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箱庭と猫 第二部 ―聖霊の試練編― 下  作者: 山本陽之介
第2章 黄土ヲ砕ク

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幕間 情報の価値

 ルーメン神教総本山の神殿。


 天啓円宮《コロナ・チェレステ》 内。地下深く。声の裂け目(ヴォイス)の研究エリア。


 ホムストック室。


 青白い光を放つ巨大なガラスシリンダーが、幾重にも並び、その不気味に明滅する光が、ホムストック室の冷たい絶縁合金プレートを静かに照らしていた。


 円筒形のガラスの内部では、培養液に満たされた人型の肉塊――未だに魂の入らぬ予備の器が、静かに呼吸のような泡を吐き出している。


 第十副官マリアンヌは、冷たい手袋をはめた手で、コンソールの数値を手際よく検分している。死体のように冷ややかで透き通る彼女の白い肌には、腕や首筋に透明な管が浮き出ており、管の中を流れる青白い培養液が、静かな脈動に合わせて幻想的に点滅していた。


 その時、地下室の中央に敷設された転移用の魔法陣が、何の前触れもなく激しい高周波の空間の軋みを発する。それは、重い大気の圧縮現象を伴っていた。


 まばゆい光の収束と共に、魔法陣の中心から、血塗れの作業着を纏った二つの影――第四副官ゲルトと、第五副官イーダが、崩れ落ちるように転がり出る。


 二人の皮膚の下では、毛細血管が次々と破裂し、清浄消毒された気密床パネルの上へと、ドス黒い生体マナの混じった血が静かに広がっていく。


 しかし、二人から言葉が発せられることはなかった。


 急激なマナの強制剥奪による生体破壊の代償は、人間の精神が耐えられる限界を遥かに超えており、二人は痙攣を繰り返したのち、その場に崩れ落ち、完全な昏睡状態へと陥っていた。


 ゲルトの右目の眼帯は剥がれており、視神経に直接埋め込まれた魔導義眼のレンズは、内部で三枚の異なる倍率の真鍮レンズとデータコンソールをカタカタと不規則に回転させながら、焦点を失って明滅を繰り返していた。


 イーダの両耳の後ろに埋め込まれた、不自然に突き出す生体受信レシーバーの耳骨ボルトからは、まだ焦げ臭いマナの熱気が静かに立ち上っている。


「おや。ゲルトとイーダ」


 第九副官ハインリヒが車椅子を急がせ、魔法陣の傍らへと進み出た。


 頭部からは無数の極細の針が突き出し、そこから伸びる無数のコードが天井へと繋がっており、網膜を完全に焼き潰している彼の顔は、表情を完全に失った人形のようであった。


「生きてはいるが、完全に意識がない。体内のマナが、骨の髄に至るまで空っぽだ。マリアンヌ、何が起きた」

「わからないわ。ただ、通常の強制転移の負荷を遥かに超えていることだけは確かよ」


 マリアンヌは、流れるような所作で薬瓶を取り出すと、ぐったりと横たわるゲルトの頸動脈へと、極太の注射針を何の躊躇もなく突き刺し、高濃度のマナ栄養液を流し込んだ。


 激しい圧力により毛細血管がさらに数本破裂して血が吹き出したが、彼女はそれを愛おしそうに眺め、自身の指先についた血を静かに舐めとるだけであった。


「通常の自死を選んで魂を還流させれば、今頃は何の損壊もなく新しい肉体で目覚めていたはずなのに」

「なのに、彼らは肉体をボロボロにしてまで、この道を選ばざるを得なかった。……脳を暴かれる前に、魂を回収する自死システムが起動しなかったのよ。……おもしろいわね。これほど凄惨な生体サンプル、めったに得られるものではないもの」


