第三話 正式加入
朝稽古を終えた後、張飛は水を飲んでいる子義の隣に腰を下ろした。汗を拭う手を止め、子義がちらりと視線を向ける。
「なんだ」
「なぁ、前から聞きてぇと思ってたんだが」
珍しく歯切れの悪い切り出し方に、子義は僅かに眉を上げた。
「お前、なんでこんな……傭兵みてぇな真似してんだ? あちこちの軍に渡り歩いてよ。お前ほどの腕と頭があれば、どこにだって腰を落ち着けられんだろ」
子義の手が、水筒を握ったまま止まった。しばしの沈黙が流れる。張飛はせかすことなく、ただじっと待っていた。
「……戦を減らしたいだけだ」
やがて、子義はぽつりと言った。
「俺の指揮ひとつで、死なずに済む兵がいる。俺の献策ひとつで、早く終わる戦がある。それだけの話だ」
「それだけか?」
張飛の問いに、子義は僅かに視線を逸らした。
「……それだけだ」
嘘ではない。だが、全てでもない。張飛はその微妙な間合いに気づいていた。無理に踏み込めば、この男はまた貝のように口を閉ざすだろう。それは分かっていた。
「……そうか」
張飛はあえて、それ以上を聞かなかった。代わりに、蛇矛の柄で自分の肩をとんとんと叩きながら、にやりと笑う。
「んじゃ、聞き方変えるぞ。戦を減らしてぇなら、うちに来い」
「――は?」
「劉備軍に入れよ、子義。俺たちと一緒に、太平の世ってやつを目指そうぜ」
あまりに直球な物言いに、子義は思わず目を丸くした。
「……正気か? 俺は元は敵軍の将だぞ」
「んなこたぁ関係ねぇだろ。今はもう客将だし、お前の腕も頭も、うちにとっちゃ喉から手が出るほど欲しいもんだ」
子義はしばらく黙り込んだ。膝の上で拳を握り、視線を地面に落とす。傭兵のように渡り歩くことに、未練などない。どの軍に属そうと、しょせんは同じことだ。
ただ、元いた軍への義理が、ほんの少しだけ胸に引っかかった。とはいえ、深い繋がりがあったわけでもない。それに――
目の前で呑気に蛇矛の柄を弄んでいる大男に、なぜか興味を惹かれている自分がいた。
……まぁ、それならそれで、悪くないか。
子義は小さく息を吐くと、そう結論づけた。
「……もとより、俺はどこかに根を張るような生き方はしていない。渡り歩くだけの、根無草だ。
それがお前らの下でも同じことなら――構わない」
子義は静かにそう言うと、小さく息を吐いた。
「よっしゃ!」
張飛は破顔すると、力任せに子義の背中を叩いた。むせる子義を気にする様子もなく、上機嫌に立ち上がる。
「兄者に伝えてくる! これで正式に仲間だな!」
その背中を見送りながら、子義はまだ微かに残る背中の痛みをさすった。それでも、口元には自然と笑みが浮かんでいた。
*
劉備、関羽にその旨が伝えられると、二人は大層喜んだ。
「よくぞ決心してくれた。歓迎するぞ、子義殿」
「うむ。良き将がまた一人、我らの元に集うとはな」
劉備が満面の笑みで言えば、関羽も静かに頷いてそれに応じる。子義は膝をつき、拱手して深く頭を下げた。
「不束者ですが、よろしくお願いいたします」
「堅苦しい挨拶はいらんぞ。今宵は酒だ! 子義殿の門出を祝おうぞ!」
その夜、ささやかながら祝いの宴が開かれた。大きな祝宴というほどではないが、篝火を囲み、諸将が酒杯を交わす和やかな席だった。
「子義! 飲んでるか!」
「……張将軍ほどのペースでは飲めん」
「なんだよ、そんなんじゃ強くなれねぇぞ!」
張飛が上機嫌に酒を注ごうとするのを、子義はやんわりと躱す。その様子を見ていた関羽が、珍しく口元を緩めた。
「益徳がここまで誰かに構うのを見るのは、久しいものだな」
「そうだな。あやつ、子義殿のことを随分と気に入っておる」
劉備の言葉に、子義は僅かに頬を染めながら杯を傾けた。
ふと見ると、張飛は自分の皿から肉を選んでは、さりげなく子義の皿に置いていた。本人は気づいていないのか、それとも当然のようにやっているのか、その手つきに気負いはまるでない。
「……張将軍、これは?」
「あ? 好きだろ、それ。前に美味そうに食ってたじゃねぇか」
なんでもないことのように言われ、子義は少し驚いた。豪快で大雑把なだけの男だと思っていたが、案外そういう細かいところまで見ているらしい。
「……よく覚えているものだな」
「そりゃ、覚えとくだろ、子義のことは」
照れる様子もなくそう言われ、子義はどう返していいか分からず、黙って肉を口に運んだ。宴は夜更けまで続き、笑い声が絶えることはなかった。
*
数日後、子義は正式に劉備軍軍師兼武将、そして張飛軍副将として任じられた。以来、二人が共に過ごす時間は一段と増えていった。
「副将殿、よろしくな」
「その呼び方はやめてくれ」
「なんでだよ、正式な役職じゃねぇか」
からかうように笑う張飛に、子義はやれやれと首を振る。だがその表情に、以前ほどの硬さはなかった。日々の稽古、共に囲む食事、他愛のない軍議の合間の雑談――そうした積み重ねの中で、二人の間の壁は、少しずつだが確かに薄れていく。
「なぁ、張将軍」
ある晩、酒を酌み交わしながら子義がふと口を開いた。
「なんだ、改まって」
「いや……その、なんだ。…この頃、お前と話していると、以前より随分と気が楽になったと思ってな」
「おう? おー、そりゃそうだろ、俺たちゃもう仲間なんだからよ!」
豪快に笑う張飛につられ、子義もまた小さく笑みをこぼした。何気ないやり取りの中に、子義自身もまだ気づいていない小さな変化が、確かに芽生え始めていた。




