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清流と濁流

午後の軍事戦略講義室。

本来なら、乾いた砂の埃と古紙の匂いが充満しているはずのその空間は今、優雅極まりない紅茶の芳香に支配されていた。


無骨な戦術演習テーブルの上には、雪のように白いレースのクロス。

その上には五つのボーンチャイナのティーカップが並び、柔らかな湯気を立てている。


シミア、シメール、クラウディア、ライナス、そしてダミール。

五人はテーブルを囲み、シメールが持参した「シャル特製・慰問品セット」に舌鼓を打っていた。


「マジかよ……あの大物が、本当に許可したのか?」


ライナスはバタークッキーを摘んだまま、口に運ぶのも忘れて固まっていた。

確証が得られるまで安心できないといった様子だったが、シメールが静かに頷くのを見て、ようやく憑き物が落ちたように長く息を吐いた。


「『お前が熟慮の末に決めたことならば、好きにせよ』」


シメールは背筋を伸ばし、父親特有の――無関心を装いつつも絶対的な威厳を持つ――口調を完璧に模倣してみせた。

そして、教科書のお手本のような所作でティーカップを傾け、優雅に息を吹きかける。


「父上は、そうおっしゃった」


――カリッ。


硬質な音が、室内の空気を心地よく震わせた。

クラウディアが、アーモンドの焼き菓子を噛み砕いた音だ。彼女はすぐには飲み込まず、舌の上で転がすように味わっている。まるで、菓子の甘みではなく、この場の「情勢」を咀嚼するように。


ゴクリと喉を鳴らし、紅茶で口を湿らせると、その菫色スミレいろの瞳が妖しく光った。


「さすがは『シオン様』ね。“賭け”のタイミングが、恐ろしいほど正確だわ」


言葉は称賛だが、その不敵な笑みには、幾重もの裏の意味が込められているように聞こえる。


「ま、おかげで私とライナスの肩の荷も軽くなったわ」

クラウディアは肩をすくめ、勝ち戦を確信した将軍のように余裕を見せた。

「頼れる指揮官に加え、あの『西の公爵』がバックについてくれるなんて。これ以上のカードはないわね」


一方、シミアは具沢山のサンドイッチを両手で持ったまま、ポカンと皆を見回していた。

言葉の意味は分かる。だが、繋がるとまるで異国の言葉だ。ライナスを見ても、クラウディアを見ても、答えは顔に書いていない。


「あの……どういうことですか? クラウディア先輩」


「あらシミア、これ美味しいわよ。食べてみて」


クラウディアは質問には答えず、バスケットをシミアの方へ滑らせた。そして、子供に言い聞かせるようにゆっくりと解説を始める。


「いい? シオン様ほどの御方が、私たちのこの『同盟』の性質を見抜けないはずがないの。シメールの加入を黙認したということは、つまり強大なディス家が、ある程度私たちの『後ろ盾』になることを承認したってこと。明言はしないけど、貴族社会のチェスボード上では、これはもう『チェックメイト』に近い一手なのよ」


シミアは分かったような分からないような顔で、シメールを見た。

シメールはハンカチで口元を拭い、否定も肯定もしない。つまり、その解釈で合っているということだ。


「正直、武人である私には理解しがたいがな」


それまで沈黙を守っていたダミールが、カップを置いた。

小麦色の肌、その眉間に深い皺が刻まれている。彼女にとって、目の前の紅茶は難解な数式よりも厄介な代物のようだ。


「加勢するならするとはっきり言えばいいものを。その、腹の探り合いのようなやり方は……どうも性分に合わん」


「言葉にしたら、それは『阿吽の呼吸』じゃなくて『派閥争い』になっちゃうのよ。家のスケールってものがあるんだから」


クラウディアは華奢な指先で、テーブルクロスの上に一本の見えない線を引いた。


「ま、ケント家のように……辺境の最前線にいる家柄なら、そんな腹芸は必要ないのかもしれないけれど」


「貴族のこと、私にはよく分かりませんけど……」


シミアは手の中の美しいサンドイッチを見つめた。

分厚いハムに、新鮮な野菜。かつての自分なら、夢に見ることさえ憚られた贅沢品だ。

彼女は自分の生い立ちを思う。一応は最下級とはいえ貴族の端くれだが、この煌びやかな世界とは無縁だった。貧困のどん底にいた時、借金なんて夢のまた夢だった。できることといえば、シャルと一緒に泥臭く働き、少しでもマシな明日を手繰り寄せることだけ。


