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過剰な災厄予演

神話学の教室。

午後の日差しが遠慮なく窓から降り注ぎ、空気は気怠い熱を帯びていた。


だが、教壇に立つコーナの声だけは、どこまでも涼やかで、淡々としている。


「――つまり、神話という視座は、我々自身を解剖するメスなのです。太古の洪水伝説であれ、昨今議論されている『巨獣再臨』の予言であれ、それらはすべて人類の根源的な恐怖と、未来への警鐘を映し出す鏡に過ぎません」


未来への警鐘……か。


シミアは口元を手で覆い、小さく欠伸を噛み殺した。

今の彼女にとって、そんな遠い神話の話よりも、眼前の睡魔との戦いの方がよほど切実な「現実リアル」だった。


サラサラ、サラサラ。

隣から、羽ペンが紙を走る規則正しい音が聞こえる。

シミアは少しだけ首を傾げ、その主――トリンドル・エグモントを盗み見た。


輝くような金髪を揺らすこともなく、トリンドルは背筋をピンと伸ばしていた。

コーナの言葉を一言一句漏らさぬよう、真剣な眼差しでノートを取るその姿。

あまりに殊勝な横顔に、シミアは少しだけ、奇妙な疎外感を覚えた。


* * *


キーン、コーン、カーン、コーン。

ようやく救いの鐘が鳴り響く。


後方の席にいた貴族の学生たちが、解放感に浸りながら教室を出ていく。シミアもノートを閉じ、文房具を鞄に放り込んだ。

立ち上がろうとした、その時。

華奢な手が、シミアの手首をそっと掴んだ。


「シミア。少し、お時間をいただけますか?」


顔を上げると、実りの季節の小麦のような金髪の下から、真剣そのものの瞳がこちらを見つめていた。


「……ええ、いいけど」


その気迫に押され、シミアは反射的に頷いた。


校舎を出て、賑わうホールと中庭を抜ける。

校門には、エグモント家の紋章を掲げた豪華な馬車が、主の帰りを静かに待っていた。


「シミア様。どうぞ」


馬車の前で待機していたレインが、教科書のように完璧な角度で恭しく一礼し、手慣れた動作で扉を開ける。


「あ、うん……ありがとう」


シミアは少し身を縮こまらせて答えた。

急に大人びてしまったトリンドルも、礼儀正しすぎるレインも、どこか遠い存在に思える。

かつての「同級生」という気安さが消え、何か複雑な利害関係で結ばれた「盟友」になってしまったような、そんな寂しさ。


二人が乗り込むと、馬車はふわりと揺れ、滑るように走り出した。

窓外の景色が後ろへと流れていく。向かいに座ったトリンドルは、周囲の安全を確認してから、ゆっくりと口を開いた。


「シミア。こんな形でお時間を取らせてしまって、申し訳ありません。最近、王宮の用事でお忙しいのは重々承知しているのですが……」


目の前で恐縮する少女を見て、シミアはふと気づく。

そういえば、トリンドルがわがままを言って自分に甘えてくることが、ここ最近ぱったりとなくなっていた。

あの日、屋敷でシメールと剣を交えて以来、彼女は一夜にして大人になってしまったようだ。こうして二人きりで静かに向き合うなんて、随分久しぶりな気がする。


「ううん……こちらこそごめんね。最近、全然構ってあげられなくて」

「ですので……その」


トリンドルはシミアの隣の空席に視線をやり、上目遣いで、どこかおずおずと尋ねた。


「ほんの少しの間だけ、お隣に座ってもよろしいですか?」


その、必死に大人ぶろうとしつつも、隠しきれない甘えたいオーラ。

シミアの胸の奥がキュンと柔らかく疼く。彼女は微笑んで頷いた。


許可を得たトリンドルは、嬉しそうに、けれど慎ましやかにシミアの隣に腰を下ろした。

シミアは自然と手を伸ばし、彼女のサラサラとした金髪を撫でる。張り詰めていた神経が、ふっと緩んでいくのを感じた。


指先から伝わる感触。

そういえば、トリンドルの髪、以前より少し伸びた気がする。それに、昔みたいに無造作に下ろすのではなく、今は少し大人っぽく整えられている。

今の彼女は、こうして子供扱いされるのを嫌がるだろうか?


