閑話 アメリアの家に城憑き妖精が来た
ベル歴995年、雷の月38日
雷属性を司るフロワール騎士国。
その首都であり、雷光の花都とも呼ばれる「ラ・ヴェラ」に構えるヒラソル侯爵家の工房は、今日も金属の切削熱と潤滑油の匂いに満ちていた。
わたしは作業台に向かい、額に防護用の透視鏡を押し上げ、手元の微細な魔導回路へ視線を落としていた。
わたしの指先が紡ぎ出す技術は、実家であるアイゼン王国のクロース侯爵家が誇るそれに勝るとも劣らない精度を保っていると自負している。
現在の夫であるアーロン・ヒラソルと出会ったのは、アイゼン王国で開催された魔道具発表会の場だった。
フロワール騎士国の魔導技術局局長を務める彼は、ひ弱そうな外見に似合わず、雷属性の制御において極めて斬新で面白い発想をする技術者だった。
クロースの人間として、何故かその予測不能な論理に惹かれ、気づけばこの雷光の花都へ嫁いだのだ。
まあ。今思えばひ弱そうな彼への庇護欲もひとつの要因だったのかもしれないのだけれども。
現在わたしが組み上げている基盤は、高電圧の雷属性マナを安全に循環させるための絶縁回路だ。
雷属性特有の高周波ノイズを遮断するためのフィルター機能も兼ねている。
通電と絶縁の法則を論理的に計算し、極小の部品をピンセットで組み合わせていく。
わずかなマナの漏洩が重大な事故に直結する雷属性の魔導回路において、絶縁体の配置と排熱処理は最も重要かつ繊細な工程となる。
緻密な作業の区切りがつき、排熱処理のための放熱板を固定し終えたところで、工房の重厚な扉が控えめに叩かれた。
「入りなさい」
わたしの短い許可に応じ、硬質な音を立てて重厚な扉が開かれた。
ヒラソル侯爵家の家令であるパストルが、一礼してから工房の中へと足を踏み入れる。彼は規則正しい足音を立てて作業台の近くまで進み出ると、微かに困惑の入り混じった表情で口を開いた。
「奥様、お客様がいらっしゃっているのでございますが……」
わたしは手元の工具を作業台へ置き、彼へと視線を向けた。
「なによ? はっきりおっしゃいなさいな」
「いえ、それが……お訪ねになられていらっしゃるのが、〝女の子〟でして」
「女の子?」
パストルの歯切れの悪い報告に、わたしは怪訝に眉をひそめた。
侯爵家の工房にまで案内を通すような客層に、子供などいるはずがない。
「それもだいぶお若い」
「若いってどれくらいよ」
「五歳くらいかと」
パストルの言葉を反芻し、思考を巡らせようとした瞬間だった。
「アタシは若くない」
不意に、すぐ真横から声がした。
わたしは弾かれたように視線を向けた。
いつの間にか、作業台の隣に一人の幼女が佇んでいた。
アッシュブロンドの髪を一つのお団子に結い上げた、年齢にして五歳前後の少女である。かわいらしいワンピースに身を包んだその姿は、どこからどう見てもただの迷子の子供だ。
……工房の防衛結界の警報は鳴っていない。足音やマナの揺らぎすら一切感知できなかった。
ヒラソル侯爵家の工房に敷かれている結界は、熱源、マナの波長、物理的な振動のすべてを網羅した最高精度の監視システムだ。
それが何の反応も示していない。
推測だが、極限まで気配を絶ち、わたしの知覚すら置き去りにするほどの速度で入り込んだとでもいうのか?
「い、いつの間に」
数歩離れた位置に立っていたパストルが言葉を失い、次いで微かに震える声を漏らした。
「ロサディーナ……」
わたしから、思わずその名が口を突いて出た。
ロサディーナ。
それはフロワール騎士国の王城であるロサリア城において、古くから囁かれている伝承である。
城内で稀に見かけるとされ、まことしやかに呼ばれる神出鬼没の城憑き妖精の名前。
わたしも一度だけ城で見たことがある。
だが、わたしは冷静に目の前の少女を観察した。
……どう見てもただ、ぼーっとしている普通の幼女のようにしか見えない。
パストルが我に返り、慌てて少女へと身体を向けた。
得体の知れない存在からわたしを護ろうと、腰の護身用魔道具へ手を伸ばし、少女を工房から追い出そうとする。
わたしは無言で手を挙げ、家令の行動を制した。
「アタシの名前はクレア。ロサディーナじゃない」
幼女――クレアは眠そうな薄金の瞳をわたしたちへ向け、抑揚のない声で告げた。
わたしは手元の工具を完全に手放し、身体ごと彼女へと向けた。
「そ、そうなの? じゃあ、そのクレアちゃんは何の用事があってここに来たのかしら?」
「あるじが呼んでる」
クレアは端的な単語のみを口にする。
「主? 呼んでるってわたしを?」
「ん」
クレアが小さく頷く。
わたしは思考の歯車を加速させた。
この異常な隠密性と、常軌を逸した速度。そして「主」という言葉。
「その主というのは、どこのどちらさまかしら?」
「レオ」
「ん?」
予期せぬ名前に、わたしは思わず間の抜けた声を漏らした。
「レオ・クロース」
クレアの口から明確な姓名が紡がれる。
脳裏に、三年前に事故死を偽装して姿を消し、最近になって生存を公表した彼の顔が浮かび上がった。
天才肌の家族の中で、一人だけ属性を持たないとされながらも、腐らずに己を磨き上げていたわたしの甥だ。
