第十二話 武将の意地
――その時だった。
日はすでに西へ傾き、乾いた土埃と血の匂いが入り混じる戦場に、一際大きな砂煙が巻き起こった。
砂煙を巻き上げながら、敵陣を真っ二つに引き裂いて突っ込んでくる大男の姿があった。
張飛だ。
絶望的な状況の中、子義は一瞬、自分の目を疑った。あり得るはずがない。ここは敵の本陣にほど近く、張飛の部隊とはとうに離れた場所のはずだった。それでも、その巨躯だけは見間違えようがない。
どうやってここまで来たのか、今は考える余裕もなかった。ただ、絶望しかなかった視界に、確かな光が差し込んだような感覚だけがあった。
「義!!!」
「益徳!!!」
轟くような大声とともに、張飛は自らの巨躯を、迫り来る敵の刃と子義の間へと滑り込ませた。
迫る刃が、張飛の背から脇腹へと肉を裂いて走った。焼けるような熱が遅れて追いついてくる。
「……っく」
微かな呻きが、噛み締めた歯の隙間から漏れた。
「益徳?」
その気配を聞き逃さず、子義がはっと顔を上げる。
「大丈夫だ! それより、怪我は!?」
だが張飛はひるむことなく、振り向きざまに敵を斬り伏せると、そのまま子義の元へと駆け寄った。
「ない! なんで来たんだ!」
「守るって約束しただろうが!」
「馬鹿、お前も死ぬぞ!」
叫び合う二人の周囲にも、絶え間なく敵が押し寄せてくる。子義は張飛の足元に点々と続く赤黒い染みに気づいた。だが、それを確かめる間もなく、新たな敵が斬りかかってくる。
「益徳、その傷――」
「気にすんな、かすり傷だ!」
叫びながら敵を斬り伏せる張飛の勢いに、子義はそれ以上追及する暇を与えられなかった。
張飛の背中の傷は、幸い骨や臓器までは達していなかった。だが、それでも十分に深い。滲み出る血は止まる気配を見せず、じわじわと着物を赤黒く染めていく。それでも張飛は、子義に気づかれぬよう、平静を装いながら次々と敵を斬り払っていった。視界の端が、時折白くぼやける。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
(――くそ、血の気が引いてきやがる)
自分の身体が急速に力を失っていくのが分かる。流しすぎた血が、確実に身体を蝕んでいた。
(倒れんな!! ここで倒れたら、二人とも死ぬ!!)
歯を食いしばる。血が滲むほどに、強く。
「ちっ……! 邪魔だぁ!!」
苛立ちを叩きつけるように、群がる敵の一団を蛇矛の一振りで薙ぎ払う。骨の折れる鈍い音と悲鳴が同時に上がった。
(好きな男一人守れねぇで、何が武将か!! 何が張飛か!! 死んでも、義は生きて帰らせる!! 踏ん張りやがれ! 俺!!!)
両の足を地に踏ん張り、あらん限りの怒気を込めて、張飛は吠えた。
「俺の義に剣を向けて、生きて帰れると思うなぁぁぁ!!!」
そこから先は、まさに鬼神の如き働きだった。
全身の傷など、まるで感じていないかのようだった。いや、感じていないはずがない。それでも張飛は止まらなかった。止まれば、その場に子義を残して倒れることになる。それだけは、何があっても許されなかった。
蛇矛が唸りを上げるたびに、群がる敵兵が数人まとめて宙を舞う。突き出せば鎧ごと胴を貫き、薙げば三人同時に馬もろとも吹き飛ばす。もはや剣戟と呼べる次元ではなかった。敵将の一人が槍を構えて挑みかかるも、まともに打ち合うことすら叶わず、一撃で得物ごと弾き飛ばされて絶命する。
「こ、こいつ! 化け物か!!」
誰かが悲鳴じみた声を上げる。だが浮き足立った兵は次の瞬間には、既に張飛の間合いの中だった。躱す隙などどこにもない。
子義もまた、剣を握り直すと、張飛の背に庇われながら追撃の敵を斬り払っていく。二人の呼吸は、まるで長年連れ添った戦友のように噛み合っていた。張飛が薙ぎ払った先の隙間を子義が突き、子義が引き付けた敵を張飛が仕留める。乱戦の最中だというのに、そこにはどこか、危うい美しさすらあった。
「所詮二人だ! 数で押し切れ!!」
敵の武将が声を張り上げる。その言葉通り、いくら斬っても敵の数は一向に減る気配を見せない。次から次へと湧いて出るかのように、新手が押し寄せてくる。子義は肩で息をしながらも、剣を振るう手を止めなかった。
張飛は怒声を上げて矛を振るう。子義を庇いながらも、その動きは些かも鈍らない。傍から見れば、誰一人としてこの男が大怪我を負っているとは思わないだろう。それほどまでに、張飛の武力は常人離れしていた。
だが、出血は止まらない。
張飛の足元には、点々と血の跡が刻まれていった。




