第二十七話 ご機嫌
「おい、益徳。なんだその顔は。だらしなさすぎるだろう」
朝一番、天幕に現れた張飛の顔を見るなり、関羽が呆れたように眉を寄せた。劉備もまた、初めて目にする義弟の緩みきった表情に、苦笑いを隠しきれずにいる。
「んあ? べ、別にいつも通りだ」
「どこがだ。顔が溶けてるぞ」
「で、何があったんだ、益徳」
劉備が興味津々といった様子で身を乗り出す。しばし躊躇っていた張飛だったが、結局は堪えきれず、昨夜の別れ際の話をぽつぽつと語り始めた。
「おお、それはもう……」
劉備がニヤニヤと笑う。張飛も「だろー?」とえへらえへらと締まりのない顔を晒す。
「まだ告白の返事をもらったわけではないのだから、油断するな」
そこに、関羽がぴしゃりと釘を刺した。
「わぁーってるよぉ! でもよぉ……へへへ」
拗ねたように口を尖らせたかと思えば、すぐにまたにやけてしまう。忙しない表情の変化に、劉備がうむ、と髭を撫でた。
「ここはシャキッとして、ドンと構えておかなくてはな」
殊勝な忠言も、当の本人には半分も届いていないようだった。上の空の張飛を前に、劉備と関羽は顔を見合わせ、揃って肩をすくめるのだった。
「まったく……あれで将が務まっているのだから、恐れ入る」
「ふふ、それも益徳らしいではないか」
呆れ半分、微笑ましさ半分といった様子で、二人はそんな言葉を交わし合った。
その足で朝稽古の場に向かった張飛だったが、木刀を構えても、握る手がどこか落ち着かない。素振りの合間に何度も気もそぞろな様子を見せては、我に返ったように咳払いをする始末だった。
「張将軍、そんなでは隙だらけですぞ」
見かねた兵の一人にからかわれ、張飛はようやく我に返ったように木刀を構え直した。それでも、口元に浮かんだ緩みきった笑みだけは、最後まで消えることがなかった。
*
「義! 飯だぞ!」
軍議の天幕を後にした張飛が、いつものように子義を呼びに向かう。
「ああ、おはよ……」
振り向いた子義は、張飛の顔を見るなり眉を寄せた。
「……お前、なんだその顔は」
「あ? な、なんもねぇよ! いつも通りだ!」
顔を赤くしながら、張飛は慌てたように視線を逸らす。
「いつも通りには見えないが」
「うるせぇ! いいから飯行くぞ!」
しどろもどろに誤魔化す様子に、子義はやれやれと肩をすくめるしかなかった。
*
その日は、一緒に飯を食い、共に鍛錬で汗を流し、湯浴みをし、夜には軽く酒を酌み交わす。特別なことは何もない、いつもと変わらない一日だった。
それなのに、子義はその一つ一つに、これまでにない愛おしさと幸せを感じていた。飯を頬張る張飛の横顔、稽古の合間に交わす他愛のない軽口、湯上がりに火照った肌――そのすべてが、今はかけがえのないものに思える。
「なぁ、義。今日も付き合ってくれてありがとな」
「……当たり前のことだろう」
「へへ、そうだけどよ」
照れくさそうに頭を掻く張飛を見つめながら、子義もまた小さく笑みを返した。
稽古を終えた井戸端で、水を浴びる張飛の背中をぼんやりと眺めながら、子義はふと思う。こんな他愛のない日常が、これほどまでに満たされたものに感じられる日が来るとは、思いもしなかった。傭兵として渡り歩いていた頃は、ただ日々を凌ぐことしか考えていなかったというのに。
「なんだよ、義。見惚れてんのか?」
水しぶきを飛ばしながら、張飛がにやりと笑う。
「……自惚れるな」
素っ気なく返しながらも、子義の口元は緩んだままだった。
夕暮れ時、稽古を終えた二人は、他愛のない話をしながら並んで陣を歩いた。今日の飯は何にするか、明日の天気はどうか――そんな、取るに足らない会話ばかりだった。それでも、隣を歩くこの時間そのものが、子義にとってはこの上なく大切なものに思えた。
*
夜、自室に戻った子義は、一人静かに思いを巡らせていた。
これはもう――そういうことなんだろうな。
誰に問うでもなく、胸の内でそう呟く。目の前には、張飛からもらった木彫りの人形が置かれていた。粗削りで不格好なそれを見つめていると、自然と頬が緩んでしまう。
この不器用な男の傍にいる自分を、これから先も想像できる。それどころか、想像するだけで胸の奥が温かくなる。かつては考えもしなかった未来だった。




