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箱庭と猫 第二部 ―聖霊の試練編― 下  作者: 山本陽之介
第2章 黄土ヲ砕ク

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第17話 各国にて

 水の大聖霊アイルヴィーズを守護する、マリノン海洋都市国。


『蒼瀑の大水門(カタラク・ゲート)』の中枢部では、絶え間なく流れ込む海水の波長を演算する駆動音が重々しく響き渡っていた。


 海都に流れ込む圧倒的な水圧と質量の暴力を真っ向から受け止めるこの施設は、計算のズレが都市全土の水没を招きかねない、極めて重要なインフラである。


 その巨大な空間の至る所で、クロース家の息のかかった駐在の技術者たちや、マリノン魔法師団の技術班が慌ただしく立ち回り、連携して緻密なチェックを行っていた。


 その中央で、彼らに的確な指示を出しながら全体を統括していたのは、クロース家の長男マルクス・クロースだった。


 彼は白のシャツに機能的なベストを合わせ、眼前の計器に表示される無数の数値へ冷静に視線を巡らせていた。


 常人であれば処理しきれないほどの膨大なデータを前にしても、彼の表情に焦りの色はなく、クロース家の次期当主としての優秀さを証明するように、涼しい顔で的確に数値を捌いている。


「水圧係数の推移、ならびに魔導透水殻の珊瑚濾過層の稼働状況……よし、すべて正常だ。先日、父さんが仕上げていったおかげで、異常なマナの揺らぎも全く確認できないね。皆さん、深海からの圧力に対する防壁の数値にブレがないか、引き続き監視を頼みますね」

「了解しました、マルクス様!」


 技術者たちからの力強い返事を聞き、マルクスが計測用の魔道具を下ろすと、隣で彼をサポートしていた婚約者のカリーナ・グラナトが、優しく微笑んでタオルを差し出した。


「お疲れ様です、マルクス様。先日のゲンマの一件もそうですけれど、伺っておりましたオリガタの件もあって心配でしたわ。でも、ここはもう完全に片付いているみたいですわね」

「ああ、ありがとう。カリーナが魔法師団としての視点で魔導回路のノイズを細かく確認してくれたおかげだよ。それに、皆が迅速に動いてくれている。君が一緒に来てくれて、本当に助かった」


 マルクスがタオルを受け取り、二人が見つめ合って和やかな空気を漂わせた。


 点検作業の合間に訪れた、束の間の穏やかな時間だった。


 エヴィスの謀略への警戒という緊張感が底流にあるとはいえ、まるで婚前旅行のように二人だけの甘い空間が出来上がっている。


 だが、その静寂は、背後からの笑い声によってあっさりと破られた。


「はっはっ。良い!良いな!これほど緊迫した状況下で、まるで婚前旅行のように甘い空気を漂わせるとは。その若き余裕、見ているこちらが当てられそうだぞ」


 現れたのは、深い青の王衣を纏い、首元にセイレーン族特有のエラを覗かせたマリノン女王ピアだった。


 その傍らには、深い藍色の和服を艶やかに着崩した女性が静かに控えている。水の大聖霊の加護を賜りし聖猫フローのヒト化姿であるフルーナだ。


「まったくでありんす。若いお二人の熱気で、水門を冷やす水流の温度まで上がってしまいそうでござりんすよ」


 フルーナが妖艶に目を細めて煙管から紫煙を細く吐き出すと、カリーナは顔を真っ赤にして俯いてしまった。


 しかし、マルクスは全く動じることなく、余裕の笑みを浮かべてピアとフローを見返した。


「ええ、当然ですね。三年間も離れていましたから」


 その堂々とした言葉に、俯いていたカリーナが弾かれたように顔を上げ、惚けるようにマルクスを見つめて、さらに顔を真っ赤に染めた。


「そ、そうだな……」


 嫌味や皮肉など一切ない、あまりにも堂々とした惚気に、先程まで豪快にからかっていたピアは、自身の冷やかしがマルクスに全く通じていないことを悟った。


「さすがクロース家嫡男マルクス様でありんす。お父様のオスヴァルトとは落ち着きが違いんすね」


 フルーナは可笑しそうに目を細め、少し気落ちした主の肩を優しく叩いた。


 マルクスはフルーナの言葉に苦笑すると、表情を引き締めてピアに向き直った。


「……とはいえ、エヴィスの謀略に対する警戒は決して怠っていませんよ。現在のところ、水門に異常は全く見られません」


 マルクスの真摯な報告に、ピアも小さく息を吐いて王としての表情を取り戻した。


「うむ、わかっておる。その余裕を讃えたまでのことだ。お前たちと優秀な技術者たちがいてくれるおかげで、我が国の水門は盤石だ。海に守られたこの国に、ネズミが入り込む隙などないからな」