わたしは額のゴーグルを完全に外し、作業台に置いた。
「……待ちなさい。なぜレオがロサディーナの『主』になっているというのかしら?」
「ロサディーナじゃない」
静かな沈黙が落ちる。
「そ、そうだったわね。まあ、いいわ。レオに直接訊けばいいわけね」
「ん」
「それで?レオはフロワールに来ているのかしら?」
「まだ」
「どういうことかしら?距離の長い通信用魔道具は禁止されているのだけれど」
「念話」
「なにそれ?どういうことかしら?」
再び、静かな沈黙が流れた。
「ま、まあ、いいわ。それもレオに訊けばいいのね」
「ん」
「それで?いつレオはここに来るのかしら?」
「いま」
クレアが一歩下がった。
彼女の薄金の瞳が、ただ静かにその場を見据える。
直後、何もない虚空に、質素な木製の扉が音もなく顕現した。
わたしは思わず目を見開く。
床に接することなく、僅かに宙へ浮いた状態で固定された扉は、周囲の物理法則から完全に独立している。
カチリと硬質な音が響き、扉が内側から開かれた。
そこから姿を現したのは、三年前よりも少し大人びた甥――レオ・クロースだった。
「ひさしぶり。アメリア伯母様」
わたしは飄々と笑う彼を見据え、小さく息を吐いた。
「パストル。わたしは少し出掛けるわ。工房の施錠と、旦那様への伝言をお願いね」
背後の家令へ端的に指示を出す。
「お、お待ちください、奥様」
「なによ」
「大丈夫なのでございますか?」
「なにがよ」
「そのような正体不明の扉へ入られるなど……」
「なによ。わたしの甥を信じられないのかしら?」
わたしは作業用の分厚い防護服を羽織り、首元をしっかりと締めた。
「で、ですが……」
「彼が自ら迎えに来たのよ。危険はないわ」
「あ。突然どうもすみません」
主を案じるパストルの言葉に、レオが飄々とした態度で軽く頭を下げる。
クロースの血を引く技術者として、この理を逸脱した未知の扉を体感しないという選択肢は存在しない。
レオが扉の横へ下がり、わたしを中へと促す。
「それと、このことは秘密よ。出掛けた、とだけ伝えておいて。それじゃあね」
呆然と立ち尽くす家令をその場に残し、わたしは未知の空間へと続く扉の奥へと視線を向けた。
向こう側に広がっていたのは、見慣れた王都の景色でも、フロワール騎士国の街並みでもなかった。
薄暗い地下室のようでありながら、空気には清浄なマナが満ちている。
わたしは一切の躊躇いなく、扉の敷居を跨いだ。
空間の境界を越えた瞬間、鼓膜を圧迫するような微かな気圧変化が生じ、次いで心地よい適温の空気が肌を包み込んだ。
わたしが完全に通り抜けたのを確認すると、クレアが手を軽く振りそこで別れ、レオが内側から木製扉を閉めた。
周囲を見回す。
壁面は無骨な煉瓦造りであり、木箱が整然と積まれている。
ここが地下空間であることを示唆する構造だが、空気の淀みは一切なく、完全な換気と湿度調整が行われている。浄水の魔道具や、気流を循環させる仕組みが地下深くに組み込まれているに違いない。
「……ねえ、レオ。ここはいったいどこなのかしら?」
前を歩こうとする甥の背中に声をかける。
「ここはね、聖霊王ベル様が現世の座標から切り離された次元の狭間に創り出した『箱庭』という空間だよ」
レオは振り返り、淡々と事実を告げた。
「聖霊王が創り出した次元の狭間……?」
「そう。そして俺は、千年前の英雄ショウの魂の記憶を引き継いでいるんだ。ここはかつて彼が暮らしていた屋敷で、今は俺の拠点になっている」
「せ、千年前の英雄の、魂の記憶を引き継いでいるですって……?」
あまりに規格外な情報に、わたしは思わず目を瞬かせた。
「後で説明するよ」
レオが歩き出し、地下倉庫の出口へと向かう。
地下倉庫を出たところで、二つの影が待ち受けていた。
紫と黒の意匠を持つ、二体の魔導人形であった。
彼女たちはレオの姿を認めると、片手を挙げて出迎える。
「パ」
「ポ」
「ただいま、パーラ、ポーロ」
それぞれ『パ』と『ポ』の単音しか発せない彼女たちの挨拶をレオが自然に受け取った。
「……すごいわね。これほど滑らかに自律稼働する魔導人形は存在しないわ」
高度な技術を目の当たりにし、技術者として純粋に心躍るのを感じた。
わたしは魔導人形たちに続いて階段を上り、一階の居住空間へと出た。
床には上質な絨毯が敷かれ、壁にはオリガタ皇王国の文化を感じさせる精緻な調度品が飾られている。
廊下を進むにつれ、奥の部屋から聞き慣れた複数の声が漏れ聞こえてきた。
豪快な笑い声と、理路整然とした青年の声、そして熟練の技術者特有の低い声。
わたしは防護服の袖を僅かに引き上げ、口元に不敵な笑みを浮かべた。
多少強引ではあったが、レオがクロースの一族をこれだけ一堂に集めたのだ。ただの近況報告であるはずがない。
何か、途方もなく面白く、そして厄介な事態が起きているに違いない。
わたしは研究室兼工房となっている部屋の扉へ手をかけ、勢いよく押し開いた。
「待たせたわね、愚弟ども。あ、お父様お久しぶりです。それに、マルクスも」
室内に集まっていた顔ぶれが、一斉にこちらへ視線を向けた。




