第22話 ラ・ヴェラ攻防戦 前編
ベル歴995年、氷の月6日。
フロワール王都「ラ・ヴェラ」市街地。
この時期、本来なら厳しい寒波に晒される大陸北東側の山岳盆地に位置しながら、ラ・ヴェラは約千年前から今に至るまで「常春の都」、そして「花の都」と称され続けている。
だが、その穏やかな気候は決して単なる天の恵みではなく、いわば禍福が糾える縄となった歴史の産物であった。
約千年前の聖戦がもたらした激動により、この地はマナの地脈が地表近くまで大きくせり上がるという致命的な歪みを抱えた。
そのまま放置すれば、過剰なマナが凶悪な魔獣を発生させ、土地そのものを荒廃させかねない危険な状態であったのだ。
その破滅を防いだのが、雷の大聖霊グロムティル。
グロムティルはこの地に『聖なる雷柱』を創り上げ、地表近くの地脈を安定させる調整の楔としたのである。
そして、雷柱から放射される強力な磁場と大気中のマナ層が絶妙に噛み合い、盆地全体を包み込む不可視の保護膜となって、大陸北東特有の苛烈な寒気や荒天を滑らかに遮断したのだ。
ガルズ湖の北東に位置するこの地は、こうして雷の大聖霊を守護する聖域となり、雷柱の膝元に王都を構える形で騎士国家フロワールが誕生した。
聖戦の傷痕という「禍」と、大聖霊の加護が生んだ絶妙な奇跡という「福」――。
その均衡の上に成り立つ常春の景観を引き裂くように、不吉な空間の歪みが王都の各所へ出現してすでに三日が過ぎていた。
空間を穿つ≪ヴォイド・チェイン≫の波紋から次々と湧き出す異形の群れに対し、王都の防衛線は不眠不休の対応を余儀なくされていた。
市街地の防衛を支えているのは、王都の裏路地や住民の動線を熟知している警邏隊と、近衛の武力を誇る雷鳴騎士団の混成部隊である。
王都の細かな路地までは網羅しきれていない雷鳴騎士を警邏隊員が的確にナビゲートし、広場や細道へ回り込んで撃破する――この密接なバディ編成で班を組み、三日三晩にわたり交代制で途切れなく襲い来る小規模な襲撃を食い止め続けていた。
王都の中心に鎮座するロサリア城。
その最上階に位置するテラスにて、第37代国王アントニオ・ロサ・フロワールは、眼下に広がる街並みを見下ろしていた。
そのすぐ傍らには、薔薇のレリーフが施された重厚な甲冑を纏う男――近衛雷鳴騎士団長アルベルト・ロサ・フロル公爵が、国王を直衛すべく凛とした佇まいで控えている。
普段は感情を一切表に出さず、石像のごとく寡黙なアントニオの眸に、三日三晩にわたり民と配下を苛む惨状への僅かな怒りの色が宿っていた。
一方、東区の大通りにおいて、戦況が突如として急変する。
これまでの三日間に現れていたのは、いずれも対処が容易な三級以下の低級魔獣ばかりであった。
だが、新たに生じた巨大な空間の歪みから飛び出してきたのは、巨大な剛毛と岩石のごとき甲殻を纏った二級魔獣の群れであった。
体長の倍に達する長大なふたつの触角を不気味に揺らし、前面に突き出された鋸状の巨大な大顎が、ギチギチと嫌な硬質音を立てて大気を削り取っている。
三級までとは桁違いの質量と破壊力を持つ二級魔獣が咆哮とともに突進し、警邏隊の展開していた簡易防壁を一撃で木端微塵に砕き割る。
「副団長! こいつは……!」
燃えるようなオレンジ色のショートヘアを逆立て、大柄な体躯で前に出た雷鳴騎士ラファエルが焦燥を含んだ声を張り上げる。
「ペトラセラノスか……。こちらの疲労がピークに達するのを待っていたのだろう」
汗に濡れた漆黒の短髪をぬぐい、スリムで引き締まった体躯の雷鳴騎士団副団長ベニートが、細フレームの眼鏡の奥で金色の瞳を冷徹に光らせて返した。
「数もさることながら、二級魔獣まで放ち込んでくるとは」
警邏隊の制服に身を包んだ隊長マティアスが、精悍な顔立ちを硬くして吐き捨てる。
「……計画性と陰湿さを感じるね」
ベニートは眼鏡のブリッジを押し上げると、後方の小隊へと素早く振り返り、大声を張り上げる。
「よし! ここは一度退いて態勢を――」