 ピアの背後に控えていた、国王直属精鋭部隊マリノスセブン、通称『ネイビーセーラー』の隊長ヴルザークが、恭しく一礼して告げる。


「ピア陛下、フルーナ様。水門外郭および周辺海域の警戒にあたっているネイビーセーラーより、異常なしとの報告が上がっております」


 鍛え抜かれた長身を、金ボタンをあしらった濃紺の軍服で隙なく包み込んでいるヴルザーク。マリンブルーの髪と藍色の瞳を持ち、首元にセイレーン族特有の青黒いエラを覗かせた、精悍な顔つきの男である。


「うむ。ご苦労」


 ピアが頼もしげに頷き、フルーナもまた紫煙を吐き出すように微笑んで目を細めていた。





 氷の大聖霊グラエイスを守護するティアゾン獣人国。


 大陸有数の極寒の地、ガルズ湖畔に位置する『凍絶の水門(クリオ・ゲート)』では、大勢の作業員たちが白い息を吐きながら立ち働いていた。


 極低温を利用して不純物を凍結脆化させて砕くこのプラントは、少しの温度変化がパイプの破裂を招くシビアな環境だ。


 クロース家が派遣している駐在の技術者たちと、ティアゾンが誇る屈強な獣人の技術班が協力し、エヴィスの工作による異常がないか、張り詰めた空気の中で点検作業にあたっている。


 その中心で、いつもの無骨な作業着のまま、微かに肩を震わせながら巨大レンチを振るっている男がいた。


 クロース家の祖父であり、元魔道具開発局局長のマルセル・クロースである。


「それにしても――」


マルセルは凍てつく空気を深く吸い込み、忌々しげに天を仰ぐ。


「――相変わらず寒いのう」


 わざとらしく自身の身体を抱きしめるように震え、寒さと過酷な環境に悪態をついているように見えるが、その顔には隠しきれない職人としての楽しげな笑みが浮かんでいた。


 緊迫した技術者たちの声が響く中、凍てつく配管を次々と力強く叩き、異常がないかを確認していくマルセルの背後で、立派な鬣を持つ獅子のビスト、ティアゾン国王のングヴ・ティアゾンが苦笑している。


「よく云うぜ、マルセルのじいさん。そんな作業着で平気そうな面してるくせによお」


 ングヴ王の周囲には、ティアゾンが誇る獣人部隊ムニャマカリの隊長たちが、分厚い毛皮を揺らしながら護衛として厳重に警戒している。屈強な獣人たちでさえ、この絶対零度に近い環境では息を白くして身を縮めていた。


