閑話 黒鉄の若葉たち
夕刻の陽光が、王都エルンツの中央にそびえ立つシュタール宮殿の堅牢な石壁を、濃い朱色に染め上げていた。
今より一月半ほど前、地の月の35日。
宮殿の北東に位置する第三訓練場は、普段であれば近衛騎士たちの掛け声と鎧の擦れる音で満ちているはずだが、この時間ともなれば、静寂が支配している。
その石造りの厳格な空間の中で、二人の青年が木剣を交えていた。
ハンス王太子の長男であるルカ・アイゼンと、近衛騎士団長アルフォンス・プラーティン公爵の長男、デニス・プラーティン。
ルカは王家特有の、白に近い灰色の髪を夕風になびかせ、ハンス譲りの濃い紫色の瞳を鋭く光らせていた。
それに対するデニスは、短い橙色の髪を立たせたスパイキーな髪型が特徴的で、光属性の血統を証明するような、鋭く硬質な金の瞳でルカを真っ直ぐに見据えていた。
共にレオと同じ十八歳。
同じ年に生まれ、一方は王家の若き血を継ぐ王孫として、他方は王族に連なる公爵家の嫡男として、幼い頃から王宮の庭を共に駆け回ってきた二人は、今やそれぞれ王族と騎士としての重責を背負い始めていた。
乾いた木音が、静かな訓練場に規則正しく響き渡る。
ルカは身軽なフットワークを活かし、王家伝承の流派である≪黒鉄永夜流≫の、片手剣を模した木剣を滑らかに走らせていた。
デニスの放つ、プラーティン公爵家伝承の≪黒鉄絢爛流≫による大剣の重い一撃を、しなやかに受け流す。デニスは大剣の木製模造品を両手で構え、鋭く踏み込んでいた。
力強さと正確さを兼ね備えたその踏み込みは、石畳を削るような鋭さを見せる。
それに対し、ルカは片手剣での立ち回りと、体内を流れるマナの細やかな制御を織り交ぜて戦う。瞬時に自身の身体能力を高めることで、大剣の死角を突くしなやかな一撃を繰り出し、石畳を鋭く踏みしめた。
数合の激しい打ち合いの後、二人は同時に一歩退き、剣を引いた。
「……ここまでにしよう、デニス。これ以上やると、夕飯の前に動けなくなってしまうよ」
ルカが額の汗を拭いながら、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「ああ、そうだな。それにしても、ルカ。お前、剣も魔法のキレもさらに上がったんじゃないか?王宮の執務を手伝う傍らで、いつの間にこれほど鍛えていたんだよ」
デニスは木剣を傍らのラックへと戻し、用意されていたタオルで首元の汗を拭った。
彼の声音には、親友に対する確かな敬意が宿っていた。
「レオには負けていられないからね」
「たしかになあ」
ルカが不意に口にしたその名に、二人の脳裏には、かつて共に汗を流し、誰よりも前を走り抜けていった親友の姿が鮮烈に去来する。
かつては生まれつき属性を持たず『出来損ない』と揶揄されながらも、血の滲むような努力でチャクラ制御を極めた。
さらに、あのアイゼン動乱において、英雄の家系、クロースの人間として誰よりも前線で身体を張って国を護り抜いた。
「それに、書類に目を通していると、どうにも頭が硬くなってね。体を動かしている方が、よほど健全だよ」
ルカもまた木剣をラックへと収め、息を整えた。
「――お疲れ様、二人とも。相変わらず、頑張っているわね」
静寂を破るように、優しく穏やかな、しかしどこか凛とした声が響いた。
二人が声のした方角へ視線を向けると、訓練場の入り口に二人の女性が立っていた。
一人は、アイゼン魔法師団長ハンナ・グラナト女侯爵の長女であり、二十歳のリリー・グラナト。
ピンクの髪をサイドテールに結い、その整った顔立ちには活発さと聡明さが同居していた。
そしてその隣には、リリーの部下であり、ルカやデニスと同級生である十八歳の少女、ラーラ・ルビン。
彼女は薄い水色のハーフアップにした髪を揺らし、仕立ての良いローブをお淑やかに着こなしていた。
「やあ、リリーさん、ラーラ。お疲れ様。……それにしても、どうしてこちらへ? お仕事なら、もう終わっている時間ですよね」
ルカが、穏やかに微笑みながら尋ねた。
「ええ。仕事は終わっているわ。ただ、お母様から託された火流制御の訓練を、わたしもここでやろうと思ってね」
リリーは小さく頷き、訓練場の石畳を見渡した。
その隣で、ラーラがデニスの泥だらけの修練着へと静かに視線を向けた。