 ハインリヒが、車椅子の手すりを冷たく叩いた。


「脳を暴かれる前に自死が起動しなかった。そんなことがあり得るのか」

「シモン、彼らのログをハッキングなさい」


 その言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。


 魔法陣が再び空間を不気味に歪め、さらに激しい高周波の空間の軋みを発した。

 それは、連続する空間の破断現象を伴っていた。


 まばゆい光の収束と共に床へ転がり出たのは、実行部隊である鏡面《ミラー》の第九将セティと、腰に二振りの双剣を帯びた、第十三将ギルの二名であった。


 彼らもまた、全身の毛細血管が激しく破裂しており、懐に仕込まれた黒結晶に全魔力《マナ》を吸い尽くされ、魔法陣の上に倒れた瞬間、言葉一つ発することなく完全な昏睡状態へと沈んでいた。


 彼らの部下であった鏡面《ミラー》の精鋭二十名は、リオルトに取り残されたことを意味していた。


「セティ。ギルまで……。まさか、現地に展開していた全部隊が全滅したのか」


 ハインリヒが、車椅子の手すりを再び冷たく叩いた。


「実行部隊の将すら、この有り様。彼らもまた、その脅威から逃れるために、結晶を起動するしかなかったのね。全員が深い昏睡にあるわ。シモン、早くログを」


 部屋の隅にあるコンソールが激しく明滅し、第三副官シモンが、右腕の導線を編み込んだアームを動かした。


 彼は、大陸西方の通信工作を一手に担う少年。


 キーを叩く右腕全体は、皮膚を剥ぎ取られて導線と金属で構成された生体タイピングアームになっており、アームの生体接続部からは摩擦による微かな焦げ臭い熱気が立ち上っていた。


 タイピングをするたびに、細長く鋭い指先から青白い微弱な電流がチリチリと発光し、剥がれた爪の隙間からドス黒い血液がキーボードを赤く汚している。


 しかし、痛覚を脳の遮断術式で完全に消去している彼の表情は、平坦なままであった。どころか、血の混じった唾液を口端から零し、不気味に歪んだ笑みを浮かべていた。


「リオルトに派遣していた全員の魔力《マナ》波長が消失した瞬間のログを拾った。自死のために自壊を起動しようとする魔力の逆流反応が、どこにも検出されていないんだ。これほど歪んだデータ波形は初めてだよ。見ていて飽きないね」

