泥沼の算術、あるいは軍神の決断
バチバチと、千切れた真珠のような雨粒が窓ガラスを叩きつける。
水滴は透明なガラスの上で平たい軌道を描き、窓の外の世界を無残に切り裂いていく。
「ふぅー……」
最後の一枚にコーナが目を通し、分類し、王家の朱印を押す。
その乾いた音が響くと同時に、シミアの前に積み上がっていた書類の山が消え、ようやくデスク本来の木目が姿を現した。
シミアは空気が抜けた風船のように、だらしなく机に突っ伏した。
「お疲れ様、シミア」
「お疲れ様です、コーナ先生」
二人は顔を見合わせ、同時に微笑む。
シミアは窓外に視線を流した。
狂暴な雨のカーテンが、中庭の花壇を蹂躙している。誇らしげに咲いていたサマンの花々が、風雨に打たれ、激しく身をよじらせていた。その姿はどこか凄惨で、美しい。
(あの花たち……この嵐に耐えられるのかな)
とりとめもないことを考えながら、シミアは久しぶりに脳のスイッチを切り、空白の時間を楽しんだ。
「一杯、どう?」
ことり、と。
温かい紅茶が目の前に置かれる音で、意識が現実に引き戻される。
「うん」
シミアは上体を起こし、カップを両手で包み込んだ。琥珀色の液体が微かに揺れ、湯気が鼻先をくすぐる。フーフーと息を吹きかけ、一口啜る。
ミリエルが淹れる紅茶のような、強烈な個性や華やかさはない。
コーナの紅茶は彼女自身と同じだ。淡白で、静かで、けれど長く続く余韻がある。
「ミリエル様のような腕前ではありませんが……お口に合えばいいのですが」
コーナは少し恥ずかしそうに、耳元の後れ毛を指で払った。
「そんなことないよ」
シミアは掌から伝わる熱を感じながら、首を横に振った。
「淹れてもらっている立場なのに、評価なんてできません。それに……コーナ先生の紅茶は、飾り気がなくて、とても温かい。私、好きです」
「そ、そう……よかった」
コーナは慌てて窓の方へ顔を背け、雨脚を確認するふりをした。だが、その耳が赤く染まっているのは隠せていない。
「今日の雨は長引くわね。夏雨だというのに……」コーナはぎこちなく話題を変えた。「ところで、仕事も片付いたことだし、何か読みたい本はある? シミア」
「本……」
シミアの視線が、図書館の広大な書架を彷徨う。
だが、どの背表紙にも興味を惹かれない。
ふと、一つの思考が脳裏をよぎる。
ミリエルが出征して一週間以上が過ぎた。連日、捷報は届いている。だというのに、胸の奥に巣食う正体不明の不安が消えない。
南方は……今、一体どうなっているの?
カチャリ。
シミアはカップを置くと、不意に手を伸ばし、コーナの手首を掴んだ。
その瞳には、先ほどまでの緩やかな空気は微塵もない。
「コーナ先生。南方の地図を見せていただけませんか? 前線の状況を、正確に把握したいんです」
コーナは一瞬だけ虚を突かれた顔をしたが、すぐに「やっぱりね」とでも言いたげな、会心の笑みを浮かべた。
「あなたがそう言うと思ってたわ……あなたになら、見せても問題ないでしょう」
コーナは立ち上がり、図書館の最奥――機密文書が眠る禁区へと歩き出した。
やがて、彼女は巨大な羊皮紙の束を抱えて戻ってきた。
革紐を解き、重厚な羊皮紙がデスクの上に広げられる。古いインクの匂いと、歴史の重みがふわりと舞い上がった。
それは、狂気的なまでに精緻な軍事地図だった。
地形、水脈、村落の配置、貴族の領地境界、駐屯兵力……森の一本一本に至るまで、すべてが克明に記されている。
「これは……すごい」シミアは息を呑んだ。
「王族と最高位の将軍しか閲覧できない最高機密よ」コーナは小悪魔のように片目を瞑った。「でも、女王代理のあなたに見せるのは、ルール違反じゃないわよね?」
シミアは、その冗談には反応しなかった。
地図が完全に展開された瞬間。
彼女の瞳から「無垢な少女」の色が消滅した。
彼女は立ち上がり、テーブルの縁に両手をついて身を乗り出す。猛禽類が獲物を見下ろすように、地図を俯瞰する。
