず足を止める。
「……お前が言うか、それ」
苦笑いを零しながらも、その口元は自然と緩んでいた。背中に感じる体温、規則正しい寝息、時折漏れる寝言――そのすべてが、たまらなく愛おしく思えた。
夜風に吹かれながら、張飛はどこか浮ついた足取りで、上機嫌に陣へと戻っていった。
ちなみに翌朝、子義は激しい頭痛とともに目を覚ましたが、昨夜のことは何一つ覚えていなかった。二日酔いがひどい。
「つっ……益徳、何かあったのか? やけに機嫌がいいが」
「別に、なんもねぇよ。ただの気分だ」
にやにやと笑う張飛に、子義は頭痛に顔をしかめながら怪訝そうな顔をするしかなかった。張飛は内心、反省しつつも――また今度飲ませてやろう、と密かに決意していた。
*
数日後、敵に動きありとの報せが入り、軍議が開かれた。
「此度は、益徳と子義殿の部隊を分けたい」
関羽の提言に、張飛が真っ先に声を上げた。
「はぁ!? なんでだよ! 義は俺の部隊の副将だろうが!」
「だからこそだ。両翼を任せられる者が必要になる。子義殿の力を、益徳の下に留めておくのはもったいない」
「そうは言ってもよ……」
なおも渋る張飛を、劉備が宥める。
「益徳、益徳の気持ちも分かる。だが、これが最善だ。それに――子義殿とて、いつまでも副将のままではおるまいよ」
劉備の言葉に、子義自身も静かに頷いた。
「……分かった。承知した」
「義まで、そっち側かよ……」
しぶしぶといった様子で、張飛はようやく折れた。
*
軍議を終えた帰り道、二人はまた、あの丘に足を運んでいた。
「なぁ、益徳」
「あ?」
「さっき、俺の部隊の副将だろうがって言っただろう。あれ、嬉しかった」
子義が微笑みながらそう言うと、張飛は少し照れたように頬を掻いた。
「……いや、本当に、離れんのは嫌だなって思っただけだ。寂しいっつーか」
「俺も、それは同じだ」
子義は素直にそう答えた。この感情がなんなのか、自分でもまだ分からない。ただ、張飛と離れることが寂しい――それだけは、確かな気持ちだった。
張飛は頬を赤らめながらも、嬉しそうに笑みを浮かべる。
「……それでもよ、何かあれば必ず俺が駆けつける。離れてても、絶対にだ」
「ああ」
子義は頷くと、少し悪戯っぽく目を細めた。
「でも、それは俺も同じだからな。何かあれば、俺もすぐに駆けつける」
「へへ、そりゃ頼もしいな」
二人は顔を見合わせて笑うと、また星空を見上げた。しばらくの間、他愛のない話が尽きることなく続いていった。




