第二十二話 開戦
早朝、天幕の中で身支度を整えながら、子義はふと手を止めた。
手のひらの中には、張飛がくれた木彫りの人形がある。粗削りながらも、確かな想いの込められたその姿を、子義は慈しむように見つめた。
あの日感じた、大きな手のひらの温もりを思い出すと、それだけで胸の鼓動が僅かに速くなる。あんな不器用な男が、こんなにも丁寧に何かを作れるとは、思いもしなかった。
これから戦場に立つというのに、不思議と恐れはなかった。この小さな人形一つが、まるで自分の背中を押してくれているようだった。
これまで幾度となく戦場に立ってきたが、こんな気持ちで臨む戦は初めてだった。誰かのために生きて帰りたいと、これほど強く思ったことも。
子義はその人形を丁寧に布で包み直すと、そっと懐にしまい込んだ。これから向かう戦場に、確かなお守りを連れて行くように。
「義ー!」
外から、張飛の声が響く。
「ああ! 今行く!」
子義は身を翻すと、慌てて天幕を飛び出した。外に出た瞬間、陣営全体に張り詰めた空気が漂っているのを肌で感じる。兵たちが黙々と武具を整え、馬が落ち着かなげに嘶いていた。
「桓将軍、本陣の配置は指示通りに」
副官が駆け寄り、短く報告する。子義は頷きながら、素早く視線を巡らせた。
「よし、抜かりないな。行くぞ」
気を引き締め直すように短く応じると、子義は本陣へと足を向けた。その途上、既に武装を整えた張飛と行き合う。
「おう、義! 準備万端だな!」
「ああ、そっちもな」
互いに頷き合うと、そのまま並んで歩き出す。ここから先、それぞれの持ち場に着くまでの、ほんの短い時間だけが、二人にとって最後の穏やかなひとときだった。
*
開けた平原には、すでに自軍と敵軍、双方の大軍が展開しつつあった。両軍とも、広く横に陣を広げた横陣を敷いている。旗指物が風にはためき、鎧の擦れる音があちこちから響いていた。
本陣の高台に立ち、子義は改めて戦場全体を見渡した。敵の兵数、布陣の隙、地形の起伏――一つひとつを冷静に頭に叩き込んでいく。緊張はある。それでも、思考は驚くほど澄み渡っていた。
張飛は横陣中央の主攻部隊へ、子義はその後方に控える本陣へと、それぞれ向かっていく。
「義! 無茶すんなよ!」
「ああ! 張将軍も、ご武運を!」
「おう!」
互いに拳を軽くぶつけ合うと、二人はそれぞれの持ち場へと別れていった。
背を向けて歩き出す張飛の広い背中を、子義は一瞬だけ見つめた。あの背中に何度も救われてきた。今日もまた、互いに無事でこの場所に戻ってこられますように――そう、胸の内でそっと祈った。
どちらの顔にも、これから戦場に立つ者としての、厳しい表情が浮かんでいた。先ほどまでの他愛のないやり取りが嘘のように、両者とも一瞬にして戦人の顔に変わる。
本陣に着いた子義は、副将たちを集め、最終確認を始めた。
「合図は必ず見逃すな。左右の連携が全てを決める」
「承知!」
声を揃えて応じる副将たちの目にも、確かな決意が宿っていた。子義は一人ひとりの顔を見渡し、小さく頷いた。この者たちを、一人でも多く生きて帰す。それもまた、自分の役目だった。
*
やがて、敵陣から重々しいドラの音が響いた。
その音を合図に、敵軍の左翼が動き出す。土煙を上げながら前進する敵の姿に、自軍の兵たちの間にも緊張が走った。
子義はそれを見逃さず、すぐさま自軍のドラを打ち鳴らし、旗を高く掲げた。合図を受けた自軍右翼が、間髪入れず呼応するように動き出す。
遠く中央では、張飛が蛇矛を構え、獰猛な笑みを浮かべているのが見えた。あの男もまた、この瞬間を待ちわびていたのだろう。
両軍の喊声が、平原に響き渡る。土煙が空を覆い、馬蹄の轟きが大地を揺らした。
こうして――戦の火蓋が、切って落とされた。




