ミラーの選択
エグモント邸、二階の書斎。
分厚いベルベットのカーテンが午後の陽光を遮断し、室内は澱んだ薄暗さに包まれていた。
現当主、ミラー・エグモントは、デスクの上に置かれた一通の書状を穴が開くほど睨みつけていた。
封筒に押された深紅の封蝋が、やけに目に刺さる。それは、王室の最高権力を象徴する紋章だった。
ミラーは眉間に深い皺を刻んでいる。まるでそれが手紙ではなく、自身への死刑宣告であるかのように。
「なんだ。その紙切れに穴を開ければ、厄介事は消えてなくなるのか?」
静寂を破ったのは、老いてなお張りのある、力強い声だった。
グリン・エグモントが扉を開け放ち、鷹のような鋭い視線で、無精髭を生やした憔悴顔の息子を一瞥する。
「父上……」
ミラーは反射的に立ち上がろうとしたが、グリンは手でそれを制した。
総白髪の老父を前に、ミラーの胸に形容しがたい恥辱が込み上げる。本来なら、孫を愛でて安らかな隠居生活を送っているはずの年齢だ。それなのに、家が危機に瀕するたび、現当主である自分がこうして醜態を晒している。
「南方で動きがありました」
ミラーは深く息を吸い、手紙をデスクの端へと押しやった。
「女王陛下からの親書です。南方の反乱鎮圧への派兵要請……いえ、これは『命令』です」
グリンは手紙には触れようともせず、鼻を鳴らすと、傍らの一人掛けソファに腰を下ろした。古びた革が、重みでギシと軋む音を立てる。
「ヴラド家か……」
グリンは目を細め、虚空の彼方にいるかつての好敵手を幻視した。
「今の当主は、先代のような底知れなさはない。だが、腐っても大公家だ。南方の最も肥沃な土地を握っている。あの幼い女王にとっては、噛み砕くには硬すぎる骨だろうよ」
老グリンの視線が、壁一面の書架へと向く。背表紙は埃一つなく磨かれているが、息子がそこから歴史の答えを学ぼうとしないことを、彼は知っていた。
「どうすればいいのですか?」
ミラーは耐えきれずに立ち上がり、焦燥に駆られてデスクの前を往復した。
「ヴラド側からも接触がありました。あの古狸の息子は、手紙でただ『中立を保て』とだけ……」
「中立だと?」
グリンは何か冗談でも聞いたかのように、高らかに笑い声を上げた。その乾いた笑いが、書斎の空虚さを際立たせる。
「馬鹿な息子だ」
彼は手すりを掴んで立ち上がる。その背中が、不意に巨大な山のように見えた。
「壁の飾りになっているその本を、少しは読んだらどうだ!」
グリンが書架を指差し、叱責する。
「王権交代の歴史の奔流において、『中立派』の末路がどうなるか! 反乱軍が勝てば、お前は日和見の豚として処刑される。王室が勝てば、見殺しにした罪人として裁かれる! 両方にいい顔をした結果は、両方からの断罪だ。忘れたのか? エグモント家の家訓を」
ミラーは背筋を正し、震える声で答えた。
「――エグモント家は、王家にのみ忠誠を誓う」
「よろしい」
グリンは歩み寄り、息子の肩を強く叩いた。
「ならば迷うことはない。王室もヴラドも、我々に踏み絵を迫っているのだ。退路がないなら、前へ進むしかない」
そこで老人の瞳が、不意に深淵のような色を帯びた。
「だが、お前が軍を率いて発つ前に、一つだけ決めておくべきことがある」
ミラーが顔を上げる。「何でしょう?」
「次期当主のことだ」
グリンは意味深長に彼を見つめる。
「もし私が戦場で倒れ、お前も帰らぬ人となった時、エグモント家を誰に託す? あの老獪で優秀な養子、ノエルか。それとも……」
グリンは一拍置き、その名を口にした。
「あの子か。――トリンドルか」
ドクン。
ミラーの心臓が早鐘を打った。
脳裏に二つの影が浮かぶ。
ノエル。養子として迎えたあの少年は、年齢離れした政治感覚と狡猾さを備えている。彼なら、この乱世でもエグモント家を存続させられるだろう。それは間違いなく、最も理性的な選択だ。
そして、トリンドル。亡き妻との唯一の娘。彼女は天真爛漫で、磨かれていない原石のようだ。この人食いのような貴族社会で、その純真さは宝であると同時に、致命的な弱点にもなる。あの華奢な肩に、家門の重圧を背負わせるのか? あまりに残酷で、あまりに冒険的だ。
