第27話 誰そ彼は
西の地平へと茜色が静かに沈みゆき、空が深い藍色へと甘く融け落ちていく黄昏時。
その仄暗い紺碧のグラデーションを背に、紫電の光を微かに放つ巨大な「聖なる雷針」が、王都ラ・ヴェラに切なくも美しい静寂の余韻を投げかけていた。
三日三晩にわたって常春の街並みを脅かし続けた空間の歪み≪ヴォイド・チェイン≫は、茜の残り香が藍の静寂に呑まれていくなか、各地でひっそりと収束を迎えていた。
東区の大通りでは、沈みゆく残照と深い藍が交わる空の下、リオルト女王キャンディ・リオルトが放った重力加算の磁場が完全に解除され、討伐された二級魔獣ペトラセラノスの巨大な甲殻や頑丈な外骨格の死骸が、破砕された石畳の上に横たわっていた。
武具や建築資材としてきわめて高い利用価値を持つその素材は、復興の貴重な資材として、警邏隊や職人たちの手によって手際よく解体・回収されていく。
そして、ヴォイドの発生が止まり、脅威が去った西区と北区の戦線では、残存する魔獣の処理にあたっていた現場で突如として異変が起きた。
西区で戦斧を振るっていた地の聖猫マロニーと、北区で弓を構えていた風の聖猫リエリーの姿が、足元に浮かび上がった光紋へと吸い込まれるように、前線から一瞬にして掻き消えたのだ。
眼前で奮闘していた二人が唐突に消え去ったことに、各地の騎士や警邏隊員たちは「な、何が起きたのだ!?」「どこへ消えた!?」と驚愕と困惑に包まれる。
だが、すでにヴォイドの追加発生はなく、戦況そのものは決着していた。騎士たちは驚きを収めると、残された僅かな魔獣の残党処理と素材の回収へと、速やかに移行していった。
南区では聖女シルビア・スワンが、差し伸べた両手から柔らかな癒しの光を溢れさせる。暮れ泥む南区の街頭で、傷つき倒れていた雷鳴騎士や警邏隊員たちの疲労と傷が急速に浄化され、安堵の溜息が広がっていった。
北区でも同様に、花の騎士団長イザベラ・アスセナ率いる精鋭たちが、迅速に残存魔獣を掃討。区画の封鎖解除と魔獣素材の確保手配を、滞りなく完了させていた。
夜へと静かに傾く深青の空の下、王都の至る所で警戒解除を知らせる鐘の音が清廉に響き渡る。
市街地を覆っていた薄暗い緊張感は消え去り、涼やかな夕風に乗って咲き誇る花々の甘い香りが、人々の胸を満たしていった。
翌朝。
王城の城壁内に設けられた仮設テントで夜を明かした避難民たちが、朝の光のなか、バルコニーの下の広場へと集まっていた。
バルコニーに立ったアントニオ王は、飾らぬ言葉で、此度の一件を国民へ告げた。
三日三晩にわたって王都を脅かした≪ヴォイド・チェイン≫は、八大罪のマオン〝嫉妬〟の一派による周到な襲撃であったこと。首魁の討伐には至らなかったものの、王都の北、カタルパ連峰に築かれていた敵の拠点はすでに押さえ、封鎖したこと。行方の知れぬ要人についても、引き続き王家の責において捜索を進めること。
そして、傷ついた多くの者たちが聖女シルビアの癒しによって救われ、犠牲が最小限に留められたことを、王は深い感謝と共に語った。
王の傍らへ、扇子を手にしたリオルト女王キャンディが、静かに歩み出る。東区の大通りで自ら魔獣を討ち果たした女王の姿は、すでに民の間に知れ渡っていた。
「あらあら、皆さん。そんなに不安そうなお顔をなさらないで」
おっとりとした声が、広場の隅々にまで穏やかに響く。
「王都の復興には、リオルトが力を貸すわ。建築に秀でた八武匠とその一族を、近日中にこちらへ向かわせましょう。わたしたちの職人の腕は、確かよ。安心なさい」
女王が扇子の陰で微笑むと、広場にどよめきが走り、やがてそれは大きな歓声へと変わっていった。
不安を隠せずにいた民の間に、やがて安堵のざわめきが広がっていく。
復興への動きが、始まる。
リオルトの職人たちが到着すれば、王都中の破砕された石畳や崩れた建物は一枚ずつ組み直され、討伐されたペトラセラノスの強靭な甲殻は、補強材として惜しみなく建築資材へと生まれ変わっていくに違いない。
古き良き白灰色の街並みが、その歴史を損なうことなく本来の姿を取り戻す日も、きっとそう遠くない。
――数日後。
花の都ラ・ヴェラの正門から、数台のマナビークルが連なって、静かに滑り出た。