「まあ、デニス様。……またそんな風に、修練着を泥だらけにして。お怪我がないのは何よりですが、本当に無茶ばかりなさるのですから。でも、それほど熱心に訓練に励まれているお姿、とっても素敵ですわ。汚れた修練着は、喜んでわたくしがお洗濯させていただきますわ」
ラーラはにっこりと、優しく甲斐甲斐しい微笑みを浮かべた。
「いや、ラーラ。洗濯は家の侍女がやってくれ――」
「喜んでわたくしがお洗濯させていただきますわ」
「あ、はい。お願いします」
お淑やかでありながらも、有無を言わせぬラーラの笑顔の圧。それに完全に慄いたデニスは、先ほどまで訓練場で大剣を豪快に振るっていた猛者とは思えないほど小さくなり、ただただタジタジと頷くことしかできなかった。
デニスとラーラは、魔導学院時代からの恋人同士であり、今では婚約を交わしている仲だ。
普段はストイックで気性の激しい熱血漢のデニスだが、自分を誰よりも気遣い、こうして喜んでお世話をしたがるラーラが本気で微笑んだ時の、背筋が凍るような圧力だけは、身を以て誰よりも理解している。
普段はどこまでもお淑やかで献身的な彼女だが、ひとたび本当に怒らせると、声を荒らげるどころか、一切の光を宿さない極上の完璧な美笑を浮かべたまま、周囲のマナの温度すら凍りつかせるような静かな凄みを漂わせるのだ。
だからこそ、その笑顔に睨まれると、ただただ頷いて従うしかなかった。
ルカはその二人の見事なパワーバランスに、くすくすと楽しそうに笑みをこぼした。
「相変わらずラーラのデニスへの想いは真っ直ぐだね。その甲斐甲斐しさには、どんな大剣の達人も形無しだ」
「ふふ、ルカ様、からかわないでくださいませ。アタシはただ、大切な婚約者様のお役に立ちたいだけですの。……ね、デニス様?」
「お,、おう、いつもありがとな、ラーラ……」
デニスは頬を僅かに染めながらも、ラーラの底知れぬ笑顔の圧に圧倒されたまま、そっと視線を逸らした。
そんな二人の微笑ましいやり取りを、リリーは優しく目を細めて見守っていた。そして、ふともう一人の幼馴染であるルカへと視線を向ける。
「ルカ」
「なんだい?リリーさん」
「貴方も焦っているのね」
「焦っている……か。たしかに焦っているのかもしれない」
「やっぱり、レオ?」
「そうだね。かつては肩を並べて歩んでいた親友に、置いてけぼりにされそうな気分なのは間違いない、かも」
「ふふっ。わたしから見たら、あなたも立派な魔法剣士に見えるのだけれど」
「いや。僕はまだまだだよ」
「そうかしら?まあ、デニスはもっと焦るべきだけれど」
リリーが目を細めて、デニスの様子を見つめた。
「なんだよ、リリー姉。辛辣だなあ」
「そりゃそうよ。貴方の父上であるアルフォンス様は、この国の防衛の要。その後を追うだけでも、大変だもの」
「……まあなあ」
「まあ、そういった意味じゃ、わたしも同じなのだけれどね」
「たしかに、うちの父上と肩を並べる『劫炎』のハンナ様もアイゼンの国防の一翼を担っているからなあ」
「その通りだよ、みんな。アイゼンには、僕たちの親世代である『四柱』がいる」
ルカは夕刻の光に自らの手のひらをかざし、自身の力不足を噛みしめるようにゆっくりと拳を握りしめた。
「……僕たちは先の動乱でその影すら踏めなかった。このままでは、いつまで経っても国を守る真の盾にはなれない」
「ああ、本当にその通りだ。父上やハンナ様が、部隊を率いて最前線に立っているっていうのに、俺たちはまだ何もできてねえ。自分の無力さが、心底歯がゆいんだ」
デニスが、悔しそうに拳を握りしめながら応じた。
「父上たちが王都の復興や防衛網の再編を進めてくれているけれど、それに甘えているわけにはいかないからね。僕たち自身が、もっと強くならなければ」
ルカが、静かな、しかし熱い決意を瞳に宿して言葉を継いだ。
「ええ。それに、エリーザ様が魔術犯罪対策局長へと復職されることになれば、王宮の治安維持にとってもこれほど心強いことはありませんわね」
ラーラが深く頷きながら静かに言葉を添えた。
「ああ。僕も、伯母上の復職が噂されている話は耳にしているよ。あの『氷の美姫』が再び表舞台に戻られるとなれば、国中が沸き立つだろうね。何より、僕たちにとっても大きな励みになる」
「そうね。だからこそ、まずは私たちが、しっかりと強くならなくてはね」
リリーが、グラナトの血を継ぐ者としての静かな、しかし確かな強さを湛えた瞳で、一同を見渡した。