そんなとりとめもないことを考えていると、トリンドルが顔を上げ、視線が絡み合った。


「シミア。わたくし、あなたが襲撃された原因を突き止めたいのです」


声量は控えめだが、その意志は鋼のように強固だった。


「あの日、一体何があったのか……どうしても知りたいのです」


シミアの手が、空中でピタリと止まる。


脳裏に蘇る、あの不可解な一日。

何かに導かれるようにアレクシスを追跡したこと。噛み合わない会話。突然の豪雨。そして、走馬灯のように駆け巡った記憶の濁流。

確かに何もかもがおかしかった。だが、核心が何なのか、未だに掴めずにいる。


「あの日……」シミアは記憶の糸を手繰り寄せる。「私は、アレクシスが銀潮連邦の女子生徒と密会しているのを見かけたの。奇妙だったのは、彼がいつものスーツじゃなくて、領主学院の制服を着ていたこと」

「彼らの後をつけて校舎裏まで行ったら、何か『計画』について話しているのが聞こえて……そうしたら急に雨が降り出して、そこからの記憶が曖昧なの」


そこまで話すと、御者台からレインの落ち着いた声が響いてきた。


「シミア様、僭越ながら質問を。なぜあの日、アレクシス氏を追跡しようと思われたのですか?」


「違和感、かな」シミアは小首を傾げる。「商売の話ばかりしている彼が、わざわざ制服を着てコソコソしているのが変だなって。ただの好奇心だったと思う」


「もしかして、アレクシスがシミアを――!?」


トリンドルが青ざめ、口元を押さえる。


「違うわ」シミアは即座に否定した。「彼らに気づかれた様子はなかったし、二人は別の方向へ去っていったから」


「トリンドルお嬢様。シミア様のそのご記憶は、信憑性が高いと思われます」


レインが冷静に分析を引き継ぐ。


「『計画』と『制服』。おそらく彼らは、学院内の貴族から借金を取り立てる算段でもしていたのでしょう。制服を着用したのは、商売人だと悟られないための変装かと」


一呼吸置き、レインは続ける。


「それに、もし彼がシミア様に気づいていたなら、商人としての論理ロジックで動くはずです。堂々と挨拶をし、親しげに振る舞うことで怪しまれないようにするでしょう。王室と深い関わりを持つシミア様を襲撃などすれば、彼が苦心して築き上げた商売がすべて水泡に帰しますから」


「確かに、そうかもね……」シミアは納得して頷く。「以前、女子寮の前で彼が借金の話をしているのを見かけたこともあるし」


アレクシスが白だとすれば、糸口はまた途切れてしまったことになる。


「シミアの記憶だけでは、犯人にたどり着くのは難しそうですね」


トリンドルはシミアの手をギュッと握りしめた。


「シミア。この件、わたくしたちにお任せいただけませんか? エグモント家の総力を挙げて、あなたを襲った真犯人を必ず見つけ出してみせます」


「それは構わないけど……」


シミアはトリンドルのひたむきな瞳を見つめる。

その瞬間、悪魔のような連想が脳裏をよぎった。


夢の終わり。荒野でリリアが告げた言葉。

――『君をあの世界に留めようとした人間は、実はすぐ近くにいる』。


「シミア?」


黙り込んだシミアを、トリンドルが不思議そうに覗き込む。


すぐ近く?

それって……私と親しい誰か、ということ?

私をあの世界に引き留める……つまり、この「戦わなくていい世界」に留まらせたいと願う人間?


目の前にいるトリンドルこそ、私が戦場に行くのを一番嫌がり、ずっとここにいて欲しいと願っている人間ではないのか?


(――ッ!?)


心臓が嫌な音を立てた。

トリンドルの純粋な心配顔が、一瞬だけ別の意味を持って迫ってくる。

シミアは慌てて、心に湧き上がったおぞましい疑念を振り払おうとした。


「ねえ、トリンドル……一つだけ仮説があるんだけど……聞いてもらえる?」


声が乾く。喉が張り付く。


「ええ、もちろんですわ」


言葉は喉元まで出かかっていた。

けれど、言えなかった。


(待って。本気? 身近な人を疑うの? また、シメールの時みたいに?)

(トリンドルを? 今、世界で一番私のことを想ってくれている彼女を? あるいは、彼女を使って、私の周りの誰かを調査させる気?)

(正気じゃない。どうかしてる!)


理性の警鐘がガンガンと頭の中で鳴り響く。

それは間違いだ。それは仲間への冒涜だ。

あんな夢の言葉に踊らされて、友人を疑うなんて……悪いのは、私のこの疑い深い心だ。


「……ううん、やっぱり何でもない」


シミアは深く息を吸い込み、疑念を無理やり胃の腑へ飲み下した。

顔に、強張った笑みを張り付ける。


「よく考えたら、馬鹿げた仮説だったから。……あの日のことは、あなたにお願いするわ。ありがとう、トリンドル」

「ええ、任せてシミア」


トリンドルはシミアの葛藤になど気づく由もない。

彼女はさらに力を込めてシミアの手を握り、決意に満ちた瞳で言った。


「二度と、あなたに怖い思いはさせません。約束します」


ゴトン、ゴトン。

馬車は石畳の上を進み続ける。

車輪の音が、車内に一瞬だけ落ちた沈黙の闇を、静かに塗り潰していった。

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