第26話 黒き孵化の峻嶺
王都ラ・ヴェラの北、カタルパ連峰から吹き下ろす凍てつく冷気が、削り残された峻険な岩肌を撫でていく。
フロワール騎士国の王都ラ・ヴェラを遥か見下ろす、雲海に抱かれた孤高の峰々。
絶壁の狭間に伸びる岩棚からは、南の盆地に霞む街並みと、その中心で天を突く「聖なる雷針」が放つ淡い雷光の輝きが、霞の隙間に小さく瞬いていた。
「聖なる雷針」が揺らす絶え間ない磁場干渉と地脈の収束上、フロワールの王都はこの北側の地脈の結節点に築かれざるを得なかった歴史を持つ。
ゆえに、南西の果てのガルズ湖畔に鎮座する「紫電の水門」とは、同じ国内とはいえかなりの距離が隔てられていた。
断崖の岩壁を削り取るようにして急造されているのは、「声の裂け目」の技術によって構築された簡易な洞穴であった。
奥行きもそこそこの無機質な空間には、重苦しく不快な「嫉妬」の怨気が充満している。
湿った岩盤の上に巨体を横たえるのは、蟷螂型の巨大な大怨獣であった。
その足元に広がる油のような光沢を放つ黒いカマキリの卵鞘群が、不気味な鼓動を刻んでいる。
卵鞘の表面が割れるたびに生まれ落ちる魔獣の肉体を媒体とし、「声の裂け目」の術式が注がれることで、濃紺の皮膜を纏った「ヒトのような何か」が次々と形を成していった。
「素晴らしい……。魔獣の生体マナを触媒とすることで、錬成の安定性が跳ね上がっている」
生体電極を首筋に適応させた「声の裂け目」の第一副官ルネが、端末を操作しながら不気味な笑みを漏らす。
その傍らには、小柄な体に鮮やかな金髪のツインテールを揺らし、無骨な大剣の柄に細い手を添えた「鏡面」の第十六将エンマが、光のない双眸で静かに立っている。
「フフ……実に美しく気味の悪い子供たちですこと」
豪奢な法衣に身を包んだ女――慈愛の枢機卿レヴォンが、妖艶な笑みを浮かべながらその光景を見つめていた。
その時であった。
足音を隠すこともなく、堂々と正面からこの場へと歩み寄る気配があった。
灰色の特製戦闘コートの裾を風になびかせ、抜刀した愛剣をその手に握りしめた銀髪の青年が、一切の躊躇なく簡易な穴の中へと足を踏み入れ、真っ直ぐに進み出た。
「あら……お客様ですわね。何者かしら?」
レヴォンが酷薄な響きを伴わせて問いかける。
「答える必要あんのか? 嫉妬のマオン、ジ・レヴォ」
銀髪の青年が静かな眼光で射抜いた。
「あら? アタクシのことを存じてらっしゃるのね」
レヴォンの唇が嘲笑に歪むと同時に、傍らのエンマが跳躍し、身の丈を超える巨剣が一過の閃光となって振り下ろされた。
間合いを一瞬で踏み潰す鋭利な一撃。
青年は構えた愛剣の刃で巨大な閃光を絶妙な角度で滑らかに受け流し、生じた破綻に空いた左手でエンマの腕を捉えて重心を制御する。突進の勢いを殺さず、死角へと素早く滑り込んだ。
一撃を打ち込もうとした瞬間、青年はその肉体に僅かな違和感を察知した。
捉えた重心をそのまま軸とし、一切の躊躇なく足を振り抜く。
重厚な打撃がエンマの側腹部を捉え、その小柄な身体を弾丸のような勢いで洞穴の奥壁へと蹴り飛ばした。
重い石造物でも叩きつけられたかのような衝撃で岩盤を打ち砕き、崩れ落ちる瓦礫のなかへと沈む。
しかし、エンマは痛みを感じさせる素振りも見せず、崩れた瓦礫を押し散らして即座に跳び起きてきた。
「排除対象――戦闘継続」
感情を欠いた呟きと共に、エンマが再び大剣を構え直す。
「援護する」
同時にルネが操作端末を急速叩き込み、孵化したばかりの濃紺の皮膜を纏う個体群へ指令を送った。
異形たちが一斉に不気味な咆哮をあげ、エンマに同調するように四方から青年へ群がり跳躍する。
青年は交戦の手を緩めず、全身に青白い稲妻を迸らせた。
