第五話 雨の中の温もり
その日の戦は、序盤から様相が違っていた。
敵は明らかに、子義を狙い撃ちにしていた。度重なる献策で味方を打ち破られ続けた恨みか、あるいは軍師を潰せば劉備軍の要が崩れると読んだのか。矢の雨も、突出してくる部隊も、悉く子義のいる方角へと集中する。
「――なるほど、そういうことか」
高台からその動きを見て取った子義は、口元に薄く笑みを浮かべた。狙われているならば、それを逆手に取ればいい。
「全軍、私に続け! 私を囮に、敵の意識をこちらへ引きつける! その隙に左右から包囲する!」
自ら先頭に立ち、あえて敵の目につく位置へと馬を進める子義。狙い通り、敵の兵はぞろぞろと子義めがけて集まってくる。策は的中し、左右に展開していた劉備軍が、手薄になった敵の側面を鋭く突き崩していく。
だが、天は味方をしなかった。
昼過ぎから怪しかった空が、にわかにかき曇る。ぽつり、ぽつりと落ちてきた雨は、瞬く間に土砂降りへと変わっていった。視界が白く煙る。馬の足元がぬかるみ、統率の取れていた軍列にも乱れが生じ始める。
「くっ……!」
視界不良の中、子義の周囲を囲む敵兵の数はまだ捌ける範囲だった。だが、雨で滑る足場と疲労が重なり、動きに精彩を欠き始めていた。
その時、横合いから斬りかかる一撃を、辛うじて剣で受け止める。だが体勢が崩れ、そのまま地に片膝をついてしまった。
――しまった。
背後に迫る気配。振り向く間もない。剣を振り上げる敵の姿が、雨の向こうに霞んで見えた。
「子義いぃぃぃ!!」
轟く怒号とともに、巨躯が雨を切り裂いて割り込んでくる。張飛だった。振り下ろされた敵の剣を、蛇矛が力任せに弾き飛ばす。同時に、横合いから射かけられた矢の束が二人に殺到する。張飛は咄嗟に蛇矛を振るい、飛来する矢を次々と打ち払っていく。だがそのうちの一本が、剣筋を掠り抜けて張飛の二の腕を浅く裂いた。
「張将軍……!」
「馬鹿野郎が!」
張飛は即座に周囲を見回すと、猛然と敵兵を薙ぎ払っていく。その勢いは凄まじく、瞬く間に子義の周囲から敵の姿が消えた。だが乱戦の中、張飛の腕には矢が掠めた傷が残り、赤い筋が滲んでいた。
「張将軍、腕が――」
「んなことより、乗れ!」
有無を言わさず、張飛は子義の腕を掴んで自分の馬の後ろへと引き上げた。
「掴まってろ! 舌噛むぞ!」
言うが早いか、馬腹を蹴る。子義は咄嗟に張飛の腰にしがみついた。豪雨の中、二人を乗せた馬は戦場を離脱し、林の奥へと駆けていく。
だが降りしきる雨は勢いを増すばかりで、視界はほとんど利かない。馬の足取りも次第に鈍くなっていく。
「くそ、どこもかしこも道が分かんねぇ……!」
悪態をつきながら、それでも張飛は馬を進め続けた。しばらく彷徨った末、崖の下に洞のような窪みを見つける。
「あそこだ!」
二人は馬を降り、雨風を凌げるその場所へと駆け込んだ。
*
洞窟の中は、外の豪雨の音がわずかに遠のくだけで、それでも肌寒さは変わらなかった。子義は息を整えると、張飛の腕を取った。
「見せろ、張将軍」
「平気だ、こんくらい」
「いいから見せろ」
有無を言わさぬ声音に、張飛は渋々と腕を差し出す。矢傷は幸い浅く、雨に流されながらも血がじわりと滲んでいた。
「……すまない。俺のせいだ」
「あぁ? なに言ってやがる」
「俺が無茶な策を立てたから、お前が――」
「うるせぇ。お前を助けるのは俺が勝手にやったことだ。謝んな」
ぶっきらぼうにそう言われ、子義は言葉を飲み込んだ。持っていた布を裂き、手早く腕に巻きつけていく。手当てを終える頃には、子義の指先はすっかり悴んでいた。
「……子義? どうした」
包帯を結び終えたところで、子義の身体がふらりと傾いだ。張飛が慌てて支える。
「おい! しっかりしろ!」
「……すまない、少し……目眩が……」
支えた身体は驚くほど冷たい。だが触れた額は、燃えるように熱かった。
「熱、出てんじゃねぇか! おい、子義!」
朦朧とした様子で、子義の意識が揺らいでいく。無理を重ねた身体が、雨に打たれて一気に体力を奪われたのだろう。張飛は焦りながらも、素早く周囲を見渡した。焚き火を熾す道具はない。濡れた着物のままでは、体温はどんどん奪われていくばかりだ。
「……仕方ねぇ」
覚悟を決めたように、張飛は自分の鎧と着物を脱ぎ捨てていく。逡巡なく、瞬く間に何も纏わぬ姿になると、次に朦朧とする子義の濡れた着物にも手をかけた。
「お、おい……張将軍、なにを……」
「じっとしてろ。このままじゃお前、凍え死んじまう」
抵抗しようとする子義だったが、熱に浮かされた身体には力が入らない。なされるがまま、鎧を、着物を剥がされていく。
「……や、め」
「暴れんな。これしか方法がねぇんだよ」
張飛は自らの体温を分け与えるように、震える子義の身体をしっかりと抱き寄せた。素肌と素肌が触れ合う。子義の身体はまだ冷たかったが、次第にその冷たさが、張飛の熱に溶けていくのが分かった。
「……悪ぃ、な。他に方法が思いつかなくてよ」
返事はない。子義は既に、朦朧とした意識の狭間を漂っていた。それでも、張飛の胸に頬を寄せる仕草だけが、微かな信頼を物語っていた。
やがて、規則正しい寝息が聞こえ始める。張飛はほっと息をついた。
「……よかった、寝たか」
冷えて強張っていた子義の身体が、少しずつ緩んでいく。張飛はそっとその背を撫でながら、雨音に耳を澄ませていた。
どれほどそうしていただろうか。ふと、腕の中の子義の唇から、掠れた声が漏れた。
「……置いてかないで、くれ……」
寝言だった。誰に向けたものかは分からない。だがその声には、隠しようのない不安が滲んでいた。張飛は一瞬、息を止めた。それから、そっと子義の髪を撫でる。
「――置いていくわけ、ねぇだろ」
囁くようにそう言うと、張飛は子義の頭をそっと胸元に抱き寄せた。
「俺がずっと、ここにいてやる」
外では、まだ雨が降り続いていた。だがその音は、いつしか二人にとって、不思議と穏やかな子守唄のように響いてーー張飛もいつしか眠りに落ちていた。




