パンの値段と、軍神の死角
授業のない、穏やかな午後。
窓辺には気怠げな陽光が降り注ぎ、レースのカーテンを透かして柔らかい影を落としている。
シャル、シミア、シメールの三人はソファを囲んでいた。
テーブルには焼きたてのバタークッキーと、湯気を立てる紅茶。
本来なら至福のティータイムのはずだが、漂っている空気は鉛のように重かった。
「最近、王都の物価が……異常です」
シャルは手元の家計簿を見つめ、眉間に深い皺を寄せて溜息をついた。
「新鮮な野菜が多少値上がりするのは分かります。季節ものですから。でも、主食である小麦粉の値段が……先月の倍以上に跳ね上がっているんです」
肩を落とすシャルの姿に、シミアの胸がチクリと痛む。
原因は、分かっている。痛いほどに。
「……前線の戦況が逼迫しているからね。軍部が兵站物資を緊急調達しているせいだと思う」
シミアは伏し目がちに言い、無意識にティーカップの縁を指でなぞった。
「野菜は保存がきかないし、長距離輸送に向かないから影響は少ない。でも、小麦粉や燻製肉のような保存食は……」
「なるほど。軍への供給が最優先されているわけか」
シメールが納得したように頷く。
「仕方あるまい。戦争中だ」
「ええ。私たちにとっては、利益が少し減るとか、生活を少し切り詰める程度の問題かもしれません。『シャルズ・キッチン』の売り上げにはまだ余裕がありますから」
シャルはティーポットを持ち上げ、自分のカップに紅茶を注いだ。立ち上る湯気が、彼女の憂いを帯びた表情をあやふやにボカす。
「でも、シミア様。私が本当に心配しているのは……その日暮らしをしている、最底辺の人たちのことです」
シャルの声のトーンが落ちる。彼女の視線は、窓の外――繁華街の華やかさの裏にある、路地裏の影へと向けられていた。
「王都に来たばかりの私たちのように、この街には朝から晩まで働いても、明日のパンさえ買えるかどうかの人たちが大勢います。彼らにとって、パンの値段が倍になるというのは……単に『高い』という話じゃありません。『死』を意味するんです」
シャルは振り返り、その澄み切った瞳でシミアを直視した。
静かな、けれど重い一撃が、シミアの心臓を打ち据える。
「この高騰が続けば……彼らは、秋の収穫まで生き延びられるのでしょうか?」
その言葉は閃光のように、シミアの思考の死角を焼き払った。
彼女はずっと計算していた。
敵の兵糧を。行軍の距離を。勝率のパーセンテージを。
だが忘れていた。
戦争のコストというものは最終的に、何の罪もない人々の食卓へ請求されるのだということを。
シミアはシメールを見た。いつもは豪快な友人も、今は深刻な顔をしている。
「……放置すれば、民衆の不満が爆発するな。暴動が起きれば、前線の敗北より悲惨なことになるぞ、シミア」
シミアは深く息を吸い込み、弾かれたように立ち上がった。
「会わなきゃいけない人がいる。ごめん、二人とも。先に行くね」
* * *
学院図書館。
コーナは優雅な手つきで、シミアのカップに紅茶を注いだ。赤褐色の水面は鏡のように静まり返り、シミアの焦燥に駆られた顔を映し出している。
「『過剰な物資買い上げの即時凍結』……ですか」
シミアの要求を聞き終えても、コーナは動じなかった。ただ面白そうに眉を挑ねただけだ。
「買い上げを止めるのは簡単よ。私たちが命令書にサインするだけ。……でもシミア、分かっているはずよ? 前線の補給線は、文字通り私たちの生命線。今手を引けば、あなたが築いた兵站の優位は崩壊するわ」
「ええ、分かっています」シミアは退かなかった。眼差しは揺るがない。「私の試算でも、今備蓄を止めれば、ミリエル殿下の軍は物資不足のリスクに晒されます」
「分かっていて、なぜ撤回を?」
コーナはカップを置き、声音を低くした。試すような響きだ。
「これは、あなたが“あの子”を勝たせるために立案した策でしょう? 理解しているはずよ。南方の内戦は、王国にとって絶対に負けられない戦いだと」
「理解しています。ですが――」
シミアは背筋を伸ばした。脳裏には、先ほどのシャルの悲痛な声が響いている。
「戦争に勝つために自国の民を餓死させたなら……その勝利に、何の意味があるのですか?」
「シャルが気づかせてくれました。高騰する物価が、民衆の背骨をへし折ろうとしていることに」
シミアは一息つき、理路整然と続けた。
「前線部隊には、事前に十分な軍需物資を確保させてあります。ですから、当面の間は大きな問題は生じないでしょう」
「ですが、後方にいる私たちにとっては違います。もし民衆が飢餓で蜂起すれば、前線よりも先に王国が内部から崩壊してしまう。それは私たちにとって、戦場での敗北と同様に、受け入れがたい『失敗』です」
コーナは目の前の若い教え子を見つめた。
いつも皮肉げなその瞳に、初めて純粋な驚きが浮かび――やがて、深い称賛へと変わる。
「『政治の第一義は、国家の自己保存』……ふふっ。どうやらあなたは、戦争のやり方だけでなく、国の治め方まで学び始めたようね」
コーナは口角を上げ、再び紅茶を口に含んだ。
「いいわ、あなたの勝ちよ。軍需物資のプレミア買い上げを一時停止し、備蓄の一部を市場へ放出して価格調整を行います」
そこでコーナは言葉を切り、ナイフのような鋭い視線をシミアに向けた。
「ただし。後方の問題は解決しても、前線の戦略的欠損(赤字)は残るわ。物資の優位性を失ったまま、南方の補給危機をどう埋め合わせるつもり?」
シミアは沈黙した。
彼女の脳内検索が高速で走り、二つの影を導き出す。
銀潮連邦から来た、あの抜け目のない商人・ヴァンナ。そして、最近姿を見かけないリアンドラ。
「一つ……心当たりがあります」
シミアは顔を上げた。その瞳に、軍師としての冷徹な光が戻る。
「銀潮連邦の商会なら――この穴を埋められるかもしれません」