雷光の如き高速の歩法で群がる異形の死角を突き、愛剣の閃光と指先から放つ高圧な電撃の奔流で襲い来る異形群を焼き払い、力任せに迫るエンマの斬撃を鋭い足さばきで退けていく。
「あら……案外、やるようですわね」
連携を容易く捌き続ける青年の実力に、レヴォンは感心したように細い眉を跳ね上げた。
レヴォンが法衣の裾をなびかせると同時に、黒い茨の影と共に嫉妬の大罪魔法が展開された。
洞穴内の空間に、まるで万華鏡のように幾重もの不気味な鏡面が幾何学的に立ち現れる。
鏡の底からは生き物のように蠢く黒い茨の蔓が溢れ出し、万華鏡の如き反転世界へ青年を拘束し引きずり込もうと死角なく襲いかかっていった。
青年は不快な怨気の乱れにわずかに眉をひそめ、痛みを耐えるように奥歯を強く噛み締める。
かざした手に淡い光を宿らせ、襲い来る術式の波動へ魔法を施したように見えた。
同時に交戦の体勢を崩すことなく、周囲の空間の位相をミリ単位で平行移動させ、現実の座標を屈折させる。
万華鏡が映し出した歪んだ干渉軸と黒い茨は、青年の実体と噛み合わず、虚空を通り抜けて虚しく霧散していった。
その完璧な位相回避と術式への即応を目にしたレヴォンは、酷薄な笑みをその唇に呼び戻す。
「これはこれは、その魔法……ふふっ、なるほどね」
レヴォンの不気味な呟きと共に、背後から数千の黒い茨の影が凄絶な怨気となって解き放たれた。
嫉妬の大罪魔法≪シャドウ・オブ・ヴァイン≫。
青年は左手を地表へ向け、空間を固定する魔法を行使して転移の隙を遮断しようと試みる。
しかし、八大罪のマオンが放つ怨気は地脈すら圧殺する質量を誇っていた。
迫る茨の暗雲、蟷螂型の大怨獣が放つ狂暴な巨腕、さらに死角から再び肉薄するエンマの巨剣による連動攻撃。
多層の光壁や雷光の網を展開して防戦するも、圧倒的な質量の押し込みの前に展開した防護結界が甲高い悲鳴を上げて亀裂を走らせる。
足元の岩盤が圧殺されて激しく砕け散り、雷光の火花が渦を巻いた。
じりじりと後退を余儀なくされ、吐き出す息すら詰まるほどの重圧。
防壁が完全に粉砕される直前、青年は奥歯を噛み締め、力任せに踏みとどまる。
強引に捻り出した一瞬の隙――青年は鋭い吐息と共に、右手を宙へ強く突き出した。
空間を抉るようにして、二つの虹色の光紋――【接続紋】が必死の抵抗に応えるよう強烈な輝きを放ち、鮮やかに浮かび上がる。
光の粒子の中から姿を現したのは、エメラルドグリーンの髪をなびかせる少女と、こげ茶色のボブヘアに身の丈を超える巨大な戦斧を担いだ幼女であった。
出現と同時に、エメラルドグリーンの髪の少女が風の弓を引き絞る。
解き放たれた風属性マナの矢が嵐となって吹き荒れ、迫っていた黒い茨の群れを一瞬にして切り刻んで霧散させた。
間髪入れず、巨大な戦斧を担いだ幼女が地を蹴る。理を歪めるほどの質量を戦斧へ纏わせ、迫るエンマの巨剣と大怨獣の巨腕ごとまとめて叩き落とした。
大気が破砕され、衝撃波が岩盤を叩き割って敵の連動攻撃を正面から粉砕した。
一瞬で形勢を覆した召喚の術式と鮮烈な連携を目にして、レヴォンは呆れたように肩をすくめた。
「あら……なによ、その術は。卑怯じゃない?」
「お前がそれを云うのかよ」
青年の呆れ混じりの返答にも、レヴォンは慌てる風もなく余裕を残した酷薄な笑みを浮かべる。
前衛と盤面を崩された状況で深追いはせず、結界の隙を突くようにヴォイドの幕を展開した。
瓦礫のなかのエンマ、ルネ、そして大怨獣の巨体を包み込むと、ヴォイドの亀裂を抉り開く。
闇の奥へとその身を沈め、亀裂が完全に閉じるその直前――レヴォンは意味深に目を細め、妖艶な声でささやく。
「またね。ベルの愛し子君」
不気味な余韻を残して空間が塞がり、気配は完全に途絶えた。
洞穴内に再び北の冷えた空気が漂いめる。
