砂盤の外
午後の日差しは暖かいはずなのに、軍事戦略演習室には、肌を刺すような殺気が充満していた。
ダミール、ライナス、シメール、そしてシミア。
四人が囲む巨大な砂盤の上で、空気は凍りついていた。
「……ぬう。もう退けんぞ」
ライナスは膠着した戦局を睨みつけ、額に脂汗を浮かべていた。彼は意を決したように息を吸い込む。
「ここが反撃の唯一の窓だ。伝令! 両翼に分散した部隊を中央へ集結させろ。地形を盾に、敵先鋒を一網打尽にする!」
ライナスの指先に従い、王国軍を示す青い駒が砂盤の中央へとなだれ込む。それは怒涛の奔流となり、起死回生の勢いを見せた。
だがその時。
シミアの口角が、ゾクリとするような角度で吊り上がった。
それは、獲物が罠に踏み込んだ瞬間を見届けた、狩人の笑みだった。
「タイミングは悪くありません、ライナス先輩。ですが――」
シミアの白く細い指が伸びる。
前線ではない。
彼女は「兵站総監」を示す駒を摘み上げると、無造作に後方へと下げた。中央軍と国境線を結ぶ、か細い補給線を物理的に切断する。
さらに、彼女は「国境防衛」を示す赤いブロックを手に取り、ローレンス王国の版図から剥ぎ取って捨てた。
カラン。
駒が転がる乾いた音が、ライナスの頬を張ったような衝撃を与える。
「な……なんだと!?」
ダミールが目を見開く。
一見、互角に見えた戦局が瞬時に崩壊した。兵站と側面支援を失った中央軍は、一瞬にして敵中に孤立した「島」と化したのだ。
「馬鹿な……なぜ補給線が切れる? 後方に敵などいないはずだ!」ライナスが狼狽して叫ぶ。
傍観していたシメールは、平然と佇むシミアを見て、その瞳から光を消した。彼女には理解できたようだ。
「政治的理由……か。前線は死に物狂いで抵抗しているのに、後方の貴族どもが利益配分で揉めたか、戦力温存のために支援を拒否した。……連携が取れん以上、これは……」
シメールの声が乾く。
「たとえ鋼心連邦が全力を出さずとも、我々の負けだ」
シミアは感心したように頷いた。その瞳は氷河のように冷たい。
「その通りです。このシミュレーションに、私は『人心』という変数を加えました。王国側が一枚岩でなければ、どんなに戦術が優れていても、勝算はゼロです」
シミアの結論は死刑宣告のように響き、三人の顔に影を落とした。
「どうやっても……勝てないのか?」
王国軍総司令官役のライナスは、悔しげに項垂れた。包囲殲滅されゆく青い駒たちを見つめ、深い無力感に襲われる。
その肩に、小さな手が置かれた。
顔を上げると、恐ろしいほど静謐なシミアの黒い瞳があった。
「ライナス先輩、顔を上げてください。事態はあなたが思うほど悪くありません」
シミアは教鞭を手に取り、陥落が確定した国境エリアを軽く叩いた。
「私から見れば、この盤面が詰んでいるのは、あなた方が一つの前提を間違えているからです。――それは、『勝敗のルール』です」
「ルール?」
シミアは主要都市を示す青い旗を手に取ると、躊躇なく引き抜き、遥か後方の僻地へと突き刺した。
「私たちが設定した戦場は、防衛対象(都市)に近すぎました。この『お荷物』を守るために軍は死守を強いられ、機動性を失った。補給線を断たれたり、各個撃破されれば、待っているのは全滅です」
「なら、どうすればいい?」ダミールが身を乗り出す。
「ルールを変えるのです」
シミアの声が鋭く響く。
「『主要都市の死守』という勝利条件を破棄し、『有生戦力の保持と反撃』へと書き換えます」
静まり返る教室で、シミアは残局処理を始めた。
その手つきは流れるようで、防衛線に張り付いていた駒を次々と撤退させる。
