第七話 気づき
帰陣してからしばらく、穏やかな日々が続いていた。
だが、張飛の心中は、決して穏やかとは言い難かった。
(なんでだ、なんでこんなに……)
朝目覚めた瞬間から、まず子義の顔が浮かぶ。軍議の最中もふと視線が子義を追ってしまう。話したい。一緒にいたい。触れたい――そんな衝動が、四六時中頭の片隅にこびりついて離れない。
自分でも、この感情の名前が分からなかった。いや――薄々気づいてはいる。ただ、それを認めるのが、なんとなく躊躇われた。
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「よし、もう一本行くぞ!」
「……お前は息切れというものを知らないのか」
朝稽古の場、木刀を構えた張飛に、子義は肩で息をしながら応じる。上着を脱いだ上半身に、汗が幾筋も伝っていた。
その様子を見た張飛は、なぜか急に口ごもった。
「……張将軍?」
「あ、いや、なんでもねぇ! ほら、構えろ!」
張飛は誤魔化すように木刀を振り回すと、逃げるようにそっぽを向いた。
(な、なんだ今の……! なんかこう、汗が……いや、いつも汗くらいかいてるだろうが、俺は! 何ドギマギしてやがんだ、俺は!)
内心で自分自身に突っ込みを入れながら、張飛は必要以上に激しく素振りを続けた。子義はそんな張飛を、不思議そうに見つめていた。
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数日後、久方ぶりの戦勝を祝う宴が開かれた。酒と料理が並び、諸将が寛いだ表情で杯を交わす。
「張将軍、お強いと評判ですわ」
艶やかな笑みを浮かべた女が、するりと張飛の隣に腰を下ろす。しなを作りながら酒を注ぐその姿に、周囲の兵たちが冷やかしの声を上げた。
「おお、将軍、モテるっすね!」
「へへ、まぁな!」
張飛は上機嫌に胸を張った。だが、その視線がふと子義の方に向いた瞬間、なぜか居心地の悪さを覚える。
子義は少し離れた席で、杯を傾けながらその様子を見ていた。表情は変わらない。だが、なんとなく――胸のあたりがもやもやとする。
(……なんだ、この感じは)
自分でも説明のつかない感情を持て余しながら、子義は黙って杯を空けた。
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宴の後、女は当然のように張飛の天幕までついてきた。しなだれかかるように腕を絡ませ、甘い声で囁く。
「今宵は、ゆっくりお過ごしになりませんこと?」
「お、おう……」
いつもの張飛なら、二つ返事で応じていたはずだった。だが――なぜか、いつまで経っても気分が乗らない。それどころか、身体の方も一向に反応する気配がなかった。
「……あの、張将軍?」
「お、ん? あれ……」
冷や汗をかきながら、張飛は必死に平静を装う。だが、どうにもならないものはどうにもならない。しばしの気まずい沈黙の後、張飛は咳払いをした。
「わ、悪ぃ。今日はちょっと、疲れてるみてぇだ」
「まぁ、そうでしたの。では、また今度」
辛うじてプライドを守りながら、女を帰す。一人残された天幕の中で、張飛は頭を抱えた。
「なんでだよ、おい……」
訳が分からないまま、張飛はもやもやとした気分を抱えて、夜の散歩に出かけることにした。
*
人気のない小道を歩いていると、ふと前方に人影が見えた。湯浴みを終えたばかりらしい子義だった。髪はまだ濡れて、月明かりの下、しっとりと肌に張り付いている。
「……張将軍? どこに行くんだ、こんな時間に」
「あ、いや…」
子義がこちらを振り向いた瞬間、張飛の身体に電流のようなものが走った。湿った肌から立ち上る、湯上がりの匂い。無防備な首筋。先ほどまでうんともすんとも言わなかったはずのモノが、その瞬間、驚くほど雄弁に反応を示す。
「――なっ」
「張将軍?」
「な、なんでもねぇ! じゃあな!」
張飛は真っ赤な顔のまま、脱兎のごとく踵を返した。呆気にとられる子義を置き去りに、一目散に自分の天幕へと逃げ帰る。
「な、なんだったんだ、あいつは」
子義は首を傾げながら、その背中を見送っていた。
*
翌日、張飛は思い詰めた顔で劉備と関羽の天幕を訪ねた。
「兄者、雲長……ちょっと、相談があんだけど」
「なんだ、改まって」
劉備の言葉に、張飛は言葉を選びながら、昨夜の一連の顛末を打ち明けた。女には何も感じないのに、子義を前にすると訳が分からなくなる、と。
劉備と関羽は顔を見合わせた。
「……益徳よ。それはつまり」
「お前、子義殿に惚れておるのではないか」
関羽の率直な指摘に、張飛は雷に打たれたような顔をした。
「は、は? い、いや、男だぞ、子義は!」
「男だから何だ。惚れるのに、性別など関係あるまい」
関羽は淡々と言い放つ。劉備も苦笑しながら頷いた。
「うむ。私も驚きはしたが……益徳がここまで誰かを想うのは、初めて見る。悪いことではあるまい」
「で、でもよ……」
戸惑いを隠せない張飛だったが、二人の言葉を聞くうちに、次第に頭の中の靄が晴れていくのを感じた。汗ばむ肌にドギマギしたのも、女に何も感じなかったのも、湯上がりの子義にあれほど反応したのも――全部、答えは一つだった。
「……好きなのか、俺は。子義のことが」
ぽつりと呟いた言葉に、自分自身で驚いたように目を見開く。だが不思議と、嫌な感じはしなかった。むしろ、すとんと胸に落ちるような感覚があった。
「そのようだな」
「そのようだ」
関羽と劉備が同時に頷く。張飛は片手で顔を覆うと、くぐもった声で唸った。
「……マジか、俺」
だがその口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
*
その頃、子義もまた、一人で言葉にならない感情を持て余していた。
宴の席で覚えたあの、もやもやとした感覚。張飛が女と親しげにしているのを見て、なぜあれほど胸がざわついたのか。そして、湯上がりに慌てて逃げていった張飛の、真っ赤になった顔。
(……あれは、なんだったんだ)
自分でもまだ、その正体を掴みきれずにいる。ただ、真っ赤な顔して笑いながら逃げていったあの後ろ姿を思い出すと、口元が勝手に緩んでしまう。
夜空を見上げながら、子義はしばらくの間、その感覚をそっと胸の中で反芻した。




