第十三話 脱出
張飛と子義、二人の奮戦によって、ついに敵の包囲に一筋の穴が開いた。
「義! 馬は!?」
「いる! 益徳は!?」
「走りつぶしちまった!」
「乗れ!」
有無を言わさず、張飛は子義の馬に飛び乗った。二人分の重みを受け、馬体が一瞬沈む。
「舌噛むぞ、掴まってろ!」
言うが早いか、子義は馬腹を蹴った。全速力で敵陣を突き抜けていく。矢が幾筋も空気を裂いて飛び交う中、馬の蹄が跳ね上げる土くれが、頬を鋭く打った。
背中に感じる張飛の重みは、いつになく重かった。全体重を預けるように寄りかかってくるその身体を、子義は歯を食いしばりながら受け止める。振り向く余裕すらないまま、ただひたすらに陣営を目指して馬を駆り続けた。追撃の気配が背後から迫るたびに、子義は手綱を強く握り直した。
「……益徳、しっかり掴まってろよ」
返事はない。だが、背中に感じるかすかな体温だけを頼りに、子義は闇の中をひた走った。時折、背後で馬の嘶きと怒声が聞こえたが、振り返る余裕はなかった。ただ前だけを見て、ひたすらに駆け続けた。
*
遠くに見張りの篝火が見え始めた頃には、子義の腕もすでに限界に近かった。それでも、手綱を離すことだけはしなかった。
ようやく陣に辿り着き、馬を降りる二人。だが、張飛の口数はやけに少なかった。
「……益徳? どうした」
子義が顔を覗き込むと、薄明かりの下でも分かるほど、張飛の顔は青白かった。
「大丈夫か? 顔が真っ青だぞ」
問いかけに、張飛はふっと微笑んだ。
「……お前が、無事で……良かった……」
そう言うと、糸が切れたように、その巨躯が子義の方へと崩れ落ちてきた。
「――益徳!」
慌てて受け止める子義。だが、その瞬間、背中に触れた掌に、生温かくぬめる感触が広がった。
「……え? あ? なんだ、これ……血……?」
震える指先で確かめる。掌が、赤黒く濡れていた。
弾かれるように、張飛の背に触れる。着物はすでに芯まで濡れそぼり、鎧の隙間からも、じわりと血が滲み出していた。生半可な出血量ではない。
「おい、益徳!! おい!! お前、なんだよこれ!」
叩いても、揺すっても、返事はない。ぐったりと体重を預けたまま、張飛は目を閉じている。
「おい!! 誰か!! 医者!! 医者を呼んでくれぇ!!」
子義の絶叫が、静まりかえった陣営に響き渡った。騒ぎを聞きつけた劉備が、慌てて駆けつける。
「何事だ――益徳!?」
変わり果てた張飛の姿に、劉備の顔からも見る間に血の気が引いていった。
*
唐突に、脳裏に古い記憶が蘇る。
血の匂い。飛び散る血飛沫。暗い物陰に一人身を潜め、震えることしかできなかった、あの日。目の前で、家族が次々と冷たくなっていくのを、ただ見ていることしかできなかった。何もできない自分を、ずっと恨み続けてきた。
張飛の顔に、その光景が重なる。
「益徳!! 嫌だ、死ぬな!! 目を開けろ!! 益徳!!!」
子義の悲痛な叫びが、幾度も陣営にこだまする。騒ぎを聞きつけた医者と兵たちが慌ただしく駆けつけ、張飛の身体を運んでいった。
「子義殿、落ち着かれよ……大丈夫だ。まだ、大丈夫だ」
なおも取り乱し続ける子義を、関羽が強く抱き留めながら、繰り返し宥めた。子義はようやく、はっと我に返った。周囲の兵たちが、皆一様に驚いた顔でこちらを見ている。ここまで取り乱した子義の姿を目にするのは、誰にとっても初めてだった。
「……関将軍……俺の、せいだ……俺を助けに来たせいで……」
子義は関羽の胸に縋りつくようにして、声を震わせた。
「それは違う」
関羽は静かに、だがはっきりとした声で言った。
「あれは、益徳が自ら選んだことだ。お主が背負う責ではない」
「だが……」
「子義殿。お主が今すべきことは、己を責めることではあるまい」
関羽の言葉に、子義は答えることができなかった。今にも崩れ落ちそうなほど、その顔色は悪く震えが止まらない。
関羽は子義の肩をそっと支えると、張飛が運ばれていった天幕へと共に向かった。




