第十四話 治療
医者の処置が終わった。
夜が更けても、陣営には落ち着かない空気が漂っていた。あちこちで兵たちが不安げに囁き合い、灯りの消えない天幕がいくつも見える。
天幕の外に控えていた子義は、医者が姿を見せた瞬間、待ちきれずに駆け寄った。手には、まだ乾ききらない血がこびりついたままだった。
「おい、益徳は!? 大丈夫なのか!?」
天幕から出てきた医者の胸ぐらを、子義は掴まんばかりの勢いで詰め寄った。
医者は苦しげに眉を寄せながら、それでも淡々と告げる。
「……出来ることは、すべてやりました。幸い、傷は臓器や骨までは達しておりません」
「なら――」
「ただ、血を流しすぎております」
医者は一度言葉を切ると、重い声で続けた。
「今夜が、山かと」
子義の手から、力が抜けていく。指の間から、医者の襟がするりと滑り落ちた。
「子義殿」
その肩に、関羽がそっと手を置いた。
「……すまない」
我に返った子義は詫びの言葉を絞り出すと、逃げるように天幕の中へと足を踏み入れた。
*
薄暗い天幕の中、布団の上に横たわる張飛の姿があった。顔は蝋のように青白く、血の気がほとんど失われている。それでも、微かに上下する胸だけが、まだ命の続きを示していた。傍らには、赤く染まった布が幾重にも重ねられ、部屋の隅には、脱がされた血まみれの鎧が無造作に置かれていた。
子義は言葉もなく、その傍らに座り込む。両手で、張飛の大きな手を包み込むように握った。硬く節くれ立ったその手は、いつもの熱を失い、驚くほど冷たかった。
「……益徳」
呼びかけても、返事はない。
改めて見るその手には、大小さまざまな古い傷跡が刻まれていた。数え切れぬほどの、これまでの戦いの跡だ。誰かを守るたびに、こうして傷を重ねてきたのだろうか。豪快なだけの男だと思っていた自分が、ひどく浅はかに思えた。
子義はその手の甲に、そっと自分の額を押し当てた。堪えきれず、涙が幾筋も零れ落ちていく。
「なんで……お前は、そこまでして……俺を……
死ぬな……益徳……」
声を震わせながら、子義はそう繰り返した。
まるで祈るように、繰り返しその名を呼びながら、子義は張飛の手を握り続けた。周囲の音も、時の流れさえも、その手の温もりだけを頼りに繋ぎ止めようとするかのように。
外では、夜がゆっくりと更けていく。虫の声も、風の音も、今の子義には何一つ届いていなかった。ただ、目の前で眠る男の呼吸だけを、必死に数え続けていた。
脳裏には、あの丘での言葉が何度も蘇る。俺が悲しい。だから死ぬな――お前が、そう言ったんだろう。ならば今、約束を破ろうとしているのはお前の方じゃないか。子義は歯を食いしばり、崩れそうになる自分をどうにか繋ぎ止めた。ここで自分まで取り乱せば、この男を送り出すことになる。そんな未来だけは、決して認めるわけにはいかなかった。
*
その様子を、少し離れた場所から劉備と関羽が見守っていた。
子義もまた、全身に傷を負っている。それにもかかわらず、手当ても受けようとせず、ただ張飛の傍を離れようとしない。焦燥に染まったその横顔は、いつ倒れてもおかしくないほど、ひどく危うく見えた。
だが、今何を言ったところで、この場から動きはしないだろう。二人は目配せを交わすと、静かに天幕を後にした。
「……益徳は、大丈夫かな」
歩きながら、劉備がぽつりと呟く。関羽は前を見据えたまま、静かに答えた。
「あやつが、子義殿を残して死ぬわけがないでしょう」
「……そうだな」
「ええ、兄者。益徳は――強い男ですから。それに、あの男には、帰る理由がある。それも、命に代えても、という類のものが」
関羽は静かにそう続けた。
劉備は静かに頷くと、天幕の方角を振り返った。
「子義殿もまた、そうなのだろうな」
劉備は静かに目を細めた。かつて客将として迎え入れたあの日の子義と、今の子義とでは、まるで別人のように表情が違う。それも、益徳という男のおかげなのだろう。
夜風の中、二人の声だけが、静かに響いていった。