「そういえば、ルカ」
ふと、デニスが思い出したように問いかけた。
「なんだい、デニス?」
「レオは今、何をやってんだ?」
「ああ、それか」
ルカはふっと真剣な表情に戻り、少しだけ声を低くした。
「レオは今、『聖霊の試練』というのを受けているんだ」
「聖霊の、試練……?」
リリーが碧い瞳を僅かに見開いて呟いた。
「試練って……一体何のためにそんなことをやっているんだ?」
怪訝そうに尋ねるデニスに対し、ルカは静かに首を横に振った。
「なんのために、と聞かれても、それ以上はエナドの極秘事項なんだ。僕にもこれ以上は知らされていない」
「おいおい……そんな話、俺たちにしても大丈夫なのか?」
「ほとんどわからないことなんだから大丈夫だよ」
デニスの緊張を帯びた問いかけに、ルカは静かに首を振って微笑んだ。
「それに……父上からは、ルカが心から信用できる者にだけは共有していいと言われているからね」
「わたしたちは信用されているのね」
「ああ、リリーさん。だから、この四人だけで共有してほしい」
ルカの確かな信頼を宿した声音に、一同は深く頷いた。
「ただ、レオが何をしようとしているかまではわからない。……あいつが帰ってきたら、その時に直接訊こうじゃないか」
ルカの言葉に、デニスは木剣の柄を握る手に力を込め、静かに頷いた。
リリーはそっと胸元に手を当て、ただ静かに、端正な顔立ちを伏せて碧い瞳を優しく揺らしていた。
「レオのことだから、きっと誰かのために何かをしようって腹積もりなんでしょ」
「ああ。だからこそ、僕たちも強くなって、レオを驚かせよう」
リリーの言葉に、ルカがレオとの再会を見据えるように、力強く微笑みながら言った。
「……それにね。レオは、魔法を手に入れたらしいんだ」
「マジかよ。何属性だ!?」
デニスが驚愕のあまり目を剥き、思わず身を乗り出して問い詰めた。
「それは、まだ教えられていない」
ルカは苦笑交じりに両手を広げてみせた。
「でも……それが本当だとしたら、わたしたち、相当頑張らないとダメね」
リリーが碧い瞳に静かに闘志の火を灯し、口元を引き締めた。
「そうですわね。ただでさえチャクラ制御が抜きん出ているレオ様に、魔法まで加わったとなれば、わたくしたちは……」
ラーラがあまりにも遠い親友の背中を思い描き、少しだけ不安そうに視線を伏せた。
「そんな悲観するな、ラーラ」
デニスが、ラーラの肩を軽く叩きながら不敵に笑った。
「そうだよ、ラーラ。身近に大きな目標があることは良いことじゃないか」
「ルカ様……そうですわね!」
「ああ、そうだぞ、ラーラ。今度は俺たちがあいつの横に立って助けてやる番だ」
デニスが深く、地を響かせるような確かな声で頷いた。
「そうね。それに……あの時の涙も返してもらわないと」
リリーが、ふっと悪戯っぽく、しかし愛おしさを湛えて微笑んだ。
三年前のあの日、最愛の幼馴染の悲報を聞いて、目の前が真っ暗になり、ただひたすらに泣き崩れたあの痛切な記憶。止まったままだった哀しみの日々が、いま、熱い希望の光によって確かに報われていく。
夕暮れから静かに夜へと移り変わる藍色の空の下、リリーはそっと胸元に手を当て、どこか遠くを懐かしむように、碧い瞳を優しく揺らした。
そんなリリーの横顔を、デニスは不器用な、しかし心配そうな眼差しで見つめた。そして、長年胸に抱いていた疑問を、柄にもなく真っ直ぐに口にした。
「リリー姉、まだレオのこと好きなのか?」
「デニス様?」
デニスのデリカシーのない唐突な問いかけに、ラーラが慌てて彼の袖をきゅっと引っ張りながら、窘めるようにその名を呼んだ。
「あ、すまねえ、リリー姉」
デニスはハッと我に返り、ルカの苦笑混じりの視線に気づいて、己の無遠慮さを恥じるように決まり悪そうに頭を掻いた。
「いいのよ、デニス」
リリーはくすくすと楽しそうに笑むと、デニスを気遣わせないように、穏やかに首を振る。そして、見上げるようにすっと顔を上げ、かつてないほど澄み切った、誇らしげな微笑みをその美しい顔立ちに咲かせた。
「ええ、好きよ。ずっと」
迷いのないその告白は、静寂に包まれた夕暮れの訓練場に、そっと、しかし何よりも温かく響き渡った。
夜の帳が包み始めたシュタール宮殿。
消えることのない強い絆を胸に、黒鉄の若葉たちが前を向く。
レオとの再会を誓いながら。




