女王代理の初陣
窓の外。正午の強烈な陽光の下で、一面のサマンの花畑が揺れている。
シミアの脳裏に、いつかの夜が蘇る。
ミリエルと二人、この花畑で戯れた記憶。あの時、月光に濡れたサマンの花は幽玄な蒼を帯び、夢のように優しかった。
けれど今。
容赦ない日差しに晒された花びらは、白く干からびて見える。まるで、「現実」という名の皮を剥き出しにされたかのように。
「実務に入る前に、あなたの『役割』を定義しておきましょう」
コーナの冷ややかな声が、シミアを花畑の幻影から引き戻した。
「役割……ですか?」
コーナは頷き、組んだ両手を顎に当てる。その瞳は、射貫くように鋭い。
「そう。女王代理として……あるいは『シミア』という個人の前に、あなたはまず一つの『記号』でなければなりません。王家の意志を体現する、無機質な記号。そのことさえ忘れなければ、この仕事はとてもシンプルよ」
記号、か。
シミアはミリエルの笑顔を思い浮かべる。
普段の彼女もまた、そんな重たい仮面を被り、「女王」という記号を演じていたのだろうか?
ミリエルから「女王」というタグを剥がそうとしてみる。だが、どうしても綺麗には剥がれない。
そもそも、「女王」とは一体どうあるべき存在なのか。
シミアの迷いを見透かしたように、コーナは淡々と付け加えた。
「大丈夫。難しく考えないで」
シミアは雑念を払い、背筋を伸ばして次の言葉を待つ。
「一言で言えば、王族の唯一にして絶対の義務は――ローレンス王国を『存続』させること。それだけです」
「……存続」
その言葉は弾丸のように、シミアの記憶の急所を撃ち抜いた。
王都に来る前の日々。
シミアとシャルは、「生きる」というたった二文字のために、心身を削り続けていた。
村で力仕事をこなし、夜なべして工芸品を作り、市場で声を枯らして売りさばく。銅貨一枚を浮かすために、スープの具材を工夫する。
あれは、生き残るための戦いだった。
「そう、存続です。あなたから見れば、王国は巨大で富み、ミリエル様は優雅に見えるかもしれない。けれど実際、一つの国家を『存続』させることの険しさは、一家族の食い扶持を稼ぐことより遥かに残酷なのよ」
コーナはそう言いながら、目の前に積まれた書類の塔から、数枚だけの薄いファイルを引き抜いた。
それを、シミアの前に滑らせる。
「これを最初の仕事だと思って、処理してみて。基礎的な『入門テスト(イニシエーション)』よ」
シミアは、装丁の美しいそのファイルを手にした。
表紙には、剣と盾が交差する勇ましい家紋が描かれている。
ページをめくる。
冒頭には、女王への仰々しい敬語と時候の挨拶。
それに続くのは、この家門がローレンス王国の建国以来、王室にいかに貢献してきたかという輝かしい歴史だ。辺境での武功から、宮廷晩餐会の開催に至るまで、事細かに記されている。
だが、最後のページで、文体は一変した。
そこにあったのは、極めて謙虚な言葉で綴られた窮状の訴え。
『領地が旱魃に見舞われ、資金繰りがショートしている。つきましては、王室より金貨三百枚のご融資を賜りたく――』
文章はそこで途切れ、鮮紅色の印章が押されている。
シミアは資料を置き、指先でコツコツと机を叩いた。
「これは……借金の申込書ですか?」
「正確に言えば、過去の『功績』を担保にした融資依頼ね」コーナが補足する。「あなたなら、どうする?」
シミアは反射的に問い返す。
「コーナ先生。王室には今、それだけの流動資金はあるんですか?」
コーナの口角が僅かに上がり、微かな賞賛の色が浮かぶ。
「いい着眼点ね。はっきり言ってあげる。金貨三百枚は大金だけど、王室の金庫には余裕があるわ。出そうと思えば出せる。……さて、貸す? 貸さない?」
「余力があって、相手がこれほどの功臣の家系なら、貸しても……」
シミアの脳裏に、あの日、ミリエルの前で王室の浪費を嘆いていたコルヴィノ財務官の姿がよぎる。言葉が詰まる。
「……それとも、王室の台所事情は、見かけほど余裕がないとか?」
「シミア、あなたの商業的な勘は鋭いわ。けれど、この問題において『金があるかないか』は判断基準じゃない」
コーナは彼女を遮り、身を乗り出した。無言の圧力がシミアを包む。
「シミア。今、この王国には――あなたを含めて――何人の領主がいるか知ってる?」
シミアは脳内データベースを検索するが、ヒットしない。知識の空白地帯だ。
「全部で七十九名よ」コーナが答えを提示する。「では、仮定しましょう。王室が今日、この領主に三百枚を貸したとする。翌日、別の領主が同じような『功績のリスト』を持ってきて、五百枚を貸してくれと言ってきたら? あなたは貸す? 貸さない?」
シミアの瞳孔が、キュッと収縮した。
これ以上の説明は不要だった。
シミアの脳内で、あやふやだった政治の図面が、一瞬にして慣れ親しんだ「戦術盤」へと置換される。
王室の資金は、中央軍団の『主力部隊』だ。
そして七十九名の領主たちは、広大な防衛線に点在する『友軍の拠点』。
目の前のこの嘆願書は、ある側面の拠点から発せられた救援信号(SOS)に過ぎない。
『三百の援軍を求む。さすれば、この局地戦には勝利できる』と。
三百金貨を支援すれば、確かにこの家は救われる。一つの拠点の生存率は上がるだろう。
だが、それはあくまで局地的な勝利だ。
「二番目の人に貸さなければ『不公平』が生じ、軍全体の士気が下がる。かといって貸せば、三人目、四人目が現れる……」
シミアはブツブツと独り言を漏らしながら、盤上の駒を動かすシミュレーションを行う。
一度前例を作れば、防衛線の「公平性」を保つために、主力軍団を切り崩して各拠点の穴埋めに使わざるを得なくなる。 三百、五百、一千…… 本来、決戦のために温存すべき強大な主力(王室財政)が、もっともらしい正論によって少しずつ解体され、食い荒らされていく。
そして、真の決戦――王国の「存続」を賭けた大戦役が訪れた時、王の手駒はゼロになっているだろう。
「……戦役全体の勝利のためには、決戦前に主力を分散させてはならない」
シミアの呟きを聞き逃さず、コーナは目を見開いた。驚きはすぐに、深い納得へと変わる。
彼女はファイルを開き、そこに羅列された功績のリストを指差した。
「その通り。今日、彼らはこの功績を盾に金を無心する。明日、あなたがそれを拒絶すれば、今度はこの功績が『恨み』に変わり、反乱の動機になるでしょう……これが政治よ。ここには温情もロマンもない。あるのは冷徹なバランスだけ」
窓から差し込む陽光が、豪奢なファイルを白々しく照らし出す。
シミアは鮮やかな赤の印章を見つめながら、そこに硝煙のない残酷な戦場を見ていた。
彼女は深く息を吐く。
少女特有の迷いは瞳から消え失せ、代わりに宿ったのは――冷徹な「軍神」の決断だった。
「もう一度聞くわ、シミア。金貨三百枚、貸すべき?」
今度は、一秒の迷いもなかった。
「いいえ」
少女の凛とした声が、部屋に響き渡った。
「却下です」




