第5話 レオの経験値
『祈りの碑』のすぐそばに陣取ったゲンマ軍の音楽隊が、管楽器と打楽器を用いて重厚なファンファーレを奏でていた。
水門に設置された巨大な状態表示シグナルが『緑』へと変わり、癒のマナ受け入れ準備完了が知らされたことで開始された、厳粛な儀式の幕開けである。
温泉地の近くに設置された『祈りの碑』の周辺は、歴史的な儀式を一目見ようと集まった群衆の熱気と、火山帯特有の厳しい熱気に包まれている。
シルビアを守るように立つレオ・クロースは、真っ直ぐに視線を前方へ向けていた。
視線の先には、苛烈な環境の中に鎮座する巨大な赤レンガの施設――赫炎の水門がある。
やがて、聖女による『癒』のマナ充填の儀の開始を告げるファンファーレが終盤に差し掛かろうとした、その時だった。
緑色に点灯していたはずの水門のシグナルが、突如として不可解な挙動を示し始めた。
待機状態を示す「赤」へと切り替わったかと思えば、数秒後には再び「緑」へと戻り、異常な点滅を繰り返している。
その様子をしばらく無言で見つめていたレオ、そして傍らに立つシルビア、グスタウス、ルビア、フルーナの間に、周囲の喧騒とは裏腹な重苦しい緊張感が落ちていた。
「ライナー殿はいったいなにを……」
グスタウスが腕を組み、赤黒い瞳を細めた。
「陛下。本日の祈りの儀は中止にできますか」
レオが水門から視線を外し、グスタウスを見据える。
「……内容次第だ」
グスタウスが低く重い声で応じる。
「今回の水門の管理は、ライナー叔父さんが取り仕切っていますよね」
レオは再び、異常点滅を繰り返すシグナルへと視線を向けた。
「あの慎重な叔父が、あのようなシステムエラーを放置したまま儀式開始の合図を出すとは到底考えられません」
「なるほど」
グスタウスが短く頷く。その赤黒い瞳の奥に、為政者としての鋭い光が宿った。
「ならば、システム自体に深刻な異常が発生しているか……あるいは、彼自身が何らかの不測の事態に巻き込まれているということか」
「可能性はあります。少なくとも、正常な状態ではありませんから」
グスタウスの推論に、レオが即座に肯定を返した。
「……ルジュ。直ちに水門内と連絡を取れ」
グスタウスが傍らに控えるルビアへ命じる。
「了解ッス」
ルビアは即座に踵を返し、祈りの碑からほど近い場所にあるエナド管理施設『セリティア・テラス』へと向かって駆け出した。
ファンファーレの重厚な音色が響く中、水門のシグナルは依然として「赤」と「緑」の不気味な点滅を繰り返している。
シルビアは胸元で手を組み、空の向こうの赫炎の水門を見つめていた。
「レオさん。ライナー様は大丈夫でしょうか」
シルビアの視線がレオを捉える。
「ああ。……いや、断定はできないが、最悪の事態は想定しておくべきかもね」
数十秒の重苦しい時間が流れた後、セリティア・テラスへと向かっていたルビアが足早に駆け戻ってきた。
「……通信、繋がらないッス」
緊迫した声を上げるルビアに、全員の視線が向く。
「水門側の親機の呼び出し音が鳴り続けているだけで、誰も応答に出ないッスよ」
ルビアの報告を受け、レオは不気味な点滅を繰り返す水門のシグナルへと視線を移した。
「陛下。私が行ってまいります」
レオは静かに告げた。
「待て、レオ殿。余も行く」
グスタウスが一歩前に踏み出し、威厳に満ちた声で制止する。
「水門は我が国の最重要インフラだ。そこで何が起きているにせよ、王である余が直接確かめる義務がある」
