目覚めて、最初の出来事
「コーナ先生?」
薄暗く、ジメジメとした空気。そして鼻をつく、古いカビの臭い。
この地下道には覚えがある。
学院の図書館と王家図書館を繋ぐ、秘密の通路。かつてコーナに連れられ、何度もここを通って王宮へ忍び込んだものだ。
もっとも、最近はミリエルの馬車で正門から堂々と入っていたけれど。
だが今回、その雰囲気は以前とはまるで違っていた。
前方を揺れるランタンの頼りない灯りが、コーナの影を壁に映し出し、異様な形に歪ませている。
先導するコーナは一度も足を止めない。その背中は、いつになく重苦しい空気を纏っていた。
シミアの呼びかけに、彼女はわずかに首だけを巡らせる。ランタンの光が、シミアの血の気のない蒼白な顔を照らし出した。
「残念だけど、シミア。……残酷なのは分かってるわ」
コーナの声は低く、硬い。
「あなたには、『生き返った』喜びを噛み締める時間も、友人たちと抱き合って泣く時間も残されていないの」
シミアの脳裏に、つい先ほどの光景がフラッシュバックする。
部屋に飛び込んできたシメールの狂喜乱舞。涙を浮かべたシャルとトリンドル。
ほんの十分前、みんなの歓声の中で目を覚ましたばかりだったのに。
夢の中で見た“前世”の荒野、リリアという少女の記憶……それらを整理する暇さえなかった。
再会の余韻に浸る間もなく、コーナが近衛兵を引き連れて踏み込んできたのだ。それはもう、誘拐同然の強引さでベッドから引きずり出され、この秘密通路へと押し込まれた。
「なぜ、こんな道を? 正門は封鎖されているのですか?」
シミアは鋭く問いかけた。ただごとではない。
「人目を避けるためよ。今の王宮は……いえ、学院でさえも、もはや安全地帯ではないから」
コーナの声には僅かな申し訳なさが滲んでいたが、それ以上に有無を言わせぬ決意が込められていた。
「彼女たちを守りたいなら、黙ってついてきなさい」
思考する隙を与えず、コーナは再び歩き出す。
* * *
進むにつれ、空気は乾燥し、あの特有の古紙の香りが漂い始めた。
やがて、暗闇の先に微かな光が見える。
地下道の突き当たり。本棚に偽装された隠し扉を押し開けると、眩い光がシミアの視界を焼いた。
とっさに手をかざして目を守る。
コーナに促され、巨大な書架の影に身を隠しながら、シミアは徐々に光に目を慣らしていった。
そこは、懐かしき王家図書館だった。
巨大なガラスのドーム天井から降り注ぐ、柔らかな陽光。光の柱の中を、無数の塵がキラキラと舞っている。
神聖で、静謐な空間。
だが、その空気は以前とは決定的に異なっていた。
視線の先。いつもミリエルが座っていた、あの専用のデスク。
今、その美しいマホガニーの長机は、山のように積み上げられた書類、報告書、地図によって埋没していた。
傍らには飲みかけの、すっかり冷え切った紅茶。主が慌ただしく席を立った痕跡が、生々しく残っている。
見慣れた光景なのに、肌が粟立つような圧迫感。
そして何より、決定的な違和感は――。
「……ミリエルは?」
シミアは周囲を見渡す。
いつもなら、優雅な微笑みを浮かべてそこで待っているはずの、銀髪の少女の姿がない。
その問いを予期していたかのように、コーナは即座に、冷静を装いながらも微かに震える声で答えた。
「ミリエル様は……すでに南方戦線へ向かわれました」
コーナは深く息を吸い込み、踵を返すと、目覚めたばかりの少女を射るように見据えた。
「女王陛下の勅命を伝えます。――たった今から、シミア・ブルン。あなたが次期王位継承者としての権限を代行し、王国の全緊急事務を決済しなさい」
「南方……? 継承者……私が?」
思考が追いつかない。
ライナスやクラウディア先輩が話していた、南方の不穏な動き。それが現実になったのか? だが、コーナの言葉が繋がらない。目眩がする。
「どうして……こんなに突然?」
「戦争が始まったからよ」
コーナの声は、氷のように冷たく響いた。
「ミグ・ヴラドが南方全領主に対し、決起を宣言しました。――彼の大義名分はこうです。『魔女シミアが妖術で女王をたぶらかし、王国を衰退させている』。女王に対し、即刻あなたの身柄引き渡しと、自身への摂政権の譲渡を要求しています」
「なっ……」
シミアは絶句し、目を見開いた。
魔女? 私が?
去年の冬まではただの村娘だった私が?
辺境で泥水をすすり、生き延びるのに必死だった私が?
ただこの学院で、静かに暮らしたかっただけの私が?
国家内戦の引き金だというのか?
「私が……国を傾けた、魔女……?」
乾いた笑いが漏れそうになる。あまりにも荒唐無稽で、馬鹿げている。
「ただの口実よ。けれど、反乱を企てる貴族たちにとっては、それで十分だった」
コーナが一歩踏み出し、シミアの華奢な両肩をガシリと掴んだ。強引に視線を合わせる。
「だから、ミリエル様は反撃に出た。自ら軍を率いて、南方の反乱軍を正面から叩き潰すために。……そして、あなたをここに残した」
「事実上、この瞬間から、あなたがミリエル様の代わりにこの国の女王とならなければならない。彼女が帰還するまで」
脳裏に、いつかの記憶が蘇る。
辺境へ行く前、ミリエルは確かに言った。『あなたはローレンス王国の継承者になる』と。
あの時は悪い冗談だと思った。遥か遠い未来の話だと。
だが今、コーナの口から語られるその言葉は、鉛のように重く、現実味を帯びてシミアにのしかかる。
(私が代理の座に就くこと……それはある意味、ミグの言い分を認めることになるんじゃないのか? 私が本当に、女王を操る魔女だと……)
コーナは無表情のまま、シミアに迷う時間を与えなかった。
「もちろん、原則としてあなたは寮に戻って生活してもらうわ。パニックを避けるため、表面上の平穏は維持しなければならない」
「でもね、シミア。女王の仕事はあなたにしか……いいえ、あなたでなければ務まらないの」
コーナの瞳が、悲痛に揺れる。
「過去に何を思い、何を願っていたとしても……あなたの存在はもう、王国の命運を左右するほど大きくなってしまった。あなたは今、この国の『心臓』なのよ」
顔面蒼白で立ち尽くす少女。
突然背負わされた運命の重さに、押しつぶされそうになっている小さな肩。
コーナは小さく溜息をつくと、シミアの冷え切った手を引いた。
「ちょ、待って……コーナ先生……!」
「慣れる時間なんてないわ。来なさい」
尻込みするシミアを許さず、コーナは彼女を書架の影から引きずり出す。
そして歩き出す。
書類と書物の山へ。
至高の権力と、無限の責任が待ち受ける場所へ。
「これが、ミリエル様があなたに残した『戦場』よ」




