第20話 天端に消ゆ
フロワール騎士国の最外郭に聳え立つ、超巨大な魔導浄化施設『紫電の水門』。
その最上部に架けられた点検用の管理橋の上で、アメリア・ヒラソルは額の透過眼鏡を外し、手元の魔導操作端末を静かに閉じた。
「これで最後のブロックの走査も終わりね。あの黒い寄生装置は仕掛けられていないわ。完璧な状態よ」
傍らで配管の調整を終えた夫のアーロンが、安堵の笑みを浮かべて工具箱を片付ける。
「さすがアメリアだよ。点検データをパッキングしたら、すぐに温かいハーブティーで脳を休めよう」
管理橋の入り口付近や天端の要所には、警備を担当する「花の騎士団」の団長イザベラ・アスセナと副団長カルラ・カメリア、および精鋭である十八名の団員たちが凛とした立ち姿で展開し、厳重な警戒にあたっている。
白百合のかんざしでトップにまとめた黒と黄色のツートンカラーの長髪を湖風になびかせ、青銀の瞳を鋭く光らせるイザベラは、まさに『花の騎士団』を率いるに相応しい威厳と美貌を漂わせていた。
風に揺れる金髪のミドルボブをなびかせるカルラもまた、副団長らしい知的で引き締まった眼光で周囲に視線を走らせている。
その一角に控えるセシリア・セレッソは、黄緑とピンクのメッシュカラーが鮮やかなおさげ髪を湖風に揺らしながら、普段通りの控えめな佇まいで、静かに管理橋の外に広がるガルズ湖の水平線を見つめていた。
アメリアがふと正面を見据えようとした、まさにその時だった。
セシリアの背筋に、突如として氷水を流し込まれたかのような激しい悪寒が走り抜けた。
広大なガルズ湖の湖面から吹き抜けていた冷たい風――その流れが、ほんの僅かに変わった。
花の騎士団長であるイザベラや、副団長カルラほどの百戦錬磨の精鋭であっても見過ごしてしまうような、音も魔力の残滓すらもない不気味な空気の揺らぎ。
それに対し、実力で劣るはずの一団員にすぎないセシリアだけが追いつけたのは、幼い頃に偶然出会った「風の小聖霊の加護」がもたらした、本人すら自覚のない超常的な危機察知能力のおかげだった。
「団長……!」
喉を強張らせたセシリアの突然の悲鳴に、イザベラが振り返る。
「どうかしましたか?セシリア」
「風が……」
「風がなんなのです?セシ――」
イザベラの言葉が最後まで紡がれることはなかった。
ふいに、幼女姿の雷の聖猫クレアが眠たげな目を鋭く見開き、小さく身を翻す。周囲の誰よりも早く異様な気配の正体を察知した彼女は、無言のままアメリアの前へと歩み出ると、身の丈ほどもある巨大な大盾を素早く構え、庇うように立ち塞がった。
特殊絶縁セラミックで造られた管理橋の中ほど。
さっきまで確実に誰もいなかったはずの、およそ三十メートル離れた位置。
そこに、いつの間にか、一人の少女が佇んでいた。
足音はしなかった。
衣服の擦れる音も、気配の揺らぎすらも一切なかった。
イザベラの問いかけを強引に遮るような圧倒的な違和感とともに、彼女は、まるで最初からそこに描かれていた絵画のように、ただ、そこにいた。
金髪の短いツインテール。
身の丈ほどもある無骨な大剣を、片手で無造作に提げている。その大剣の鋭利な刃先は特殊絶縁セラミックの床面に触れているはずなのに、金属が擦れ合う微かな摩擦音すらしない。
少女は一切の感情を宿さない冷たい瞳で、ただじっと、こちらを見つめていた。
生きている人間の温もりを感じさせない、異様なほど静まり返った気配を漂わせている。
アメリアは即座に身を翻し、走査端末を投げ捨てて戦闘態勢をとった。
ツインテールの少女は大剣を両手で構えることすらせず、ただ片手で無造作に横一文字に振り抜いた。
――暴風のごとき圧倒的な質量打撃。
本能的な恐怖で肌が泡立ち、思考が凍りつきそうな圧迫感。
しかし、武とは無縁のはずのアーロンの体は、脳が命じるよりも速く、反射的に動いていた。
視界に入ったのは、愛する妻のアメリア。そしてその前に立つ、幼い少女の姿をしたクレアだった。
聖猫という高貴な存在である知識はあっても、その戦う姿など見たこともないアーロンにとって、彼女は守るべき小さな子供に他ならなかったのである。
二人を護りたい、ただそれだけの一心が、ひ弱な彼の身体を突き動かした。
死線へ横から飛び込み、必死の思いで励起させた未完成な雷撃壁。
だが、敵の振るう理不尽なまでの暴力の前には、紙細工ほどの抵抗にもならなかった。
一瞬で障壁を叩き砕いた凄まじい衝撃波を受け、アーロンは管理橋の強固な防護手すりまで吹っ飛ばされる。
激しく背中を叩きつけられた彼は、床に崩れ落ち、そのまま意識を失った。
だが、その決死の割り込みと、アメリアへと迫る大剣の直撃を正面から完全に阻んだのは、すでに前線で巨大な大盾を突き立てていたクレアだった。
ドォン、と重厚な金属打撃音が水門の天端に響き渡る。少女が放つ暴風のような物理質量。