「最悪の事態を想定しましょう。私にとっての最悪とは、都市をいくつか失うことではありません。ローレンス王国が反撃の希望を失うことです」
シミアは教鞭を返し、赤と青、双方の軍を同時に操作し始めた。
まず鋼心連邦(赤)の駒を動かし、重心を両翼へとかける。
「鋼心連邦にとっての最良手は、両翼包囲による主力の殲滅。短期決戦での勝利です」
赤い奔流が迫る。
だが今回、青い駒は正面衝突を避けた。
シミアの指揮下で、王国軍は弾力のあるゴムのように柔軟に後退し、陣形を維持し続ける。都市を明け渡し、街道を明け渡し、資源さえもくれてやる。
だが、赤軍がそれを飲み込もうと口を開けた瞬間、青軍はハリネズミのように棘を逆立て、強烈なカウンターを叩き込んでから、また下がる。
「見えますか? 進軍に伴う出血が、想定を超えています」
シミアは淡々と解説する。
「戦線が伸びるにつれ、連邦の補給圧力は増大する。そして絶え間ない出血強要は、彼らの心理に微妙な変化をもたらします」
「心理だと?」シメールが問う。
「『利確』です」
シミアは地図上の一線を指し示した。
「鋼心連邦の戦略目標は、周辺国との接合部である核心エリアの奪取です。侵攻のコストがリターンを上回った時、彼らは停止を受け入れます。彼らが足を止めれば――我々は交渉のテーブルにつける」
不意に、シミアの眼光が鋭くなった。
赤軍の攻勢が鈍った一瞬の隙。死んだふりをしていた青軍が牙を剥く。
精密な局地反撃が、赤軍の先鋒を瞬時に粉砕し、押し返した。
「戦力不足のため、深追いは厳禁です。ただ彼らを押し返し、『これ以上進めば痛い目を見る』という決意を示すだけで十分」
少なからぬ領土は失われた。だが、王国軍の主力は健在であり、防衛線は再構築された。
「これでいいのです。『面子は潰れましたが、内臓は守った』。この結果こそが、唯一の活路です」
「よし……いけるぞ!」
死地を脱した青軍を見て、ライナスは思わず声を上げた。
「肉を切らせて骨を断つ」を地で行くその戦略眼に、上級生である彼も舌を巻くしかない。
「ですが、ライナス先輩」
シミアは唐突に振り返り、ライナスの目を正面から見据えた。
その瞬間、「軍神」としての重圧が解放され、ライナスの呼吸が止まる。
「この小さな盤上では、表現できないものが一つだけあります。それは――人の心の力です」
シミアが一歩、彼に肉薄する。
「先輩。駒に恐怖はありませんが、指揮官にはあります。もし今の相手が私だったら……もしあなたが鋼心連邦の司令官席にいて、私のような狂気じみた、コスト度外視の弾性防御に直面したら……もう一度攻撃を命じる決意が、持てますか?」
ライナスは口を開けたまま硬直した。
盤上の、崩れそうで崩れない、狼のように獰猛な青軍を見る。
そして、目の前の、自分より遥かに小柄なのに巨人のような威圧感を放つ少女を見る。
冷や汗が、頬を伝った。
その瞬間、魂の底から震えが走った。
「いや……俺は……」
ライナスの声が震える。
もし相手がシミアなら、損害の大きさに恐怖し、とっくに撤退命令を出していただろう。
「お分かりですよね?」
シミアの声は低く、甘く、悪魔の囁きのように響いた。
「私はあなたのほんの少しの迷いも見逃しません。次にあなたが失うのは、領土の一部ではなく――そのすべてです」
ライナスは青ざめた顔で、操り人形のように頷くことしかできなかった。
「鋼心連邦の指揮官が、最後の一兵まで流してでも我々を征服する『鋼の意志』を持っているかは分かりません。逆に、彼らもまた、我々に国と心中する覚悟があるかは分からない」
シミアは威圧的な視線を解き、再び砂盤へと向き直った。
「これこそが、盤上では表現できない戦争――勇気の博打です」