彼女の網膜において、それらの線や色分けは単なる地理情報ではない。膨大なデータの奔流へと変換されていく。
山川は「抵抗係数」へ。森林は「隠蔽ボーナス」へ。そして平原は――「殺戮の苗床」へ。
「どう? 情報量が多すぎて、すぐには把握できないかしら」
コーナは教鞭を手に取り、いつものように講義を始めようとした。
シミアは無言のまま、短く頷いて続きを促す。
「いいわ、南方の現状を説明するわね」
コーナの教鞭が、地図の上部に広がる疎らな緑地帯を示した。
「ここが『緩衝森林区』。王都と南方の接続部ね。六つの小規模家門が点在しているけれど、その多くは伝統的な勤王派。このエリアは安全よ。ミリエル様の補給ラインは現在、ここを通って前線へ伸びているわ」
教鞭が滑るように南下し、広大な薄黄色のエリアで止まる。
そこには数十もの家紋が、まるで虫食いのように複雑に入り乱れていた。
「南方大平原。ローレンス王国の穀倉地帯。王国の食料の半分以上がここで生産されていると言っても過言ではないわ」コーナは微笑み、その中にある小さな村のアイコンを指した。「ここが、あなたの故郷よね?」
シミアは懐かしい座標を一瞥したが、そこに郷愁はなかった。むしろ、眉間の皺が深くなる。
極めて現実的で、致命的な問題が浮上したからだ。
「平原の貴族たちの立場は? 全員、王室派なのですか?」
コーナの微笑が消え、陰りが差す。
「残念ながら。表向きは『中立』を宣言しているけれど、実際は大部分がヴラド家の牽制や浸透を受けているわ。ここは……灰色の泥沼よ」
「泥沼……」シミアは低く呟いた。
コーナの教鞭はさらに南下し、最後に毒々しいほど鮮やかな『赤獅子』のマークで停止した。
「ミリエル様の戦略はこうよ。大平原に強固な補給線を確立し、一気にここへ――ヴラド家の本拠地、南方首府へ楔を打ち込む。ここさえ落とせば、南方の反乱勢力は瓦解するわ」
シミアは、大平原から赤獅子へと伸びる長い長い一本線を見つめる。
眉間が限界まで引き絞られた。
「心配しないで、シミア」コーナが励ますように言う。「すでに辺境の領主たちとも連携は取れているわ。彼らが平原を通過して主力と合流し、挟撃すれば……」
「コーナ先生」
シミアが遮った。
顔を上げる。その瞳は、先ほどまでの穏やかな漆黒ではなく、研ぎ澄まされた刃の冷たさを宿していた。
あまりの鋭利な気配に、コーナは言葉を失う。
「質問です。通常の行軍で、現在の主力位置から南方首府まで、何日かかりますか?」
「急行軍で、道路状況が良ければ……最大で十二日といったところね」
コーナは王室軍の定石通りの回答を口にした。
「十二日……それは、『道路が舗装され』かつ『全域が友軍』であるという、机上の理想値です」
シミアは首を振り、地図上の密集した貴族領地を指先でなぞった。
「しかし、このエリアには三十近い貴族領があります。コーナ先生。この三十の領地は、三十枚の『見えない壁』なんです」
「三十の壁……?」
シミアは視線を地図上で高速に跳躍させる。脳内で、超高速の演算が走る。
三十の不確定変数。三十の伏撃ポイント。三十層の……戦場の霧。
数秒後。彼女は顔を上げた。
その瞳には、確信という名の冷たい光が宿っている。
「先生。これは速攻戦にはなりません。十二日なんて、絶対に不可能です」
シミアの声は恐ろしいほど冷静だった。
「兵站局へ通達を。ミリエルへの補給物資を増産してください」
「増産? どれくらい?」
「近衛軍の標準作戦量に基づき……」シミアは二本の指を立てた。「最低でも、二倍です」
「二倍ッ!?」
コーナは仰け反り、教鞭を取り落としそうになった。
「シミア、それがどれだけの金額か分かっているの!? 国庫の半分が空になるわよ!」
「金額の問題ではありません。そうしなければ、支払う対価は『ローレンス王国の敗北』になります」