「それと、トリンドルの傍にいつもいるあの……シミア、だったか?」
不意にグリンが付け加えた。
ミラーは驚いて顔を上げる。
「ええ。トリンドルは彼女を慕っています。自分の……『騎士』だと言って」
「お前も、辺境や学院での彼女の評判は聞いているだろう」
グリンはそれ以上多くを語らず、ただ深く息子を見つめた。
「ミラー。原石が輝かないのは、それを磨く職人に出会っていないからだ……そして世の中には、宝石そのものよりも眩い光を放つ職人もいる」
ミラーはハッとした。父の言葉の深意に気づいたのだ。
「父上、それはつまり……」
「私に意図などない」
グリンは首を振り、踵を返した。
「この件に関してだけは、父親として、祖父として、口出しはせんよ。これは当主としての、そして父親としての、お前の責任だ」
よろめくような足音と共に、グリンの背中がドアの向こうへと消えた。
部屋に死寂が戻る。
ミラーは脱力し、椅子に崩れ落ちた。亡き妻の笑顔と、ノエルの冷徹な目が交互にフラッシュバックし、頭が割れるように痛む。
理性は、ノエルが「正解」だと叫んでいる。
だが感性が……あるいは直感のような何かが、トリンドルを切り捨てることを拒絶している。
特に、父が最後に口にした名前――シミア。 あの黒髪の少女。噂に聞く、奇跡を連発する「軍神」。もし彼女が、トリンドルの傍にいるのなら……
ミラーは猛然と顔を上げた。その瞳に、ある決断の光が宿る。
彼はデスクの隅にある呼び鈴を掴み、激しく振った。チリリンッ、と乾いた音が沈黙を切り裂く。
すぐに老執事が恭しく入室した。「旦那様、お呼びでしょうか」
ミラーは深く息を吸い込み、腹の底の不安をねじ伏せた。
「バセスから届いている、トリンドルに関する『観察報告書』を。すべて持ってこい」
彼は執事を射抜くように見据えた。
「今すぐにだ。急ぎで確認する」
本編の後に、こうして皆様とお話しするのは久しぶりですね。
読者の皆様、いかがお過ごしでしょうか?
最近、どうやら私の執筆コンディションも上向いてきたようです。行間から「表現したいもの」を確かに掴み取るあの感覚……これこそが、執筆生活の『醍醐味』かもしれませんね(笑)。
さて、今回はこの節におけるエグモント家の選択について、少し戦術的な振り返り(レビュー)をしてみたいと思います。
乱世の奔流において、一族の運命を決する瞬間というのは、往々にしてギャンブルの性質を帯びるものです。
もしかすると、「アウグスト・バイロンのように『中立』を保つべきだ」とか、「もっと穏健な中庸の道こそが賢明では?」と感じた読者の方もいるかもしれません。
確かに、平時や政治的な駆け引きの中では、中庸こそが生存の知恵となることが多いです。
しかし、純粋な軍事・生存ロジックの下では、話は全く別になります。
戦場には残酷な法則があります。
最も忌避すべきは「誤った決断」ではなく、「決断しないこと(迷い)」である、と。
目の前に二つの道があると想像してみてください。
一つは「一見近道だが危険な道」。
もう一つは「遠回りだが安全な道」。
指揮官は、危険を冒して速攻を仕掛けることも、時間をかけて堅実に進むことも選べます。 ですが、唯一やってはいけないのが『兵力の分散』――つまり、両方のリスクを同時にケアしようとすることです。 兵力を分散させ、両方に保険をかけようとすれば、結局どちらの道でも優位を作れず、各個撃破されるのがオチです。
渦の中心にいるエグモント家には、小貴族のようにどっちつかずで生き残れるような許容量はありません。
王室に全張り(オールイン)するか、裏切るか。そこに「中間地帯」は存在しないのです。
いわゆる「乾坤一擲」の大博打にしか、活路は見出せないというわけですね。
もちろん、これはあくまで作中の情勢に基づいた私見に過ぎません。皆さんはどう思われましたか?
もし異なる戦術的見解があれば、ぜひコメント欄で教えてください。皆さんのご意見、一つ一つ大切に読ませていただきます。
それでは、引き続き『軍神少女』の世界で、あなただけの楽しみを見つけていただければ幸いです。