ヴォイドの幕が収束し、闇の奥へと敵が姿を消すと、洞穴内に張り詰めていた重苦しい圧迫感がふっと霧散した。
青年が手にした愛剣を鞘へと納めると、背後から足音が近づいてくる。
エメラルドグリーンの髪をなびかせる少女――リエリーが、風の弓を収めながら静かに声をかけた。
「逃げられましたね、レオ様」
「ああ」
銀髪の青年――レオが短い返答を返すと、その隣で身の丈を超える巨大な戦斧を抱えた茶色のミドルボブの幼女――マロニーが、足を踏み鳴らして不満を露わにした。
「くやしいのです!」
「相手は大罪のマオンだ。最初から深追いはさせないよう、退路を用意していたんだろうよ」
レオは二人の頭にそっと手を置き、その労いに応えながら戦闘の光景を反芻するように言葉を継ぐ。
「それにしても、あの金髪の女の子――手応えがあまりにも異質だったなあ」
「手応え、ですの?」
「ああ。なんていうか、こう、ヒト感が無いっていうか……なあ」
「ふふっ、なんですの?それ」
「うーん、そうなんだけど、どっかで感じた感覚でもあんだよね」
「まあ、レオ様のことですから、いずれ真相に辿り着きますわ」
「そうだな、そのうち思い出すだろ」
レオはそう言って気持ちを切り替えると、視線を洞穴の奥へ向けた。
「それより、あそこに放置されてる生体装置と卵?だな。そのままにしておくわけにもいかないし、不活性化させて回収するか」
「ええ、そうですわね」
一通りの会話を終えたレオは、洞穴の奥に放置されている生体装置と黒いカマキリの卵鞘群の前へと速やかに歩み寄る。
「これで〝兵隊〟を造ってた、ってことかな」
「おそらくは。いくらなんでも継戦能力が疑問でしたもの」
「キモいのです!」
レオは不気味な脈動を繰り返す中枢へ左手をかざし、時空の波長を干渉させて生体マナの供給回路を物理的に断ち切った。
マナの循環を強制停止させて安全を確保すると、活性化していた卵鞘群と装置の脈動が静まり、不活性な状態へと収束していく。
続いて右手を空間にかざし、時空属性の収納魔法≪クロノ・ボックス≫を展開した。
空間に広がった水面のような波紋の中へ、不活性化させた生体装置とカマキリの卵鞘群を丸ごと吸い込ませ、安全に格納・回収する。
さらにレオは≪クロノ・ボックス≫から手のひらサイズの結界魔道具を取り出すと、洞穴の中央と入口付近の岩盤へ据え付けた。
起動の魔力を通すと、不可視の結界陣が静かに広がり、残留する怨気やマナの痕跡を隠蔽するとともに外部からの侵入を遮断する。
「よし、これで回収と現場の確保は完了だ。後で箱庭の工房に持っていって、じっくり構造を解析してみるとするよ」
作業を終えたレオは二人を伴って洞穴の外へと歩み出ると、岩棚の端から雲海の向こうに広がる花の都ラ・ヴェラを見下ろした。
「最低限の目標だった≪エンヴィー・ミラー≫を出してくれたおかげで、≪ディセリア≫の干渉波長を直接辿ることができた。エクレアとアメリア伯母様の位置もしっかりと把握できたよ」
「できれば、そのまま倒してしまいたかったですけれど」
「くやしいのです! おしりペンペンしたかったのです!」
「はは」
「それでも、お二人の居場所が特定できたのは大きな収穫ですわね」
「ああ。そうだな」
安堵と決意を滲ませたレオが、≪クロノ・ボックス≫から【ベルコネクト】を取り出した。
何もない空間に鍵を翳し、マナを流し込む。虹色の光が八芒星の魔法陣を描き出し、質素な木製のドアが静かに顕現した。
ドアノブを引き開けると、その向こうには見慣れた地下倉庫が広がっている。
レオが二人へ振り返る。
「さて……一度戻って、みんなに状況を共有するとするか」
レオとリエリー、マロニーは迷いのない足取りでドアをくぐり、箱庭へと入っていった。