シミアは一歩も引かなかった。彼女は指先で、地図上の平原エリアを強く叩く。
「ここを見てください。第一の懸念は、『敵味方識別(IFF)』の時間コストです」
シミアは一本目の指を立てる。
「これは内戦です。異種族との戦争ではありません。この『灰色の泥沼』において、ミリエル様が直面するのは整備された大道ではなく、三十人の態度を鮮明にしない領主たちです。一つの領地を通るたび、軍は足を止め、偵察し、交渉し、敵か味方かを見極め、場合によっては迂回を余儀なくされる」
シミアの指が、領地と領地の間を跳ね回り、大軍が足止めを食らう様を再現する。
「たとえ一つの領地で一日半のロスで済んだとしても――これは極めて楽観的な数値ですが――三十の領地で四十五日。本来の行軍時間を合わせれば……」
シミアはコーナを見据え、絶望的な数値を提示した。
「私たちが直面しているのは、十二日の突撃ではありません。六十日に及ぶ泥沼の行軍です。二倍の物資を用意しなければ、軍は目的地に着く前に自壊します」
コーナは地図を見つめ、青ざめた。
本来なら半日で通過できる村同士の距離が、一歩ごとに警戒を要する戦場へと変貌した時、時間の流れは残酷なほど遅くなる。
「第二に」シミアは二本目の指を立てた。眼光がさらに鋭くなる。「焦土作戦です」
「弱者が強者の王軍に対抗するための、天然の防衛策です。ミリエル様を疲弊させるため、反乱軍は沿道の村から食料と男手を徴発し、全てを焼き払って撤退するでしょう。ミリエル様は現地調達ができないばかりか、飢えた難民を救うために自軍の兵糧を割かざるを得なくなる。補給圧力は指数関数的に跳ね上がります」
「な……なんて残酷な!」コーナが悲鳴を上げた。「彼ら自身の領民でしょう!?」
シミアは深く息を吸い、怯えるコーナを見つめた。口調を少し和らげるが、その芯は揺るがない。
「コーナ先生。戦場において、最大の残酷とは『敗北すること』です。勝つためなら、敵はあらゆる手段を使います。最悪の想定をしない指揮官は、兵士を殺すのと同じです」
コーナは喉が張り付くのを感じた。さっき飲んだ紅茶が、砂利のように喉に引っかかる。
「そして第三。これが最も致命的です」
シミアは三本目の指を立て、窓の外の狂乱する雨を指差した。
「時間です」
「この雨は夏雨。つまり、もう間もなく秋の収穫期が来ます」
シミアの声が低くなり、一語一語が重いハンマーのように響く。
「本来十二日の行程が六十日に伸びれば、戦線は確実に秋に食い込みます。もし収穫期を逃せば、ローレンス王国に……越冬のための食料は残りません」
それは「飢饉」という名の死神が、地図の縁で嗤っている未来図だった。
「コーナ先生」
シミアは顔を上げた。
十六歳のまだ幼さの残る顔に、今は統治者の覚悟が刻まれている。
「反乱軍には底がない。焦土作戦も、民の犠牲も厭わないでしょう。ですが――ミリエルは違います。彼女は女王だ。彼女には絶対に譲れない一線がある。それは、ローレンス王国の民を『存続』させることです」
窓外の雨音は騒がしい。だが少女の声は、嵐を切り裂き、コーナの魂の深淵へと届いた。
「だから、どうか二倍の補給を用意してください。私たちはこの物資で消耗戦を耐え抜き、コストを度外視してでも……秋の収穫期が終わる前に、この戦争を終わらせなければなりません」
コーナは目の前の少女を見て、そこに別の、より巨大で冷徹な影がミリエルと重なる幻覚を見た。
地図の上に広がる亡国の悪夢は、シミアの揺るぎない眼差しによって粉砕されていく。
長い沈黙の後。コーナは深く息を吸い込み、教鞭を強く握りしめた。
「……分かったわ」
彼女は踵を返し、デスクに向かい、羽ペンを手にした。
「直ちに物資調達令を起草します。国庫を空にしてでも、物資を送り届けるわ」
彼女も理解したのだ。
この戦いだけは、絶対に負けられないのだと。




