とろけるクッキーと、許しの時間
シメールとシャルの部屋。
そこは、甘く優しい香りで満たされていた。
窓の外では暴風雨が世界を叩き、人々が不安に震えているというのに、ここだけはまるで奇跡に守られた聖域のようだ。
「よし、次はこれと……」
シャルはエプロン姿で、甲斐甲斐しく狭いキッチンを動き回っている。
焼きたてのパンをバスケットへ移し、布をかける。オーブンの中のクッキーの焼き加減をチェック。コトコトと煮込んだ野菜スープを器へ。
その手際はリズミカルで、まるで混ぜるたびに“祈り”という名の魔法を注ぎ込んでいるようだった。
その時。
トン、トン。
遠慮がちな、小さなノックの音が、平穏な空気を震わせた。
「はーい!」
シャルは慌ててミトンを外し、エプロンで手を拭いながらドアへと向かう。
ガチャリと扉を開けると、そこには――。
幽霊のように顔面蒼白で、全身から冷気を漂わせるリアンドラが立っていた。
「シャル……私……」
「リアンドラ様!? まぁ、こんな土砂降りの中……どうぞ、中へ!」
シャルは驚きに目を丸くしたが、すぐに身体をずらし、温かく彼女を招き入れた。
シャルの背中を追い、リアンドラはぎこちない足取りで部屋に入る。
シミアが眠りにつき、シメールが訓練に明け暮れている今でも、シャルはこの部屋を塵一つなく磨き上げていた。
鼻腔をくすぐるのは、焼きたてのバタークッキーの香り。
かつてはリアンドラが何より愛した匂い。だが今日、その甘い香りは無数の針となって、彼女の胸をチクチクと刺した。
暖かい。
泣きたくなるほど、暖かい。
リアンドラをリビングのふかふかなソファに座らせると、シャルは再びキッチンへ戻った。
ミトンをはめ、オーブンから黄金色に焼けたクッキーを取り出す。トングで形の良いものだけを選び、上品な磁器の皿へ。仕上げに、特製の甘酸っぱいベリーソースを真ん中にとろりと垂らす。
あっという間に、熱々の紅茶とクッキーがリビングへ運ばれてきた。
「リアンドラ様。急ごしらえで申し訳ありませんが、お口に合えば嬉しいです」
リアンドラは俯いたまま、湯気を立てるクッキーと、透き通るような琥珀色の紅茶を見つめた。
立ち上る湯気が目に染みる。
彼女は唇を強く噛み締めた。口の中に、鉄の味が広がるまで。
「うん……」
シャルの優しさ。クッキーの甘い香り。部屋の暖かさ。
そのすべてが劇薬のように、リアンドラの張り詰めた神経を逆撫でする。
冷え切った自室で固めたはずの決意――裏切り者として徹するか、すべてを告白して裁かれるか――が、この純粋な善意の前で、浅ましくも揺らいでいく。
(……私には、資格がない)
(ここに座る資格も、これを食べる資格も……あなたの優しさに触れる資格なんて、ありはしないのに)
「今日は、シミア様に会いにいらしたのですか? ……あの方もきっと、リアンドラ様がいらしたら喜びますよ」
シャルはそう言いながら、紅茶に角砂糖を一つ落とした。
「シミアが……」
リアンドラは顔を上げ、一点の曇りもないシャルの微笑みを見た。声が震える。
「……本当に、私なんかに会いたいと、思うかな」
「もちろんですとも」
シャルは迷いなく、断言した。
「シミア様とリアンドラ様は、実はよく似ていますから。あの方がいつもリアンドラ様を気にかけていたのは、きっとそのせいですよ」
それはまるで、この世の真理を述べるような口調だった。
「私たちが……どこが、似てるの?」
本来なら、ここで本題に入るべきだった。自分がどうやってシミアを陥れたか、あの許されざる陰謀を語るべきだった。
けれど、シャルの瞳を見ていると、溺れる者が藁をも掴むように、その言葉にすがりついてしまった。
この居心地の良い温もりを、あと一秒だけでも長く味わっていたいと願う、卑怯な自分がいた。
シャルは秘密を共有するように少し声を潜め、優しく微笑んだ。
「お二人とも、隠し事が下手なくせに、全部ひとりで背負い込んで、無茶をするところですよ」
ドキン、とリアンドラの心臓が跳ねた。
「シミア様ったら……」
シャルはリアンドラの動揺には気づかず、その視線を肩越しにある窓の外――漆黒の雨幕へと向けた。その暗闇の向こうに、懐かしい過去を幻視するように。
「ある日の真夜中、私の部屋にこっそり忍び込んできて、重大発表があるって言うんです。それで私たち、泥棒みたいに足音を忍ばせて、ブルン家の屋敷を抜け出しました」
リアンドラは皿の上のクッキーに視線を落とす。
今、自分が手放したくないのは、たかが数枚のクッキーなのだろうか?