「魔法で温調された作業着と、御爺様特製の暖房魔道具のおかげね」


 聖獣の糸で仕立てられた特製装備を纏った女性が、冷ややかに言葉を返す。氷の聖猫シャルルのヒト化姿、シャリーナだ。


 彼女の視線の先には、マルセルが孫のレオから贈られた懐中時計から取り出した強力な暖房の魔道具が置かれており、周囲の獣人たちへも温かな空気を送り込んでいた。


「カッカッカッ!クロースの技術の賜物じゃ!これなら寒さに気を取られず、点検に集中できるわい」


 マルセルが豪快に笑いながら応じる。だが、その手元は休めない。


 巨大なレンチでカン、カンと慎重に配管を叩き、音とマナの反響を確かめ続けている。


 それを見ていたングヴが、腕を組んでふと口を開いた。


「だがよ、じいさん。ゲンマの次はここか?」


 やがて、マルセルは配管から顔を上げ、小さく息を吐く。


「さあ、どうかのう。今のところ異常は見当たらんな」


 ングヴが自信ありげに鼻を鳴らす。


「そりゃ、そうだろ。そもそも、誰も俺たちの〝鼻〟を搔い潜ってこれやしねえ」

「カッカッカッ!違いない!」


 マルセルの快活な笑い声がこだました。






 闇の大聖霊オスクネスを守護するアイゼン王国。


 プラーティン公爵領の聖域防衛都市「ドンクルハイツ」。


 その大聖堂付近に位置する『重闇の水門(グラヴィ・ゲート)』の中枢では、クロース家現当主のオスヴァルト・クロースが、魔導回路の点検を行っていた。


 重力と闇の圧力を利用して不純物を強制的に沈殿させるこの水門は、少しの調整ミスが施設全体の機能停止を招きかねないシビアな環境だ。


 ゲンマ魔法国での一件を受け、ここでもエヴィスの工作による異常がないか、入念に点検作業にあたっている。


「よし、ここの魔導回路に細工はねえな。お前たち、そっちのバルブ周辺はどうだ? 僅かなマナの乱れや不審な痕跡も見落とすなよ!」

「はい、親方!今のところ異常ありません!」


 オスヴァルトの指示に、魔道具開発局の技術者たちが即座に動く。


 その背後では、レオが仕立てた深紅と漆黒のスチームパンク調の特製装備を纏う赤髪の少女――火の聖猫ルジュのヒト化姿、ルビアが、オスヴァルトの護衛として周囲を警戒しつつ、水門の一角へと呆れたような視線を向けていた。


 そこでは、金属のぶつかり合う激しい剣戟の音が響いていた。


「踏み込みが甘いぞ、ハンス! ルカ! 次期王とそれを支える者がその程度でどうする!」


 白銀の甲冑を纏った大柄な男――元アイゼン近衛騎士団長にして、現在はドンクルハイツの代官兼騎士団長を務めるルーカス・プラーティンが、豪快な声で叱咤しながら大剣を振るう。


 その重い一撃を正面から剣で受け止め、アイゼン王国第三王子にして正式に王太子となったハンス・アイゼンは、玉の汗を流しながらも不敵に笑い返した。


「さすがは叔父上、相変わらず重い一撃だ! だが、まだまだいけますよ!」


 先日のクーデター未遂事件で実の兄に陥れられかけたハンスだったが、すでにその苦悩は乗り越えていた。


 次期王として今回の水門点検に自ら志願して参加しており、その重責を胸に、真っ直ぐに前を向き、力強く剣を振るっている。


「父上、僕も負けません!」


 ハンスの背中を追うように、その長男でレオの同級生であるルカ・アイゼンもまた、気合を入れて剣を振るう。


 王家特有の銀髪を無造作に揺らしながら汗を散らし、ハンス譲りの濃い紫色の瞳には真っ直ぐな強い意志が宿っている。


 先の動乱で国を救った親友レオの凄まじい活躍を聞き、もう一人の親友であるデニス――近衛騎士団長アルフォンスの息子――もまた、王都で彼に負けじと鍛錬に励んでいるはずだ、と思いを馳せる。


 次期王を支える者として、そして何より彼らの友として、自分だけが立ち止まっているわけにはいかない。その熱い想いが、しなやかに鍛え上げられた体躯から放たれる剣閃に確かな力を宿していた。


「まだまだ! エヴィスの工作員がいつ襲ってくるか分からんのだぞ! ほれ、護りはどうした!」


 ルーカスは本来、この水門の護衛の総指揮を執る立場である。しかし、実際の周辺警戒は精強なドンクルハイツ騎士団の部下たちに完全に丸投げし、自身は王太子親子の剣術指導に熱中していた。


 部下の騎士たちは主の暴走に苦笑しつつも、周囲を厳重に警戒している。


 その様子を、作業の手を止めずに横目で見守っていたオスヴァルトが、ふと口を開いた。


「なあ、ルジュちゃん」

「なんスか?」


 オスヴァルトがルーカスたちを苦笑しながら見遣る。ルビアもその視線を追うようにそちらに目を向けた。


 真剣な顔で剣を振るう三人の姿が、そこには見て取れる。


「……いや。なんでもねえわ」

「そうっスか?まあ……そうっスね」


 ルビアがクスリと笑うと、オスヴァルトもまた口端を吊り上げて笑い、自身の作業へと向き直る。


「よし、こっちもさっさと点検を終わらせるぞ!」

「はい、親方!」


 オスヴァルトの気合の入った声と共に、水門の中枢に再び小気味よい作業音が響き渡った。






  光の大聖霊ゲレオールを守護するバーディア聖王国北部「トゥインクディーヌ市国」。


 トゥインクディーヌ大聖堂付近に位置する『聖なる水門(ホーリー・ゲート)』の周辺もまた、静かな緊張感に包まれていた。


 光の浄化作用で水を清めるこの施設は、少しのノイズの混入も許されない神聖なマナの通り道だ。ゲンマ魔法国での一件を受け、ここでもエヴィスの工作による異常がないか、入念に点検作業にあたっている。


