第十七話 告白
草の匂いを孕んだ夜風が、二人の間をそっと吹き抜けていく。空にはまだ星が瞬き始めたばかりで、地平の際はまだ薄っすらと橙色を残していた。
「……益徳」
夕闇に包まれ始めた丘の上、子義は静かに口を開いた。
「なんだ」
「俺のせいだ。すまなかった」
その一言に、張飛は驚いたように目を見開き、それからすぐに首を振った。
「お前のせいじゃねぇよ。何度も言ってるだろ」
「だが……」
「いいから、もう気にすんな」
あっさりと言い切る張飛に、子義はどうしても納得できなかった。膝の上で拳を握りしめる。
「気にするなと言われて、気にせずにいられるわけがないだろう」
「頑固だな、お前も」
「お前ほどではない」
軽口を挟みながらも、子義の表情は晴れなかった。
「なぜだ。なぜお前は、そこまでして俺を守った」
「約束したからだよ」
張飛は事も無げに、そう嘯いた。だが、子義はその答えに、ますます眉根を寄せる。
「その約束で、お前が死ぬなら――そんな約束など、するべきではなかった」
「大丈夫だ。俺は死なねぇよ」
「そんなわけがあるか!」
思わず声を荒げた子義に、張飛が息を呑む。
「お前が……お前が死んでしまうんじゃないかと、怖かった」
声が震える。目には、うっすらと涙が浮かんでいった。
「あの時、お前の血で手が濡れて……もう、駄目かもしれないと思って……」
握りしめた手が、小刻みに震えている。張飛はしばし呆然と、その姿を見つめていた。
こんな顔をする男だとは、思わなかった。いつも冷静で、迷いなど微塵も感じさせないこの男が、今は迷子の子供のように心細げな顔をしている。その事実が、張飛の胸を強く締め付けた。
*
やがて、張飛はゆっくりと手を伸ばすと、子義の両手をそっと包み込んだ。
「……義」
「なんだ」
「俺は――」
言うつもりなど、なかった。言うとしても、もっと時間をかけて、ちゃんと考えてから、伝えるつもりだった。それなのに――堰を切ったように、想いが言葉になって溢れ出す。
張飛は一度、大きく息を吸い込んだ。
「――お前が好きだ」
その一言に、子義の時が止まった。
これまでの人生で、誰かにそう言われたことなど一度もなかった。戦場を渡り歩くだけの日々の中で、そんな言葉を向けられる自分を、想像したことすらなかった。
「俺はお前の、生きる理由になりてぇ」
一言ずつ、噛みしめるように紡がれる言葉だった。夜風が止み、辺りは張飛の声だけが響くほどに静まり返っていた。
「お前の、帰る場所になりてぇ」
子義の両手を包み込む掌に、じんわりと力がこもる。その言葉を紡ぐ手が、微かに震えていることに、子義は気づいた。豪快なだけの男だと思っていたその手が、今はこんなにも心許なく揺れている。
「男同士とかそんなん関係ねぇ。俺は、――お前と、ずっと一緒にいてぇ」
張飛は一度言葉を切ると、真っ直ぐに子義を見つめた。星明かりの下、その瞳には、これまで見たことのない真剣な光が宿っていた。
「だから俺は死なねぇ。約束する。お前を残して、死んだりしねぇから」
言い終えた張飛は、そのまま息を詰めるようにして返事を待った。
子義は、すぐには声が出せなかった。心臓が早鐘のように打ち、頭の中が真っ白になる。誰かにここまで真っ直ぐな想いを向けられたことなど、これまでの人生で一度もなかった。何を、どう返せばいいのか――分からない。ただ、握られた両手だけが、確かな現実として熱を伝えてくる。
「……俺は……すまない、分からない。自分の気持ちが」
子義は、言葉を探しあぐねながらそう零した。この胸の内にある感情に、まだ名前をつけられない。それでも――
「……そっか」
「だが、お前が大切だ。失いたくない。お前の笑顔が、見たいと思う」
絞り出すようにそう伝えると、子義は張飛をまっすぐに見返した。
「だから、もう少し……時間をくれないか」
張飛は一瞬、驚いたように瞬きをした。それから、満面の笑みを浮かべる。
「おう、急がなくていい。俺は、いつまでだって待つ」
力強くそう言い切る声に、子義の胸の奥が、じんと熱くなった。
「……本当に、いいのか。待たせるかもしれないぞ」
「いいんだよ。お前が出す答えなら、どんなに待ったって構わねぇ」
迷いのないその言葉に、子義は思わず目を伏せた。こんなにもまっすぐな想いを向けられたのは、初めてだった。
しばしの沈黙の後、張飛が少しおずおずと尋ねる。
「……なぁ、抱きしめてもいいか?」
子義は一瞬呆気にとられ、それからくしゃりと相好を崩した。
「ああ」
迷いのない返事に、張飛の腕がそっと伸びる。引き寄せられるまま、子義はその胸に身を預けた。
こぼれ落ちそうな星空の下、二人は言葉もなく、ただ静かに抱きしめ合っていた。
張飛の胸に耳を当てると、少し速い鼓動が伝わってくる。それが自分と同じ速さであることに、子義はどこか安堵にも似た気持ちを覚えた。
どれほどそうしていただろうか。やがて、どちらからともなく身を離すと、二人は照れ臭さを誤魔化すように、同時に視線を逸らした。
「……そろそろ、戻るか」
「ああ」
立ち上がりながら、張飛がそっと手を差し出す。子義は一瞬迷ってから、その手を取った。星明かりの下、二人は並んで丘を下りていった。