先頭を行くのは、装甲車のように堅牢な造りの大型車両。その後方には花の騎士団員たちを乗せた車両が続き、さらに一定の距離を保って、フロワール軍の中隊を乗せた車両が随行している。
十年に一度の水門巡礼。
その道程において、次なる目的地と定められたのは、アルステラであった。
車内には、穏やかな振動が続いている。
「改めて、礼を言わせてくれ、レオ殿」
向かいの席から、アントニオ王が深く頭を下げた。
「王都が守られたのは、貴殿らのおかげだ」
「いえいえ。頭を上げてください、アントニオ陛下」
レオが苦笑して手を振り、隣の席へ目を向ける。聖女シルビアは「ふふっ」と、上品に笑みを零した。
「今回は相手が退いてくれましたが、本格的にマオンが攻めてきたなら、この程度では済まなかった可能性もあります。今回は不幸中の幸いだった、そう思いましょう」
「たしかにな」
レオの言葉に、アントニオ王が目を細めて言葉を繋ぐ。
「英雄であるキャンディ殿が駆けつけてくださったことも、我が国にとっては幸運であった。復興にまで手を貸してくださるとは、感謝してもしきれぬ」
「箱庭を通じて、すでにサブレリ族が現地入りしてくれています。復興は、思いのほか早く進むはずですよ」
「改めて、驚かされる。リオルトから王都までは、高速のマナトレインを使っても、丸一日がかりの道のりだ。それを、職人たちを一族ごと、道具も資材も携えたまま、瞬く間に送り届けてしまうとは。箱庭とは、まことに計り知れぬ力だな」
アントニオ王は、感嘆とも畏怖ともつかぬ息を、深く吐いた。
「あの力を、貴殿は惜しみなく、我が国の危機に使ってくれた。もし箱庭がなければ、これほどの人数と資材を揃えるだけでも、復興の始まりは数日は遅れていただろう。……聖霊王様のご加護と、貴殿のような者がこの時代に在ってくれたことに、感謝せねばならぬな」
「使えるものは、使うべき時に使わないと勿体ないですからね」
レオが肩をすくめて笑うと、王もつられて口元を緩めた。
「ええ。王都の花々も、きっとすぐに元の姿を取り戻しますわ」
シルビアが穏やかに頷いた。
車内の前方には、花の騎士団長イザベラが、近衛として静かに控えている。団員たちは団長を除いて別の車両に乗り、後方を固めていた。
その傍らに腰を下ろす雷鳴騎士団長アルベルトは、騎士団からただ一人の随行である。王都の防備を部下に託し、陛下の身辺を守るために、自ら同行を申し出たのだという。
窓際では、アーロン・ヒラソルが、膝の上で組んだ指に視線を落としていた。
口数は少ない。
レオが目を向けると、アーロンは小さく頷き返し、窓の外へと視線を移した。
「ふにゃあ……ふかふかなのです……」
レオの頭の上では、こげ茶色の毛並みの猫――マロンが、前足を折りたたんで丸くなっている。
「マロン。ご主人様の頭の上で寝てはいけませんわ」
膝の上では、艶のある長い毛並みの猫――リゼが、尻尾を優雅にくゆらせながら、上品に窘めた。
「寝てないのです! ちょっと目を閉じて、警戒してるのです!」
「それを寝ているというのですわ」
やり取りに、車内の空気が和らぐ。イザベラが堪えきれずに、口元を緩めた。
やがて、日は西へと傾き始め、車窓に差し込む光が茜を帯びていった。
街道沿いの花畑が、西日を浴びて黄金色に揺れている。茜が少しずつ藍に溶けはじめた空の下で、遠くを行く人々の顔は、もう輪郭が曖昧だった。
レオは座席に背を預けたまま、窓の外の光景をぼんやりと眺める。
窓際では、アーロンが変わらず、暮れゆく空を見つめている。その胸にあるのは、鏡の向こうに囚われた妻、アメリアのことだろう。エクレアと共に、その姿は今はまだ、この薄闇の向こうに沈んでいた。
膝の上でリゼが小さく喉を鳴らし、レオはその背を、黙って撫でた。
マナビークルは、深まりゆく藍の中を、静かに西へと走り続けた。
やがて、行く手に街の灯りが見え始める。今宵は、この街で一泊の予定であった。
先触れはすでに出してあり、ホテルも確保されている。とはいえ、王族の来訪とあって、街は迎える支度に大わらわであった。
それでも、十年に一度の水門巡礼は恒例の行事。
慌ただしくも、どこか手慣れた様子で、人々は一行を出迎えた。