それを前にしながらも、クレアの幼い身体は一歩たりとも後退しない。
雷の聖なる加護を身に宿す聖猫の絶対的な格と武威。大盾の表面で激しい高電圧のスパークが爆ぜ、少女の強撃を完璧に殺し、正面から力強く弾き返した。
クレアは眠たげな金色の瞳をわずかに細め、大盾の陰から片手剣を滑らかに走らせて雷の追撃を繰り出す。
稲妻の超加速による一閃が少女の胸元をかすめ、内に秘めた不気味なマナの防御を強引に削り取っていく。
少女の瞳に初めて僅かな波紋が走る。
片手の大剣でクレアの雷撃を受け止めるが、聖猫が繰り出す圧倒的な速度と技の冴えに、少女は防戦一方へと押し込まれていく。
互いの武器が交錯するたび、管理橋の上を火花が散り、激しい衝撃波が周囲の空気を震わせた。
少女は大剣の圧倒的な物理質量を叩きつけてクレアをねじ伏せようとするが、クレアはそのすべてを大盾で受け流し、あるいは最小限の動作で回避し、鋭いカウンターの雷撃を叩き込んでいた。
クレアが圧倒的な力で少女を完璧に捌き、前線に釘付けにしているその隙だった。
アメリアは素早く身を翻すと、イザベラ団長のもとへ静かに歩み寄り、その耳元へ素早く顔を寄せた。
「イザベラ団長」
「なんでしょう、アメリア様」
「隙を見て、アーロンを連れて逃げてほしい」
「えっ?それでは、アメリア様は」
「エクレアちゃんがいるわ。安心して。それに、わたしも〝クロース〟の血筋よ」
「アメリア様……。承知いたしました」
床に横たわるアーロンの姿に視線を落とし、アメリアは愛おしさと切なさを込めて小さく呟いた。
「アーロン……。馬鹿ね」
「アメリア様!それはあまりにも――」
「わかっているわ、イザベラ団長。わかってる」
「そ、そうですか」
「不幸中の幸いは、エクレアちゃんやあなたたちがいることと、息子たちを連れてこなかったことね」
「たしかに、守る対象が増えると大変ですからね」
「そうね……。それと、イザベラ団長」
「はい」
「うまく逃げきれたら、リオルトへの救援要請を」
「たしかに、優先順位での救援要請はリオルトにありますが、現在はこちらにより近いセルバンが軟化したと、陛下より伺っておりますが」
「ええ、そうね。だけど、リオルトで頼むわ」
「……何か理由が?」
「甥っ子がいるのよ」
「アメリア様のご令甥様……ですか?」
「ええ」
「そのご令甥様に、この状況を打破する特別な理由が?」
「ええ。あの子……レオは、エクレアちゃんの主なの」
「は?」
イザベラ団長は思わず美貌を硬直させ、素頓狂な声を漏らした。
八大聖霊の遣いであり、我がフロワールにおいてはアントニオ陛下こそがその主であると信じて疑わなかった聖猫――その絶対的な存在の主が、アメリアの甥である一人の青年だという。
イザベラからしてみれば、混乱のあまりアメリアが何を言っているのか理解できず、理性は激しい困惑に包まれた。
しかし、アメリアの確信に満ちた真剣な眼差しと一刻を争う戦況を前に、イザベラは疑問を飲み込み、自らの思考を騎士のそれへと引き戻した。
もはや一刻の猶予もない。イザベラは深く頷くと、ただちに傍らに控えるカルラ副団長を鋭い口調で呼んだ。
「カルラ副団長!」
「はっ!」
「頼みがあります」
「なんなりと!」
「隣国への救援要請をあなたに託します」
「はっ!」
「現在の状況から見て、王都も混乱の最中にあると考えられます。魔導車やマナトレインといった通常の移動手段は、すでに機能していないと見てよいでしょう」
「……では、いかがなさいますか?」
「カルラの〝脚〟に期待いたしますわ」
「はっ!」
「あなたにはこれより、リオルトへの救援要請を任せます」
「えっ?セルバンではなく、ですか?」
「ええ。これは陛下からの直命と受け止めなさい」
「しょ、承知いたしました!」
カルラは緊張に表情を引き締め、深々と頭を下げた。
イザベラが倒れているアーロンを素早く背負い直すのを見て、カルラと周囲の「花の騎士団」員十八名全員が一斉に旋回し、整然とした連携で離脱を開始した。
その直前、前線ではクレアの放った紫電の強撃が少女の大剣を激しく弾き飛ばしていた。
少女の膝が折れ、防御体勢すら崩壊する。
千年の刻を生きる聖猫の圧倒的な武威の前に、ツインテールの少女は完全に追い詰められ、まさにクレアの手によってトドメが刺されようとしていた。
――だが、その決定的な瞬間のことだった。
追い詰められた少女の足元、そしてクレアの直下から、黒い不気味な茨が触手のように爆発的な勢いで伸び広がる。
周囲の空間が巨大な姿鏡のように不気味に屈折し、歪んだ領域が凶悪な渦を巻いてクレアを呑み込もうとしていた。
それは、遠方から解き放たれた猛烈な支援魔法だった。遠方とは言えども、その不気味で凶悪な術者は、刻一刻とこの場へ接近してきている――!
