ヴァンナの教育方針
深夜。
リアンドラの寝室は、まだ明かりが灯っていた。
ヴァンナは優雅な足取りで、音もなく部屋に入ってきた。一着で城が買えそうな最高級シルクの寝間着が、彼女の動きに合わせて水面のように波打つ。
ノックはない。
それは日常的な巡回であると同時に、無言の宣言でもあった。――この家に、彼女が踏み込めない場所など存在しないのだと。
机に向かうリアンドラは、一心不乱にペンを走らせていた。
カリカリ、サラサラ。
羽ペンが紙を擦る音が、静寂に響く。時折、眉を寄せたり、ハッとしたように表情を輝かせたり。その姿は、花畑の蜜をすべて集めきろうとする働き蜂のように勤勉で、どこか痛々しいほどの切迫感を帯びていた。
結論を叩き込む銀潮連邦の教育とは異なり、この国の領主学院は「効率の悪い」啓発型教育を好む。
正解を与えるのではなく、問いを投げかけ、論理の鎖を繋ぐことを強いるのだ。詰め込み教育で育ったリアンドラにとって、それは膨大な時間を食いつぶす重荷だった。
しかし、彼女はその重荷を楽しんでいた――あるいは、楽しんでいるように「振る舞って」いた。
ヴァンナは音もなく背後に忍び寄り、腕を組んで娘の背中を見下ろしていた。
リアンドラがペンを置き、大きく伸びをした瞬間。
「勉強は順調かしら?」
ビクッ。
その柔らかな問いかけに、リアンドラの背筋が凍りついた。まるで草むらで天敵の気配を感じ取った兎のように。
勢いよく振り返り、母の姿を認めると、引きつった笑みを貼り付ける。
「ママ……う、うん。大変だけど、順調だよ」
ヴァンナは満足げに目を細め、リアンドラの頬に手を添えた。
「結構。家の仕事にかまけて、今までちゃんとした教育を受けさせられなかったこと……ずっと気に病んでいたのよ。せっかくの機会だもの。この『普通』の学園生活を存分に楽しみなさい」
ヴァンナの声は揺らめく蝋燭の火のように優しく、そして火傷しそうなほど熱い。
リアンドラは慌てて頭を下げ、祈りを捧げる信徒のように早口で答えた。
「勉強も楽しいけど……でも、ママの役に立てるのが、私一番嬉しいから」
「いい子ね」
ヴァンナの笑みが深くなる。
「ノート、見せてくれる?」
リアンドラは従順に頷き、書き上げたばかりのノートを捧げ持った。
ヴァンナはパラパラとページを繰る。整った文字を目で追っていた彼女の手が、『歴史における資源分配』のページで止まった。
パタン、とノートを閉じる。
「領主学院の教師も、意外とやるようね。遠回りに見えて、理に適っているわ」
ヴァンナはノートを掌で軽く叩いた。
「真の支配者は『何か』を知るだけでは足りない。『なぜか』を理解しなければ。底にある論理を理解してこそ、それを搾取……いえ、利用できるのよ」
リアンドラは母の言葉の深意までは理解できなかったが、母が言うならそれが真理だと言わんばかりに深く頷いた。
「勉強と同じで、私たちの任務も状況に合わせて『最適化』が必要ね」
ヴァンナはノートを返し、瞳に昏い光を宿した。
「そう、今日あなたに伝えたいのはそのことよ。あなたのお友達――シミアについて」
その名を聞いた瞬間、文具を片付けていたリアンドラの手がガタリと震えた。
恐怖が脳を支配する。
また……やるの? シミアを眠らせ、記憶を奪い、脳を壊すかもしれないあの「処理」を。
「やっぱり……シミアを『眠らせる』の? 私……」
リアンドラの声が湿り気を帯びる。頭の中が真っ白になる。
「で、でも最近……シミアの精神力が強くなってて、私の暗示にも耐性ができてて……連続で魔法を使うと、バレるかもしれなくて……」
しどろもどろに言い訳を並べ立てる。友達を守るために。
「――プッ」
不意に、ヴァンナが吹き出した。
彼女は手を伸ばし、怯えるペットをあやすようにリアンドラの長い髪を指に絡め取った。
「緊張しないで、可愛いリアンドラ。大丈夫、もうあの子に手出しはさせないわ」
「え……?」
リアンドラは涙目のまま、きょとんと目を見開いた。
「先生の真似をして、『なぜ』を教えてあげましょう」
ヴァンナは窓辺へ歩き、眠る王都を見下ろした。
「以前、なぜ私たちがシミアを『眠らせ』たり、記憶を消したりしたか覚えている?」
リアンドラは鼻をすすった。
「だって……シミアは勘が鋭すぎて、私たちの計画の邪魔になるから……」
「正解。あの時の彼女は『制御不能な変数』であり、障害物だった」
ヴァンナが振り返る。その瞳にあるのは、絶世の宝石を品定めする商人の冷徹な光。
「でも、ミリエルが王都を去って盤面が変わった。今のシミアは、あなたの友人である以上に、この学院の、ひいては王室派の『代理人』よ。彼女の働きが、南方戦争の行方を左右する」
ヴァンナはリアンドラに顔を近づけ、瞳を覗き込んだ。
「リアンドラ。私たちは利益が欲しいの。破滅じゃない。敗戦して、荒廃して、価値のなくなったローレンス王国なんて無意味よ。この国には生きていてもらわないと……私たちの脚本通りにね」
「だから……」
「だから、シミアには頑張ってもらわないと困るの。ある程度は勝ってもらわないと」
ヴァンナの声は甘い毒のようだ。
「今の彼女は、私たちの手持ちの中で最も価値ある『資産』よ。高価な資産に対してすべきことは、損耗させることじゃない。……何かしら?」
「……保護?」
リアンドラは無意識にその言葉を口にし、意味を反芻した。
「その通り。価値を保つために、傷つけず、時には裏から手を貸してでも支えるの」
ヴァンナは微笑む。目は氷のように冷たいまま。
「任務変更よ。これからはもっとシミアを見なさい。監視だけでなく――『護衛』としてね。分かった?」
もうシミアを傷つけなくていい?
それどころか、守っていいの?
強烈な落差に眩暈がした。だが、すぐに巨大な安堵感が胸を満たしていく。
ママの目的が何であれ、少なくとも……シミアは安全になったんだ。
リアンドラは力強く頷いた。瞳に、生気が戻る。
「うん!」