ベニートが全隊へ指示を飛ばし切るより早く、激しい爆音とともに大通りに面した建物の厚い外壁が豪快に破砕された。
粉砕された石片と煙の渦を撒き散らし、横の壁を突き破って飛び出してきたペトラセラノスが、至近距離からベニートへ向かって一直線に巨大な大顎を剥き出す。
死角からのあまりに凶暴な死の奇襲に、ベニートの呼吸が止まる。
「しまっ――」
回避も防御も間に合わない絶体絶命のその瞬間――天を切り裂き、極大の雷光が真上から二級魔獣へと一直線に落とされた。
鼓膜を揺らす轟音とともに直撃した雷撃が、襲いかからんとしていたペトラセラノスの頭部を焦熱と衝撃で打ち砕く。
激しい雷煙が立ち上る中、その奥から優雅に歩み出てくる人影があった。
「あらあら……わたしが華麗な地魔法で格好よく登場するはずだったのに、派手な雷で先を越されたわね」
手にしていた扇子が、優雅に一振りされる。
どこか豪奢なドレスを思わせる質感の戦闘服の裾から絶大な重力マナが広がり、残るペトラセラノスたちの足元の空間情報が一瞬で書き換えられた。
圧力の数値が異常な単位へと跳ね上がる。
悲鳴をあげる隙すら与えず、ペトラセラノスたちの巨体が力無く地面へと叩きつけられた。
大地の重圧による一切の容赦のない圧殺の重圧が働き、強力な甲殻もろとも一瞬で粉砕され、物言わぬ沈黙へと変わる。
現場を覆っていた絶望的な圧迫感が消え去り、煙の中から姿を現したココピット族の女性による規格外の武力を目の当たりにして、ベニートは息を呑んだ。
「あ、貴女は……!? きゃ、キャンディ様……! それに先程の雷は――」
「アントンちゃんよ。ほらっ」
おっとりと微笑んだキャンディが、手にしていた扇子をすっと城頂へ向ける。
ここからベニートの肉眼で直接確認することはできないが、その視線の先――王都の中心に高く聳え立つロサリア城の最上階テラスには、おそらく国王アントニオが街を見下ろして佇んでいるのだろうと感じた。
その時、キャンディの後方から可憐な佇まいの女性が静かに一歩進み出た。
彼女が静かに差し伸べた手から柔らかな光が広がると、三日三晩の激戦で傷を負っていた騎士や警邏隊員たちの傷口が、まるで時間を巻き戻すかのように一瞬で塞がっていく。
「え……? 傷が……」
苦痛を堪えていた騎士たちが、自分の手や体に目を丸くしてどよめいた。
「あらあら、それはこの子の魔法よ」
キャンディが優しく目を細めて傍らの女性を促す。
周囲を包み込む圧倒的に清らかなマナと、類を見ない治癒の奇跡にベニートたちが息を呑む中、女性は凛とした佇まいで優雅に一礼した。
「お初にお目にかかります。わたくしバーディア聖王国スワン伯爵家が長女、シルビア・スワンと申します」
「バ、バーディア……。まさか、そちらのお方は」
「あらあら、ええ、ええ。お察しの通りよ」
「聖女様……」
驚愕と感謝に深く頭を下げ、冷や汗を拭ったベニートが口を開く。
「救助と加護、感謝いたします……!」
「ふふ、お礼には及びませんわ」
微笑むシルビアの横から、キャンディがおっとりと扇子をパチリと閉じた。
「あらあら、さあさあ、まだ街の各所に歪みが残っているのでしょう? どんどん防衛を固めましょう」
「はっ! 全隊、キャンディ女王陛下に続け! 防衛線を再構築する!」
頼もしい異国の女王と聖女の参戦により、決壊寸前だった東区の防衛線は一息をつき、崩れかけた陣形が見事に立て直されていった。
一方、王都の北側を疾走する一陣があった。
王都全体の空間構造と時空の乱れを直接感知する主攻・全域遊撃隊である。
銀髪の青年、レオ・クロースは足を止めず、意識を周囲の時空へと広げていた。
「イザベラ団長、あっちです。あの大きな館の裏手……空気が変に歪んできてます。たぶん敵が出ますよ」
レオが指し示した方向を見遣り、白百合のかんざしを刺した黒と黄色のツートンカラーの長髪をなびかせる女性――花の騎士団長イザベラ・アスセナが即座に応じる。