「お気持ちはありがたいですが、一国の王である陛下が直接動けば、周囲の群衆や警備部隊が騒ぎ立てます」
レオは冷静にグスタウスの言葉を返す。
「大ごとになる前に、ここは私一人で行かせてください」
「ですが、レオさん……お一人で向かうなんて危険ですわ!」
シルビアが不安げに声を上げる。彼女の気遣いに、レオは安心させるような飄々とした笑みを返した。
「大丈夫だよ、シルビア。俺はしぶといからね。やばそうならすぐに逃げるさ。それよりも、叔父さんの無事を確認したいんだ」
レオはそう言ってから、傍らの二人の聖猫へと視線を向けた。
「俺がいない間のシルビアの護衛は任せたよ。ここなら陛下もいらっしゃるし、安全だ」
「……違いない。よかろう、こちらは余に任せて行け」
グスタウスが威厳と優しさを滲ませた笑みを浮かべ、力強く頷いて引き下がる。
「了解ッス」
「承知いたしんした。」
ルビアとフルーナが即座に頷き、シルビアとグスタウスの周囲に立つ。
レオは無言で第一位階時空属性魔法≪シエリス≫を行使し、身体の周囲に微細な時空の波動を発生させる。わずかな空間の歪みによって自身の輪郭をぼやけさせ、周囲の群衆から気配を完全に絶つと同時に、≪クロノボックス≫から直接自身の身体に特製戦闘装束を一瞬で換装した。
水門巡礼に集まった観衆をすり抜け、赫炎の水門へと続く立ち入り制限区域の正門へ向けて静かに歩みを進めた。
水門へと続く立ち入り禁止エリアの正門には、複数の衛兵が厳重な警備を敷いていた。
レオは一度≪シエリス≫を解き、真っ直ぐに門へ向かうと、懐から身分証であるエナドカードを取り出し、衛兵へ提示した。
「アイゼン王国、クロース侯爵家のレオ・クロースです。水門にいるライナー・クロースに急ぎの用があります」
カードの情報を確認した衛兵は、即座に姿勢を正してゲートを開けた。
「確認いたしました。しかしレオ様、水門まではまだ距離がございます。すぐに専用の大型マナビークルを手配し、お送りいたしますが――」
「いえいえ、お気遣いなく。準備運動がてら、走って向かいますから」
レオは飄々とした笑みを浮かべ、適当な理由をつけて車の申し出を断った。
もし水門内部がすでに何者かに制圧されていると仮定すれば、当然、外部からの救援を阻むための監視網や罠が道中に敷かれている可能性もある。
魔導車の擬似的な駆動音はもちろん、これだけ大きな質量の車両が施設へ接近すれば、その振動やマナの乱れで即座に何者かに気取られてしまう。万が一の不測の事態に即応しつつ水面下で処理するには、自らの足で向かうのが最善だ。
門を通過し、衛兵たちの視界の死角となる荒々しい岩肌の陰に入った瞬間、レオは再び第一位階時空属性魔法≪シエリス≫を行使した。
身体の周囲の微細な時空の波動を強め、これから生じる高速移動の空気抵抗と足音を完全に打ち消す。
深く姿勢を沈めると、チャクラを脚部へと集中的に作用させ、爆発的な踏み込みをもって、赫炎の水門へ向けて一直線に駆け出した。
カリドゥ川周辺に広がる剥き出しの火山岩地帯を、一歩ごとに数メートルの距離を跳躍するように無音で駆け抜けていく。
視界の先には、過酷な火山帯の中にそびえ立つ巨大な赤レンガの施設――赫炎の水門が迫っている。
施設の煙突からは、巨大ボイラーが汚染水を気化する際に生じる白煙が勢いよく噴き出していた。
同時刻。
赫炎の水門上層部、中枢制御室。
クロース家の人間としての意地一つで極限の耐久戦に身を投じたライナーであったが、状況はすでに限界を迎えていた。
アイゼン四柱にまで登り詰めた兄のオスヴァルトと、同じく圧倒的な才能を持つ姉。
