第一五話 看病
夜が更けても、子義は張飛の傍を離れなかった。
天幕の中には、薬草の匂いと血の気配が微かに残っていた。外では夜番の兵が時折巡回する足音が聞こえるだけで、あとは静寂に包まれている。
苦しげな寝息を漏らす張飛の額に、幾度となく濡れ手拭いを当て直す。熱で火照った肌に、水気の失われた布はすぐにぬるくなってしまう。それでも子義は、手を止めることなく繰り返した。
「……益徳」
呼びかけても、返事はない。何度目かの手拭いを絞りながら、子義は唇を噛んだ。
(俺は、何もできない)
あれほどの武勇を誇る男が、今はただ、生死の境をさまよっている。剣を振るうことも、策を巡らすこともできず、ただ手拭いを取り替えることしかできない自分が、歯痒くて仕方なかった。
「益徳……頼む……」
張飛の手を両手で握りしめ、子義は額をその甲に押し当てる。祈ることしか、今の自分にはできなかった。
時折、張飛の眉間に苦しげな皺が寄る。うなされるような呻き声が漏れるたび、子義の心臓は跳ね上がった。そのたびに手を握る力を強め、大丈夫だ、大丈夫だと、自分に言い聞かせるように繰り返した。
脳裏には、幾度となくあの丘での言葉が蘇る。俺が悲しい。だから死ぬな――そう言ったのは、他ならぬ張飛自身だった。ならば今、その約束を破ろうとしているのは、お前の方ではないか。子義はそう心の中で語りかけた。
*
「子義殿、少しは休んだらどうだ」
夜半、様子を見に来た劉備が、静かに声をかけた。子義はゆるく首を振る。
「……いえ、大丈夫です」
「大丈夫には見えんが……せめて、水だけでも飲みなさい」
劉備が苦笑交じりにそう言うと、隣に立つ関羽も無言で頷いた。
差し出された水筒を、子義は一瞬迷った末に受け取った。だが、口をつけたのはほんの一口だけで、すぐに視線は張飛へと戻ってしまう。それでも、子義はそれ以上何も言わず、張飛の手を離そうとしなかった。二人は互いに顔を見合わせ、それ以上は何も言わずに天幕を後にした。
その後も、幾度となく誰かが顔を覗かせては、同じように休息を促した。だがそのたびに、子義は同じ答えを返し続けた。
夜はゆっくりと、しかし確実に更けていった。天幕の外で兵たちが交代する気配、遠くで馬がいななく声――そうした物音が時折聞こえてきたが、子義の意識は片時も張飛から離れなかった。
気づけば、天幕の隙間から白い光が差し込み始めていた。夜が明けたのだ。
*
「……義……?」
掠れた声が、静寂を破った。子義はばっと顔を上げる。
「益徳!」
薄く開かれた目が、こちらを見つめている。待ち望んだ声に、子義の目にみるみる涙が浮かんだ。
「義……怪我、ねぇか……?」
「ああ……ああ! お前の……益徳のおかげで、どこも怪我なんてしていない……!」
震える声で、子義はそう答えた。安堵と、堪えきれない感情が、一度に押し寄せてくる。
「そぉかぁ……なら、良かったぁ……」
安心しきったように呟くと、張飛はまた静かに目を閉じた。
「益――」
思わず名を呼びかけたところで、肩に軽く手を置かれる。振り向くと、関羽が立っていた。
「益徳はもう大丈夫だろう。子義殿も、一度休みなさい」
「しかし……」
子義は張飛の顔を心配そうに見つめたまま、言葉を濁す。手は、しっかりとその手を握ったままだった。
「峠は越えたように見える。子義殿が休んでいる間は、私が見ていよう。
それに、このままでは子義殿が倒れてしまう。次に益徳が目を覚ました時、子義殿の方が倒れていたら――それこそ、益徳が悲しむだろう」
関羽は静かに、だが有無を言わさぬ声音でそう続けた。
その言葉に、子義はようやく肩の力を抜いた。
「……分かりました」
名残惜しげに張飛の手を離すと、子義は深く頭を下げた。
「何かあれば、必ずすぐに知らせてください」
「承知した」
念を押すように繰り返す子義に、関羽は静かに頷いた。その様子に、ようやく安心したのか、子義は一度だけ振り返って眠る張飛の顔を見つめると、天幕を後にした。
天幕を出た瞬間、足元がふらついた。想像していた以上に、体力を消耗していたらしい。ふらつく足取りのまま、子義は自分の天幕へと戻る。倒れ込むように布団に身を投げ出すと、そのまま意識は闇の中へと沈んでいった。




