第25話 鉄拳制裁
常春の花の都ラ・ヴェラ南区。
時と共に進化を続ける王都の中で、古き良き歴史を最も多く残すのがこの南区であった。
重厚な白灰色の石造建造物が美しい影を落としていた情景は、幾重にも重なる空間の多重歪みによって凄惨な爪痕を刻まれていた。
不吉な位相の相差を揺らめかせる≪ヴォイド・チェイン≫が街路の随所で突発的に爆ぜ、そこから這い出してきた二級魔獣『ペトラセラノス』の群れと、暗紺の防術衣を身に纏う『鏡面』の刺客たちが、逃げ場を塞ぐように石畳の路地を埋め尽くしている。
この南区の防衛を担当していたのは、近衛雷鳴騎士団の第三小隊と、細く複雑な裏路地の動線を網羅するラ・ヴェラ警邏隊の合同部隊であった。
すでに三日三晩にわたる途切れのない奇襲に応戦し続けており、隊員たちの肉体と精神は運動能力の限界点に達している。
連続する魔法行使による排熱不良を起こしたマナ器官は危険な熱を帯び、丹田に蓄えられたチャクラの枯渇によって呼吸循環すら乱れを見せていた。
石畳の上には、魔獣の鉱物化した硬質外骨格や刺客の長剣によって深手を負った隊員たちが何人も横たわっている。
合同部隊を率いる雷鳴騎士団の小隊長は、血と硝煙に濡れた長剣を握り直し、厳圧の表情で過酷な戦況を観察した。
前線を維持するための運動エネルギーもマナの保持量も底を突きかけており、このまま戦闘を継続すれば部隊の完全な瓦解は免れない。
これ以上の無用な損耗を防ぐため、一度後方へ防衛線を下げ、負傷者を収容して陣形を再編すべきである。
小隊長が論理的な決断を下し、部下たちへ段階的撤退の指示を出そうと口を開きかけた、まさにその時であった。
退路となっていた背後の細い路地において、空間の屈折率が異状を来し、蜘蛛の巣状の位相歪みが走った。
再び発生した≪ヴォイド・チェイン≫の裂け目から、体長の倍に達する長大な触角と鉱物化した超高密度の甲殻を誇るペトラセラノスが二体、鋸状の巨大な大顎で嫌な硬質音を立てながら、十数トンに及ぶ重厚な質量を伴って出現した。
前後を完全に遮断された合同部隊の包囲陣。
狭隘な街路での機動力を完全に潰され、隊員たちの顔から血の気が引き、重苦しい沈黙が現場を支配した。
数トンの巨躯を誇るペトラセラノスが石畳を破砕しながら、絶望に沈む騎士たちへ向けて大顎を剥き出し、猛然と突進を開始する。
もはや防ぎようのない不可避の死。隊員たちが絶望に目を背けた、その極限の瞬間であった。
戦場を横切る一筋の金色の影。
視認すら困難な超高速度の機動が空間の空気を鋭く切り裂いたかと思えば、突進していた巨大な二級魔獣ペトラセラノスの頭部が、何が起きたかも理解できぬまま途轍もない衝撃波とともに突如として遥か後方へ吹き飛ばされた。
数トンの重厚な鉱物外骨格が凄まじい衝撃によって石畳へと激しく叩きつけられ、その頭部甲殻がくの字にひしゃげて無残に潰れる。
猛烈な衝撃波の余波が半径数十メートルの大気を激しく揺さぶり、崩壊した花壇から散り散りになったラ・ヴェラ特有の鮮やかな花弁が、まるで時間が停止したかのように空中で緩やかに舞い上がった。
渦巻く花弁と金色のマナ粒子のただ中に、一人の少女が佇んでいた。
右拳を一直線に突き出した姿勢のまま、そこに佇む可憐な姿。
プラチナブロンドの髪を丁寧に編み込んだハーフアップ。隙間から覗く、澄み渡る深い碧い瞳。
身に纏っているのは、機能美の溢れるスチームパンク風の【特製ハンター装備】。
上品なベージュのフーデッドコートに、可動性を極限まで高めた黒のショートパンツとプロテクター付きのブーツ。
遅れて路地から駆けつけてきた『花の騎士団』副団長カルラ・カメリアが、圧倒的な領域の差に息を呑みながら後方へ控え、周囲の警戒にあたる。
戦場に静寂の降臨をもたらした少女は、横たわる負傷者たちの凄惨な光景を目に捉えるや、ただ静かに碧い瞳を細めた。
彼女が意念を集中させると、高純度の『癒』のマナが爆発的に解き放たれ、周囲へ一気に溢れ出した。
眩い金色の光の粒子が、波紋となって崩壊した街路全体へと急速に広がっていく。
第三位階癒属性サポート魔法≪プロテラ≫、および広域回復魔法≪リストア≫。
