第十六話 回復
気づけば、外はすっかり夜になっていた。
子義は泥のように眠っていた。夢も見ないほどの深い眠りだったが、ふと目を覚ました瞬間、頭の中は一気に覚醒した。倒れ込んでからどれほど経ったのか、自分でもよく分からない。ただ、目を覚ました瞬間、真っ先に浮かんだのは張飛のことだった。
顔を洗い、手早く服を着替えると、子義は真っ直ぐに張飛の天幕へと向かった。全身にはまだ気怠さが残っていたが、そんなことよりも、張飛の容態の方がずっと気がかりだった。
中では、関羽が静かに見守りを続けていた。子義が姿を見せると、関羽は小さく頷く。
「まだ眠っている。だが、顔色は随分と良くなった」
「……そうですか」
「では、私も休ませてもらおう」
立ち上がりかけた関羽が、ふと足を止め、子義の肩を軽く叩いた。
「子義殿のせいではない。それだけは、忘れるな」
その言葉に、子義はすぐには答えられなかった。ただ、小さく頭を下げるだけで精一杯だった。
関羽が天幕を出ていくと、子義は黙って張飛の傍らに腰を下ろす。気づけば、自然とその手を握っていた。
*
しばらくして、微かに指先が動いた。
「……義……?」
「益徳……! 大丈夫か!?」
弾かれるように顔を上げる子義。目を開けた張飛は、少し困ったように眉を下げた。
「大丈夫だ……それより、お前こそ寝てねぇんじゃねぇか」
「俺のことはいい。お前が心配なんだ」
「んなこと言ったって……」
「いいから、休め」
有無を言わさぬ声音で言われ、張飛は渋々ながらも大人しく目を閉じた。だが、閉じる寸前、ふと小さく笑った。
「……お前がそうやって怒った顔すんの、なんか安心するな」
「なんだ、それは」
「いや、なんとなくだ」
からかうような口ぶりに、子義は呆れたように息を吐く。それでも、再びその手を握りしめると、静かに寄り添い続けた。
*
それから、張飛の回復は驚くほど順調だった。
「これほどの傷でこの回復力とは、正直信じがたい」
診察に訪れた医者が、感嘆混じりにそう呟くほどだった。一週間も経つ頃には、支えを借りながらも自分の足で歩けるようになっていた。
その間、子義は自分の時間の大半を、張飛の看病と付き添いに費やした。食事の世話を焼き、包帯を替え、時には他愛のない話し相手になった。
「よし、今日はここまで歩いてみるか」
子義に肩を貸してもらいながら、張飛は天幕の周りをゆっくりと歩く練習を重ねていった。最初はほんの数歩でも息が上がっていたが、日を追うごとに歩幅は広がり、足取りも確かなものになっていく。
「見ろ、義! もうこんなに歩けるようになったぞ!」
「調子に乗るな。まだ無理はするな」
得意げに胸を張る張飛を、子義はやんわりと窘めた。だが、その口元には隠しきれない安堵の笑みが浮かんでいた。
「なぁ、義。そこまでしなくても、俺はもう平気だぞ」
「お前が平気でも、俺が平気じゃない」
素っ気なく返しながらも、子義の手つきは終始丁寧だった。
ある日、包帯を替えていた際、子義はふと下帯が汚れているのに気づいた。
「よし、これも替えるぞ」
当然のようにそう言うと、子義はその紐に手をかけた。
「――は!?」
張飛が弾かれたように飛び起きる。傷が痛んだのか、途端に顔を歪めながらも、それでも必死に後ずさった。
「ちょ、待て待て待て! それは自分でやる!」
「だって汚れてるぞ」
「そーだよ! だから汚ねぇから触んな! 自分でやっから!」
顔を赤くしながら喚く張飛に、子義はきょとんとした顔で首を傾げた。
「別に、益徳のなら汚いとも思わない。俺は気にしないぞ」
「ちょ、おま、それ……いや、そうじゃなくて! 大丈夫だから、ホント!」
じりじりと後退りながら、張飛は片手で股間を隠しつつ、もう片方の手を顔の前でぶんぶんと振り回す。その様子に、子義はしばし怪訝そうな顔をしていたが、やがて小さく肩をすくめた。
「そうか、仕方ないな」
子義は小さく苦笑いを浮かべると、あっさりと引き下がった。その様子に、張飛はどっと安堵の息を吐く。その一部始終があまりにおかしくて、子義は思わず噴き出してしまった。普段は豪快な男が、こんなことでここまで狼狽えるのかと思うと、なんだかおかしくて仕方なかった。
*
一カ月後。
張飛はすっかり回復していた。本調子には多少及ばないものの、剣を振るうにも支障はないほどだった。
その日の夕暮れ、二人は自然な足取りで、あの丘へと向かっていた。
「久しぶりだな、ここに来んのも」
「ああ」
草の上に並んで腰を下ろす。傾きかけた陽の光が、二人の影を長く伸ばしていた。
「……お前が元気になって、本当に良かった」
ぽつりと零された言葉に、張飛は照れ臭そうに頬を掻いた。
「お前が、支えてくれたおかげだよ」
張飛はそう言うと、少し照れたように子義の手にそっと自分の手を重ねた。
「これからも、頼りにしてるからな」
「……こちらこそだ」
子義もまた、その手を握り返す。夕風が二人の間をそっと通り抜けていく。しばらくの間、どちらも言葉を発することなく、ただ静かに寄り添っていた。