「エクレアちゃん――っ!」
クレアを巻き込もうとする常軌を逸した異常を、アメリアはいち早く察知していた。
一刻の猶予もない。アメリアは危険を顧みず、その身を投げ出すように歪む空間の渦へと飛び込み、幼い少女の体を助け出そうと必死に手を伸ばした。
「アメリア様!エクレア様!」
背後で離脱しかけていたイザベラたちが悲痛な叫びを上げる。
しかし、不気味な茨と屈折する空間の力は凄まじく、助けに入ったアメリアごと二人を内側へと引きずり込んでいく。
「行きなさい――っ!」
迫り来る空間の歪みの中、アメリアは背後にいるイザベラたちを一押しするように強く叫んだ。
そして、万華鏡のように引き裂かれた空間の内側へ吸い込まれそうになるそのコンマ一秒の直前――抱えられたクレアが、眠たげな金色の瞳の奥で青白い稲妻を閃かせ、無造作に片手を離脱しかける騎士団の背中へと向けた。
――第六位階聖霊雷流移動魔法≪ヴィルティル≫。
聖猫の圧倒的な技量によって解き放たれた聖なる雷光が、離脱途上にあるイザベラ、背負われたアーロン、カルラ副団長、および十八名の「花の騎士団」員全員の身体へと一瞬にして穿たれ、浸透し、思考が加速する。
「なっ……!?体が……雷に――!?」
次の瞬間、イザベラやカルラたちの視界と感覚が劇的に変貌を遂げた。
全身の細胞とマナ、そして意識そのものが一瞬にして純粋な雷の粒子へと変換され、周囲の世界がまるで静止したかのように引き伸ばされる。
脚に力を込めただけの僅かな動作すら、障害物を容易にすり抜ける光速の奔流へと跳ね上がる。
自分自身の肉体と思考に起きた劇的な変化と、周囲の景色が一瞬で光線へと吹き飛ぶ圧倒的な異次元の超加速に、団員たちは息を呑み、激しい驚愕に目を見張った。
その引き伸ばされた光条の時間の中で、クレアの何でもないような小さな呟きが鮮明に滑り込む。
「あるじに、よろしく」
千年の時を生きる聖猫の悠長さか、あるいは絶対的な主への揺るぎない信頼か。
その一言を残し、アメリアとクレアは抵抗する隙すら与えられず空間の歪みの中へと強制幽閉され、そのまま世界から忽然と姿を消した。
鏡の破片のように砕け散った空間が、再び元の静寂へと戻っていく。そこには何ら物理的な痕跡も残されてはいない。
だが、クレアから託された聖なる雷の魔法≪ヴィルティル≫を纏い、超加速の稲妻となったイザベラ団長率いる花の騎士団は、感覚すら置き去りにする速度に驚愕しながらも、疾風迅雷の如き勢いで紫電の水門を離脱し、文字通り〝雷〟となって大地を駆け抜けていく。
去りゆく閃光の中、引き伸ばされた一瞬の時間の中でイザベラが振り返ると――。
膝をつき倒れ込むツインテールの少女の傍らに、いつの間にか、豪奢な法衣を纏った何者かが静かに佇んでいた。
深い陰を落とす衣の奥から、去りゆくイザベラたちを射抜く冷たく妖艶な眼光。去りゆくイザベラたちを見送りながら、不気味に微笑んでいる――
――ように見えた。