「よし、ここの絶縁回路に異常はないな。みんな、防衛結界の波長と同化している隠し回路がないか、死角まで念入りに確認してくれ」

「おう!任せてくれよ!ライナー様!」


 無骨な作業着の上に革の外套を羽織ったライナー・クロースの言葉に、バーディアに常駐するアイゼン王国の技術班たちが気さくに応じ、即座に動く。


 彼らの直属の上司は、魔道具開発局長であるクロース家現当主のオスヴァルトだ。


 放浪の製作師《メーカー》として各地を渡り歩くライナーに対し、彼らはクロース家の人間としての敬意を払いながらも、互いに気心の知れたフランクな関係を築いていた。


「お疲れ様です、ライナー殿。流石はクロース家の技術ですね」


 凛とした声で労ったのは、バーディア王妃であるリンジーだった。


 彼女は有事に備えた動きやすい装いに身を包み、自らが団長を務める『アルタヴェス』を率いている。女性のみで構成された王妃親衛騎士団と呼ぶべきその精鋭たちと共に、大聖堂直属聖騎士団と協力して水門の周囲を厳重に警戒していた。


「王妃様自らが最前線で警戒に当たられるとは、頭が下がりますよ」

「当然ですわ。可愛い甥のレオたちが命懸けで戦っているのですもの。ここで大人しく待っているなんてできませんわ」


 リンジーが力強く微笑んで周囲を見回すが、不審な気配は微塵もない。その横で、レオが仕立てた白と黒を基調とするスチームパンク調の特製戦闘装束を纏う白髪の少女――光の聖猫クラルテのヒト化姿、クララが、退屈そうに口を開いた。


「リンジー、どうやらここにはネズミ一匹来そうにないな。暇だし、お前のところの『アルタヴェス』をオレが少し鍛えてやろうか?」


 その言葉に、リンジーの背後に控えていたアルタヴェスの副官、アリス・リードが眉をひそめて割って入った。


「クララ様でしたか。王妃……いえ、団長と親しいことは存じておりますが、貴女様に我々を鍛えられるほどの実力がおありで?」


 歴代でもとりわけ優秀な聖女シルビアに超人的な格闘術を仕込んだのが目の前の少女であると、アリスは知る由もない。その言葉に、他の団員たちも同意するように頷いた。


 リンジーは可愛い甥の相棒であり、大聖霊の遣いでもあるクララを侮られたことに軽くムッとしたが、すぐに満面のいい笑顔を浮かべた。


「クララ様。……やっちゃってください」

「えっ?リンジー様?」


 アリスが戸惑いの声を上げた瞬間、クララは瞬時に間合いを詰め、彼女の首根っこを軽く掴んだ。


「ほら、特別稽古だ。ついてこい」

「離し――」


 アリスは抵抗する間もなく、クララに引きずられるようにして連行されていく。その理不尽なまでの力と速さに、残された他の団員たちが一斉にたじろいだ。


 リンジーは更に笑顔を深め、団員たちへと優雅に手を差し向ける。


「ほら、貴女たちもお行きなさい。みっちりしごいていただきなさいな」


 王妃の恐ろしい笑顔に逆らえるはずもなく、団員たちは顔を引き攣らせながらクララの背中を追っていった。


 その一連の騒動を横目に、ライナーは苦笑しながら自身の作業へと向き直った。


「よし、こっちも気合を入れて点検を終わらせるぞ!」

「おう!ライナー様!」


 ライナーの気合の入った声と共に、水門の周辺に再び小気味よい作業音が響き渡った。







 雷の大聖霊グロムティルを守護するフロワール騎士国。


 エストレラ大聖堂付近に位置する『紫電の水門(ヴォルタ・ゲート)』。


 電離と高電圧の理を応用し、強大な雷属性マナを制御して浄化を行うこのプラントは、クロース家の技術の粋を集めた極めて安全で堅牢な施設である。


 本来ならば、ここでも他国と同様に入念な点検作業が行われるはずだった。  


 ――だが。


 この日、この世界からアメリア・ヒラソルとエクレアが消失した。

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