「あの館ですね。あそこでしたら裏の細道からすぐに回り込めます。レオ殿、私に続いてください」
「了解です」
イザベラの率いる無駄のない身体動線に導かれ、一行は咲き誇る花弁を切り裂くように狭い裏路地へとなだれ込んでいく。
その道中、風の聖猫リゼのヒト化姿であるリエリーは、特に気負う様子もなく、呼吸するように自然と王都の風へ意識を溶け込ませていた。
リエリーの周囲だけ、乱れていた風と花弁の軌道が、まるで意思を持ったかのように整然と澄み渡っていく。
風の小聖霊の加護を持つ一団員、セシリア・セレッソは、その圧倒的な格の違いを肌で感じ取り、走りながら思わず漏らす。
「すごい……!」
熱い視線を注がれていることに気づき、リエリーが気楽な調子で振り返る。
「あら? セシリア様、どうなさったのかしら。変な奇襲が来たらすぐにお教えしますから、しっかりついていらっしゃいな」
「はい、リゼ様。どこまでもお供いたします」
セシリアの言葉に、リエリーは優雅に微笑んで前方の路地を見据えた。
レオは自らのマナ器官から時空属性のマナを練り上げ、周囲の屈折率を書き換える。
路地の先で、≪ヴォイド・チェイン≫の不吉な空間の歪みが実体化しようとしていた。
「イザベラ団長、正面の空間が弾けます。構えてください」
「了解しました。花の騎士団、全員抜刀」
常春の花の都に舞う色とりどりの花弁の中、主攻部隊の刃が、襲い来る影へと一瞬で肉薄した。
直後、弾けた空間の亀裂――≪ヴォイド・チェイン≫の歪みから飛び出してきたのは、巨岩のごとき超高密度の甲殻と刺々しい剛毛を纏い、長大な触角を不気味に揺らしながら巨大な大顎を鳴らす二級魔獣『ペトラセラノス』の群れ、およびその影から躍り出た、紺色の装束を纏う複数人の『鏡面』の刺客たちであった。
ヴォイドが収束し、完全に閉じきるまでの僅かな猶予。
イザベラたちが構えるより早く、レオが迷いなく前へ出た。
へその下にあるチャクラ器官から爆発的な生体エネルギーを練り上げ、両脚の筋繊維へ流し込む。
同時に、右手を何もない中空へと伸ばした。
空間が水面のように僅かに揺らぎ、時空属性の亜空間収納魔法≪クロノ・ボックス≫が開かれる。何もない虚空から、一振りの銀色の愛剣が音もなく一瞬で引き抜かれた。
予備動作を一切排した絶妙な一歩。
洗練され尽くした体術の軌道に、空間を微妙に歪める時空属性のマナが乗せられる。
無言のまま解き放たれた真円の閃光が、襲い来るペトラセラノスたちの巨大な大顎や堅牢な甲殻を正確に打ち砕き、迫る複数人の『鏡面』を刃ごと一瞬で蹴散らした。
残光が霧散した時には、ペトラセラノスの巨体と紺色の刺客たちは、冷たい骸となって路地へ横たわっていた。
その瞬間、レオは消えゆく≪ヴォイド・チェイン≫の亀裂へ向け、即座に左手をかざした。
ヴォイドが完全に消滅して閉じる直前、空間の歪みへ干渉する。
「≪ディセリア≫」
第五位階時空属性鑑識魔法≪ディセリア≫。
空間に刻まれた過去の痕跡、魔力の残滓、解き明かされた空間跳躍の情報の断片が、脳裏へと一気に流れ込んでくる。
膨大な情報量にこめかみを微かに押さえつつも、レオは即座に敵の跳躍の起点と座標の解析を終えた。
言葉を失い、刃を構えたまま固まったのは、花の騎士団長イザベラであった。
あらかじめ敵の出現を予知し、中空からの瞬時の抜刀によってペトラセラノスと『鏡面』の双方を同時に切り捨て、消えゆくヴォイドから敵の足取りを割り出した洗練の極みにある超絶剣技。
イザベラの脳裏に、世界から消えゆく直前のエクレアの言葉が過る。
――あるじに、よろしく。
イザベラだけでなく、セシリアをはじめとする騎士団員たち全員が、眼前の銀髪の青年が魅せた規格外の武力と圧倒的な身のこなしに、声もなく激しく驚愕していた。
――そんな周囲の度肝を抜かれた反応を横目に、リエリーだけはなぜか自分のことのように誇らしげにふふんと胸を張り、心底得意げな笑みを浮かべていたのだった。