天才たる兄姉に囲まれ、若い頃は自らの凡庸さに絶望し、落ちこぼれた時期もあった。
だが、今は違う。
誰よりもその凄さを理解し、二人を誇りに思っている。
クロース家の人間として、ここで無様に背を向けて家名に泥を塗るわけにはいかなかった。
そして、外にはあの聡明な甥がいる。だが、彼が都合よく駆けつけてくれるなどという甘い確信はない。
自分がここで、何としてでもこの事態を収拾する。
ただそれだけの理由が、絶望的な耐久戦においてなお彼の両足を床に縫い付けていた。
ライナーは血を吐くような呼気と共に再び床を蹴り、決死の覚悟で前へ踏み込んだ。
だが、侵入者の迎撃は無慈悲だった。
放たれた重い蹴りを魔導工具の腹で受けるも、すでに幾度もの理外の衝撃を吸収してきた鋼鉄の柄がついに限界を迎えてひしゃげ、ライナーの両腕から完全に感覚が消失する。
体勢を大きく崩し、床に膝をついた無防備な頭部へ向けて、侵入者が無機質な動きで右腕を振り上げ、圧縮したマナを再び手刀へ収束させていく。
その凶刃が、ライナーの頭部へ向けて無音で振り下ろされようとした――その時だった。
ライナーの頭上の空間が僅かに歪み、透明なハニカム構造の結界が展開された。
第五位階時空属性魔法≪ヘキサガード≫。
侵入者の凶刃が結界の表面に激突し、甲高い反発音と共に強引に弾き返される。
攻撃を弾かれた直後、侵入者は即座にライナーの背後へと鋭い視線を向けた。
極限まで気配を希薄化させて接近していたレオが、ライナーの死角から静かに歩みを進め、姿を現したのだ。
「叔父さん、代わるよ」
特製戦闘装束に身を包んだレオが、敵を見据えて立ち塞がった。
不測の乱入者に対し、侵入者は標的を即座にレオへと切り替えて床を蹴った。
人間の限界を超えたマナ器官の強制励起。空気を破裂させるほどの神速の踏み込みをもって、極限まで圧縮されたマナを乗せた無慈悲な拳がレオの顔面へと迫る。
魔法による迎撃すら間に合わない必殺の間合い。
だが、レオは迫り来る死の軌道を前にしても、表情一つ変えなかった。
ただごく僅かな重心移動と、洗練され尽くした体術の連携。
レオは敵の直線的な拳の軌道に対し、手首を添えて円を描くように力を受け流す。
突進の勢いを利用して相手の重心を前方に引き出しながら、自身の身体を沈め、敵の死角となる懐へ完全に侵入した。
幼き頃、魔法が使えずに落ちこぼれと揶揄されながらも、家族の支えのもと腐らずに練り上げたチャクラ制御。
そしてオリガタ皇王国の伝統武術『カラテ』をベースに、あらゆる体術の理を吸収し最適化させた無駄の一切ない挙動。
レオは敵の伸びきった右腕の関節を極めながら、その身体を背負い投げるようにして宙に浮かせた。
相手の姿勢が完全に崩れ、無防備な状態となったそこへ、無音の打撃が流れるように連なっていく。掌底が、空中に浮いた敵の頸動脈と神経叢を正確に打ち据えた。
脳への血流と魔力伝達を物理的かつ論理的に断ち切る、冷徹なまでの解体作業。
ハンターとしての任務、エヴィスとの戦闘、八大罪のマオンとの死闘、そしてこれまでに踏破してきた三カ所に及ぶ過酷な聖霊の試練。
常人であれば一生に関わることすらないであろう死線を越え続け、膨大な経験値を積み上げてきたからこそ到達できる、洗練された暴力の形がそこにはあった。
異常な強化兵を相手にしても全く寄せ付けず、淡々と圧倒し続けるその戦いを見ながら。
「……すげえな」
膝をついたまま、ライナーの口から思わず感嘆の吐息が漏れた。




