第六話 雨上がり
ふと、腹のあたりに感じる違和感で、子義は目を覚ました。
まだ覚醒しきらない意識の中、自分が誰かの腕の中にいることに気づく。密着した素肌、伝わってくる体温。昨夜の記憶がゆっくりとよみがえってくる――そうだ、豪雨、洞窟、発熱。それから。
じわりと下腹部に押し当てられる、熱く硬い感触。
「……っ」
子義は弾かれるように顔を上げた。目の前には、気まずそうに視線を泳がせる張飛の顔があった。
「お、おはよう」
「……張将軍」
「いや、あの、これはあれだ、生理現象っつーか……寝起きの男なら誰でもだな……!」
しどろもどろに言い訳を重ねる張飛に、子義は一瞬呆気にとられ、それから――堪えきれずに、小さく吹き出した。
「くく……お前、そんな慌てなくても」
「ぐぐぐ! 仕方ねぇだろ」
「……悪い。でも、お前がそんな顔をするのは珍しいと思ってな」
目元を緩めて笑う子義に、張飛は一瞬言葉を失った。雨上がりの淡い光の中、心底おかしそうに笑うその顔に、なぜだか目が離せなくなる。
「……お前、笑うと存外……」
「ん?」
「い、いや、なんでもねぇ!」
張飛は誤魔化すように咳払いをすると、視線を洞窟の外へと逸らした。いつの間にか、あれほど激しかった雨音が止んでいる。灰色だった空も、僅かに白みを帯び始めていた。
*
互いの熱を分け合ったまま、しばらく二人は動かずにいた。裸のままというのは、さすがに気恥ずかしさもあったが、まだ本調子ではない子義の身体を思うと、無理に離れる気にもなれない。
「なぁ、子義」
張飛が静かに切り出す。子義はその胸に頬を預けたまま、小さく応じた。
「……なんだ」
「お前、なんで死に急ぐんだ」
唐突な問いに、子義の身体がわずかに強張った。
「……死に急いでなど、いない」
「嘘つけ。この前の戦もそうだ。自分を囮にする策なんざ、他にいくらでもやりようがあったろ。それなのに、お前はいつも一番危ねぇとこに自分から突っ込んでいく」
子義は答えなかった。ただ、張飛の腕の中で、じっと沈黙を保っていた。
「……無理には聞かねぇ。だけど、な」
張飛の声が、少しだけ柔らかくなる。
「俺は、お前に死んでほしくねぇ」
その言葉に、子義の喉がひくりと動いた。長い沈黙の後、やがて観念したように、小さく息を吐く。
「……昔、家族がいた」
ぽつり、ぽつりと、まるで乾いた土に水が染み込むように、子義は語り始めた。
「戦火に巻き込まれて、皆殺しにされた。俺だけが、たまたま生き延びた」
張飛は何も言わず、ただじっと耳を傾けていた。
「家も、家族も、何もかも失って……それから俺は、根無草のようにあちこちを渡り歩いてきた。腕が立つから、雇ってくれる者はいくらでもいた。だが、ただそれだけだ。帰る場所などない」
言葉を句切りながら、子義は淡々と続けた。
「戦を減らしたい。俺のような者を、もう増やしたくない。それは本当だ。だが……」
一瞬、声が揺れる。
「心のどこかで、俺を必要としている人間も、俺の帰る場所も……ない。だから、いつからか俺は――死に場所を探していたのかもしれない」
言い終えると、子義は自嘲するように小さく笑った。だがその笑みは、どこまでも寂しいものだった。
家族の話や子供と触れ合う時、寂しさな顔を見せる子義が脳裏に浮かぶ。張飛は、腕の中の子義を、無言でぎゅっと抱きしめた。
「……張将軍?」
「馬鹿野郎……そんなん、聞いてらんねぇよ」
押し殺したような声だった。
「張将軍、俺は――」
「俺が、いるだろうが」
張飛は子義の顔をまっすぐに見つめた。その目には、これまで見たことのない、真剣な光が宿っていた。
「俺が、お前を必要としてる。だから、死ぬな。もう無茶すんな」
あまりに直球な言葉に、子義は目を見開いた。誰かにそんなことを言われたのは、いつ以来だろうか。いや――生まれて初めてかもしれない。
「……約束しろ、子義」
「……」
「約束だ」
繰り返される言葉に、子義はやがて、観念したように小さく頷いた。
「……分かった。約束する」
その言葉に、張飛の顔がくしゃりと緩む。だが子義は、ふいに真剣な眼差しで見つめ返した。
「その代わり――お前も約束しろ、張将軍」
「あ?」
「お前も、無茶をするな」
張飛は一瞬きょとんとした顔をしたが、やがて、ふっと笑みをこぼした。
「……おう。約束だ」
二人はしばらく、そのまま無言で寄り添っていた。互いの鼓動だけが、静かに響いていた。
*
気づけば、洞窟の外に差し込む光は、すっかり明るさを増していた。
「……あー、その、そろそろ服を」
「あ、ああ……」
今更ながらに気恥ずかしさが込み上げてきて、二人はぎこちなく身体を離した。手早く乾き始めた着物を纏いながら、互いに気まずそうな視線を交わす。
「……その、あれだ。今日のことは」
「分かっている。誰にも言わない」
「お、おう」
照れ隠しのようにぼそぼそと言葉を交わしながら、二人は馬に乗り、帰路についた。雨上がりの澄んだ空気の中、鳥の声が微かに響いている。
並んで馬を進めながら、子義はふと隣を見た。相変わらず、どこか照れくさそうな顔をしている張飛。その横顔を見ていると、胸の奥に、これまで感じたことのない温かいものが広がっていくのを感じた。
――帰る場所は、ないと思っていた。
だが、今この瞬間だけは、少しだけそれが違う気がした。