少女の肉体から溢れ出す圧倒的な聖性が、倒れ伏す騎士や警邏隊員たちの全身を優しく包み込んだ。
割れていた皮膚や折れた骨組織が、淡い金色の蒸気を噴き上げながら細胞レベルの超速再生によって本来の構造を取り戻していく。
限界まで熱を帯びていたマナ器官の排熱不良が立ち所に解消され、死の淵にいた隊員たちが驚愕に目を見開いた。
「傷が……塞がっていく……!?」
「身体が……軽くなる……!これは一体……!」
絶望の淵から瞬時に救い出された騎士たちを背に、少女は無言のまま一歩前へ出た。
正面から残るもう一体のペトラセラノスが巨大な大顎を開いて迫り、左右からは『鏡面』の刺客二名が刃をギラつかせて同時に襲いかかってくる。
少女は表情一つ変えず、体内のマナ器官から過剰なまでの高純度マナを全身の筋繊維へと均一に流し込んだ。
第四位階癒属性身体強化魔法≪セイクリスト≫。
細胞の活性化によって筋繊維の収縮率と反応速度を限界まで引き上げた彼女の体表から、凛とした金色の波動が立ち昇る。
頭上から交差させて振り下ろされた鋼鉄の長剣に対し、少女はわずかな体捌きで刃の軌道を滑らかに受け流した。
コート袖口の防具層で長剣の運動エネルギーを完璧に逸らした隙を逃さず、少女は流れるような鋭いカウンターの回し蹴りを叩き込んだ。
可動域の広いショートパンツスタイルから放たれた一撃は、無駄を一切削ぎ落とした鋭利な一閃であった。
蹴り脚が左側の刺客の厚い胸当てを正確に捉える。鋼鉄の防具がくの字にひしゃげ、刺客の身体は背後の石造壁面へと力強く打ちつけられて一瞬で沈黙した。
残る右側の刺客に対し、少女は極限の踏み込みから無言の掌底を喉元へと突き入れた。
体内のチャクラとマナを同調させた固有の「マナ振動」を伴う衝撃波が刺客の背後へと貫通し、男は血を吐く猶予すらなく意識を失って崩れ落ちた。
さらに、刺客たちを沈めたわずかな隙を突いて迫るもう一体のペトラセラノス。
数トンの巨躯が鋸状の大顎を噛み合わせながら喰らいつこうとした瞬間、少女は右前方への鋭いダッキングで大顎の咬合を紙一重で潜り抜けた。
内懐へ深く進入すると同時に、踏み込んだ体軸の旋回を利用して右拳の重烈なボディブローをペトラセラノスの腹部甲殻へ叩き込む。
直撃と同時に発生したマナ振動が硬質甲殻を内側からきしませ、間髪を入れず体幹のひねりを連動させた旋回運動から、右拳の鋭いフックを一閃。
身体強化魔法と旋回遠心力が生み出す破壊的な遠心エネルギーが頭部甲殻の構造的急所を捉えた。
巨大なペトラセラノスは首を無理な方向にへし折られ、数トンの巨体を横転させながら石畳へと激しく打ちつけられて沈黙した。
武器すら持たない可憐な少女が、たった一人で素手と足技だけで二級魔獣の群れと刺客の部隊を数十秒で壊滅させた。
その壮絶かつ優美な戦闘行動に、警邏隊員たちは呼吸すら忘れて呆然と立ち尽くした。
「な、何者なんだ……あの少女は……!?」
「あの可憐なお姿で……二級魔獣を粉砕したというのか……!?」
あまりの光景に戦慄する雷鳴騎士の小隊長に対し、遅れて全域の安全を確認したカルラが感服の溜息をつきながら、誇らしげに周囲へ声を響かせた。
「皆様が絶句されるのも無理はありません。こちらにおわすお方こそ、バーディア聖王国の聖女――シルビア・スワン様です!」
「せ、聖女様……!?」
小隊長をはじめ、命を救われた隊員たちが信じられない面持ちで一斉に膝を突いた。
シルビアは何事もなかったかのように立ち位置を戻すと、ベージュのコートの裾を整え、微かに頬を染めて慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「皆様、お怪我はもう大丈夫でしょうか?」
「は、はいっ……!感謝いたします、聖女様……!」
「お礼には及びませんわ。さあ、まだ南区には歪みの残滓がございます。最後まで防衛を全ういたしましょう」
「はいっ!!」
全回復した騎士と警邏隊員たちが一斉に歓声を上げて立ち上がった。
常春の花の都ラ・ヴェラ南区において、絶望に包まれていた防衛線は、可憐なる聖女の鉄拳によって完全に巻き返されたのであった。