「自死を起動していない。自死できないまま、脳を解析されそうになったのね。リオルトの職人たちに」

「……違う。彼らは自死を拒んだんじゃない」


 シモンは不気味に歪んだ笑みを浮かべ、キーボードを赤く染めながら呟いた。


「自決のための自壊術式そのものが、起動前に静止させられているんだ」

「静止?」


 マリアンヌの指先が、微かに硬直した。


「回路を切断されたわけでも、魔力を遮断されたわけでもない。僕たちの施した自壊の構成だけが、現象ごと完全に固定されているんだ」

「生存信号も生命活動も動いているのに、自死の起動だけができない……。こちらの構成を完璧に把握していなければ、そんなピンポイントの静止なんて不可能よ」

「既存の魔化学にはない系統の技術だね」


 マリアンヌが不敵な笑みを浮かべ、コンソールへ視線を落とした。


「ねえシモン、マリノンへ展開していた連中の回収はどうだったかしら」

「マリノンでの魂の還流は完璧だよ。何一つ不整合なく、全員綺麗にクローンへ還ってきたさ」

「じゃあ、いつから不整合が生じ始めたの」

「ゲンマの時だよ。マリアンヌ」


 ハインリヒが、頭部の針をチリチリと不気味に震わせた。


「ゲンマの作戦ログか。確かに、あの時から転移ログの末尾に極微な遅延が生じ始めていたね。検出限界以下の、ほんの空間のズレだったけれど」

「そう。それが今回のリオルトで、ついに完全な現象の固定へと至ったんだ」

「やはり、ゲンマでの交戦相手が、こちらの不死の仕組みに干渉し始めているわけね」


 ハインリヒは、盲目の目を静かに閉じたまま、自身の頭部から引き抜いたデータ抽出用の長い脳針を、昏睡するゲルトの耳の裏へ直接脳へと突き立てた。


 ゲルトの肉体が弓なりに激しく痙攣するのを、ハインリヒは指先から伝わる心地よい振動として静かに味わい、その針の深度をさらに深めた。


 脳の神経が焼き切れる特有の焦げ臭い匂いが周囲に漂うが、誰も気にする様子はなかった。


「だから彼らは、顎を動かして、奥歯の【英傑の業《カルマ・リフレクター》】や、懐の黒結晶を直接噛み砕くしかなかったんだね」

「なるほど。体内の魔力《マナ》を全剥奪される強制転移の苦痛を支払って、強引に魂を逃がしたわけか」

「おもしろいじゃない。その技術、何としても手に入れて解剖し、私たちのホムストックの新しい術式として取り込んで、ピリステス様へ捧げましょう」


 マリアンヌの唇が、歪んだ歓喜に釣り上がった。


「ハインリヒ、この四人の脳から、その干渉を行った何者かのデータを徹底的に吸い出しなさい。セティとギルたちが持ち帰った戦闘ログのデータも、徹底的に解析するのよ。すべてを私たちのものにするわ」


 ハインリヒは、脳針をさらに深くゲルトの頭蓋の奥へ押し込んだ。


 ルーメン神教国、ルーミー教、第五席。


「清貧」のピリステス。

 

 彼女は他国の傲慢な技術を略奪し、清貧のもとに一元統制するという崇高な大義を掲げる枢機卿。


 その美しき大義のために、彼らは自らの肉体を改造して忠誠を誓っている。その不屈の意思を胸に、彼らは各々の任務を粛々と継続していった。







 天啓円宮《コロナ・チェレステ》の回廊。


 静まり返った暗がりの中、二人の枢機卿がすれ違いざまに足を止めた。


「あら、ご機嫌麗しゅう、マタディウス枢機卿」


 透けるような白い肌に、氷のように鋭い瞳を持つ女、第一席アラゾンが声をかけた。


 その立ち姿は冷徹な美しさに満ちており、まとった豪華な法衣の奥には深淵のような威圧感を湛えていた。


「これはこれは、アラゾン枢機卿」


 端整な肉体を依り代とする第八席マタディウスが、こげ茶色の髪を綺麗にスリックバックさせた頭を僅かに傾け、深い青を基調とした上質な衣服を翻して穏やかに微笑んだ。その隙のない佇まいは、依り代の持つ貴族的な気品を完璧に再現していた。


「リオルトで鏡面《ミラー》たちが不可解な転移についてご存じかしら?」

「ほう。生憎存じ上げませんね。そんなことがあったのですね」

「あら、そうなの?声の裂け目(ヴォイス)の報告によると、自壊の機構だけを正確に狙い撃ちして静止させられたと。既存のどの法則にもない干渉。あの地に何が潜んでいるのか、何かご存じかしら」

「おや、それはワタシではなく、現地へ赴いた者たちに聞くべきでは」

「生憎その者たちは皆、昏睡状態よ。わかるでしょ」

「そうなのですか?」

「とぼけなくともよろしくてよ」

「クッフッフッフッ。これは失礼」

「それで?アイゼンに潜伏していた貴方なら、何かしら掴んでいるはずでしょ」

「クッフッフッ、新たな手札を無償で渡すほど、ワタシは親切ではありませんよ。情報は等価交換が基本でしょう」

「相変わらずね」


 マタディウスは薄笑いを浮かべたまま、自身の衣服の襟元を静かに整え、何でもないことのように視線を落とした。


「そういえば、アイゼンであの男と遭遇いたしましたが」

「知っているわ。貴方をあの縛鎖から解放したのでしょう。あの不気味な黒衣の男が」

「そうですか。それで、彼は今どこに?」

「アチシたちが知る由もないわ。あの黒衣を纏う亡霊が、次にどこへ牙を剥くかなど」


 アラゾンは薬指の爪先で、豪華な法衣の袖口を静かに撫で、愛おしそうに出口の闇を見つめた。


「それよりも……せいぜい、その手札を大切に持っておくことですわね、第八席」


 アラゾンは静かに踵を返し、目的地の闇の奥へと消えていく。


「ええ、そういたしますよ、第一席」


 マタディウスはその背中を、薄笑いを浮かべたまま見送った。

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