「ただ、不思議なんです……どうして貴族なのに、生活が苦しいからって借金をして回るんですか? 自分で働いて、稼いで生きようとはしないんですか?」


――ブッ。


シミアの魂の叫びとも言える純粋な疑問に、クラウディアが吹き出した。

彼女は貴族令嬢としての仮面をかなぐり捨て、腹を抱えて笑った。それはまるで、無知な妹をからかう意地悪な姉のような、無防備な笑い顔だった。


「あははっ! シミア、あなたって……本当に可愛くて、いじめたくなるわね」


ひとしきり笑うと、クラウディアはスッと表情を消した。カップを置く陶磁器の音が、やけに冷たく響く。

その瞳には、先ほどまでの笑意はなく、氷のような冷徹さが宿っていた。


「あなたは表面しか見ていないわ。本質は逆よ」


彼女は人差し指を立て、この教室と、窓の外に広がる王都を交互に指差した。


「生活が苦しい? シミア、あなたは領地を持たない唯一の貴族だから分からないでしょうけど……この社交界サークルではね、どんなに落ちぶれた田舎貴族だって、その領地で一番裕福な農民より十倍はいい暮らしをしているのよ」


「じゃあ、どうして借金を?」


「『見せる』ためよ」


クラウディアは新しいクッキーを摘み、弄ぶように指先でくるくると回した。


「贅沢をする理由はシンプル。他の貴族に見せつけるため。『見ろ、私は最高級の絹を纏い、極上の酒を飲んでいるぞ』とね。そして、あちこちで借金をするのは……」


クラウディアの瞳に、理性的で、かつ残酷な光が宿る。


「この世界ではね、『金を借りられること』自体が、信用の証明ステータスになるの。返すこと? ふふっ……」


パキン。

彼女の指先で、クッキーが無惨に砕け散った。


「彼らは借りた金を『自分の実力』だと勘違いしているわ。だから最初から――踏み倒す気満々なのよ?」


「ええっ!?」


シミアは目を見開き、サンドイッチを取り落としそうになった。

あまりの暴論。思考が追いつかない。

あの一通一通の切実な手紙、涙を誘うような窮状の訴え……あれを書いた本人は、最初から騙し取るつもりだったというのか?


「クズみたいな話だけど、反論できないのが辛いとこだな」


ライナスが大げさに肩をすくめた。


「残念ながらシミア、俺たちがいるこの社交界ってのは、九割以上がそんな連中の巣窟なんだよ」


「うちは違うぞ」


シメールが汚らわしいものを見るように顔をしかめ、背筋をさらに伸ばした。まるで、その腐敗した連中と自分を物理的に切り離すかのように。


「父はそういう輩を心底軽蔑している。以前、遠縁の者がディス家の名を語って借金を重ねた時、父は即座に肩代わりして返済し、翌日にはその者と絶縁した」


「ケント家も同じだ」


ダミールが深く頷き、拳を握りしめた。剣の柄を握る時の手つきだ。


「武人たるもの、廉恥を知れと教わってきた。権力を傘に他人から富を奪うなど、臆病者のすることだ。うちは借金などせん。あるもので戦う、それだけだ」


「そう、なんですね……」


四人の話を聞き、シミアは少しだけ安堵した。

すべての貴族が腐っているわけではない。シメールやダミールのように、辺境に近く、武を尊ぶ家系には、まだ独自の美学が残っているようだ。


「羨ましい限りだね」


ライナスは頬杖をつき、気怠げに窓の外を見た。その横顔には、深い疲労が滲んでいる。


「王都っていう腐ったドブ川に浸かってると、まともな世界がどんな色だったか忘れちまいそうだ」


「希少だからこそ、尊いのよ」


クラウディアが締めくくった。彼女はシミアを見据え、言い含めるように語る。


「いい、シミア。覚えておいて。ここにはシメールやダミールのような『清流』もいるけれど、王都の貴族社会の主流メインストリームは、依然としてあの『濁流』なの。贅沢に狂い、マウントを取り合い、騙し合う。……この戦場で、単なる『いい子』でいたら、骨までしゃぶり尽くされるわよ」


シミアは神妙な面持ちで頷き、最後の一口となったサンドイッチを飲み込んだ。


「よし、説教はこれでおしまい」


不意に、クラウディアが悪戯っぽく笑った。

彼女は電光石火の早業で手を伸ばすと、バスケットに残っていた最後のクッキーを掠め取り――。

四人が反応する間もなく、優雅に自分の口へと放り込んだ。

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