第十九話 合図
夜も更けた頃、天幕には未だ灯りが点いていた。子義と張飛は向かい合って座り、戦に向けた部隊の連携方法を詰めていた。卓の上には、合図の意味を記した紙が幾枚も広げられている。
「ええと……この合図は、右翼を動かすんだったか?」
「違う。それは左翼前進の合図だ」
「んじゃ、これが右翼だろ!」
「それは中央だ」
張飛は腕組みをしたまま、顔を真っ赤にして唸っている。
「んがががが……難しすぎねぇか、子義」
その必死な形相に、子義は思わず苦笑いを漏らした。
「お前は頭を使うより先に、身体が動く質だからな」
「うるせぇ! バカにしてんだろ!」
むきになりながらも、張飛はもう一度紙を睨みつける。
「じゃあこれは……えーと、後退の合図、だったか?」
「惜しいな。それは待機の合図だ」
「くそっ、紛らわしいんだよ!」
頭を抱えて唸る張飛の姿に、子義は思わず笑ってしまいそうになるのを堪えた。このままでは埒が明かない。子義はしばし考え込むと、卓の上の紙を一枚手に取った。
「……よし、益徳。まずは、これだけは絶対に守る、という単純な合図を一つ決めよう」
「お、なんだ?」
「俺が手を握って天に突き上げていたら、突撃。手を開いて天に突き上げていたら、止まれ。それだけだ」
「おお! それなら簡単だな!」
張飛はぱっと表情を明るくした。
「握ってたら突撃で、開いてたら止まれだな!! 覚えたぞ!!」
「本当か?」
「おう!」
自信満々に頷く張飛に、子義は苦笑いを浮かべながらも、どこか安堵していた。少なくとも、これだけは間違えないだろう。
「よし、確認だ。今から俺が手を上げる。合図を言ってみろ」
子義がすっと手を握って天に突き上げる。
「突撃!」
「正解だ。では、これは?」
今度は手を開いて突き上げる。
「止まれ! ……よし、完璧だな!」
得意げに胸を張る張飛に、子義は思わず頬を緩めた。単純な男だとは思っていたが、こうして一つずつ確実に覚えていく姿は、存外に頼もしくもあった。
*
「なぁ、頭使ったら腹減ったな! 飯食って風呂入ろうぜ、義!」
張飛の誘いに、子義も素直に乗った。二人で並んで飯を食い、腹を満たしてから、連れ立って湯屋へと向かう。夜風が火照った身体に心地よく、他愛のない話をしながら歩く時間は、それだけで穏やかだった。
湯屋に着くと、張飛は誰よりも先に着物を脱ぎ捨て、我先にと湯船に飛び込んだ。
「くぅー、染みるぜ!」
豪快に湯を撥ねさせる張飛の後を追い、子義もゆっくりと身を沈める。疲れた身体に染み渡る熱が、なんとも言えない心地よさを運んできた。
ふと、子義の目に、張飛の背中に刻まれた傷跡が留まった。あの日の、深い傷の跡だ。
「……益徳、これ……痛まないか?」
子義はそっと手を伸ばし、傷跡にそっと触れた。
「おうよ! もうなんともねぇ」
張飛はあっけらかんと答える。だが、その痕は思いのほか大きく、生々しく残っていた。子義の表情が、僅かに曇る。
「……跡が、残ってしまったな」
「あ? なんだ、そんなこと気にしてんのか。カッコいいだろ! 義を守った、名誉の勲章だかんな!」
張飛は振り返ると、にかっと笑って見せた。
屈託のないその笑顔に、子義は思わず目元を緩めた。
「……そうか。ありがとうな」
傷跡をそっと指先で撫でながら、子義は静かに呟いた。
その一言に、張飛の背中がぴくりと強張った。
撫でるように動く指先の感触が、思いのほか長く背中に残る。加えて、狭い湯船の中でじりじりと近づく距離、時折触れ合う肩や膝――そうした一つひとつが、じわじわと張飛の身体の芯に熱を集めていった。
「……っ、や、やべ」
小さく漏らした声に、子義が怪訝そうに顔を上げる。
「どうかした?」
「な、ななななんでもねぇ!」
弾かれたように身を離すと、張飛は慌てて両手で股間を覆い隠した。
「ずりーぞ、こんな狭いとこで……」
ぼそりと零された恨み言に、子義は怪訝そうに首を傾げるばかりだった。何が「ずるい」のか、本人にはさっぱり見当もつかない。
「……変な奴だな、お前は」
「うるせぇ……男なんだからしゃーねぇだろぉ!」
意味の分からない八つ当たりに、子義は思わず噴き出した。
「俺のせいにするな。……とはいえ、悪かったな、近づきすぎた」
「べ、別にいいけどよ……」
ばつが悪そうに視線を泳がせながらも、張飛はそれ以上文句を続けなかった。ぬるくなり始めた湯の中、二人はしばらく無言のまま、夜空を仰いでいた。
湯気の向こうに浮かぶ月を眺めながら、子義はふと思う。こんな他愛のない時間が、これほど心地よく感じられる日が来るとは、思ってもみなかった。
「なぁ、義」
「なんだ」
「明日も、こうやって一緒に飯食おうな」
「……ああ、そうだな」
どちらからともなく笑い合い、二人の夜は今日もまた、賑やかに更けていった。