そう考えた瞬間、猛烈な自己嫌悪が襲ってきた。
「二人で夜の森に入ったんです。本当に真っ暗で、木の影がお化けみたいで……私、怖くて泣きそうでした」
シャルの声には、愛おしさが滲んでいた。
「でも、シミア様はあることを成し遂げるために、それこそ執念深く私を引っ張っていって……随分迷って、ようやく村の裏山にある丘に辿り着きました」
「そこで彼女、野花で編んだ不格好な花冠を取り出して、私の頭に乗せたんです」
「その時、ようやく教えてくれました。私にも『誕生日』をあげたかったんだって。私は拾われた子だから、誕生日を知らなかったので。これで、これからは一緒にお祝いできるね、って」
「その日はちょうど、私がブルン家に来てから一年が経った日でした」
シャルは振り返り、優しい光を宿した瞳でリアンドラを見た。
ふと、一つの疑問がリアンドラの口をついて出た。
「シャルとシミアは……昔から、そんなに仲が良かったの?」
「いいえ」
即答だった。
そのあまりにあっけらかんとした答えに、リアンドラは息を呑む。
「屋敷に来たばかりの頃、シミア様は旦那様や奥様にとても可愛がられていましたから。……私の方が物分かりもいいし、働いていたのに。あの頃の私は、シミア様がズルいって嫉妬して、勝手に恨んで、ひどい意地悪をしたこともありました」
「……シミアのせいじゃ、ないのに?」
シャルは頷き、冷めかけたクッキーを一つ摘んだ。ベリーソースを少しつけて、口に運ぶ。
「ええ。あの頃の私は、自分が幸せになる資格がないと思っていたんです。家族なんて持っちゃいけないって。私は卑屈で、愚かで……だから、シミア様に受け入れられた後も、ずっと『シミア様』と呼んで、一線を引いていました」
「もっと親しく呼んでほしいって、いつも寂しそうな顔をされていたんですけどね」
サクサクと、クッキーを食べる音が響く。飲み込んでから、シャルは微笑んだ。
「だから、リアンドラ様も心配しないでください。シミア様は特別です。あの方は誰よりも、『どうにもならない痛み』を知っていますから」
「ちゃんと話して、心を見せれば、きっと許してくれます」
リアンドラはポカンと口を開けた。
シャルは事情など何も知らないはずだ。なのに、その鋭い直感は、リアンドラが抱える一番の恐怖を正確に射抜いていた。
「……本当に?」
たとえそれが気休めでも、リアンドラはその言葉が欲しかった。
自分の能力で傷つけた人たち、裏切った仲間たちからの許しを、渇望していた。
……もう二度と、シミアから許される機会がないと分かっていても。
「もちろんです。それに……」シャルは悪戯っぽく片目を瞑った。「前にお見舞いに来てくださった時から、リアンドラ様はずっと『言いたいけど言えない』顔をしていましたよ。きっとトリンドル様も、とっくに気づいていると思います」
「トリンドルも……?」
シャルは深く頷いた。
そうか。自分の演技なんて、最初から穴だらけだったんだ。
みんなの優しさは、無知ゆえのものではなく、すべてを察した上での包容だったのだ。
胸のつかえが、苦しみが、シャルの言葉という春の陽射しを浴びて、音を立てて崩れていく。
「シャル……」
目の前の黒髪の少女を見つめ、リアンドラは深く息を吸い込んだ。
追い出されてもいい。唾を吐きかけられてもいい。言わなければ。
「実は、私……取り返しのつかないことをしたの。シミアは……」
言葉が喉から飛び出そうとした、その瞬間だった。
――バンッ!!
突如、寮の頑丈なドアが乱暴に開け放たれた。
湿った暴風と、強烈な汗の臭いが、暖かいリビングへとなだれ込む。
軽装鎧に身を包み、腰に訓練用の剣を帯びたシメールが、肩で息をしながら仁王立ちしていた。雨に濡れた髪が頬に張り付き、胸が激しく上下している。
「シメール様!? 一体なにが……」
シャルが驚いて立ち上がる。
シメールは顔の雨水を拭いもせず、室内の二人を見据えた。
その顔には、獰猛なまでに歓喜に満ちた、満面の笑みが張り付いている。
「シャル! リアンドラもいるのか! でかした!!」
興奮で裏返った声が、部屋中に轟いた。
「目が覚めたんだよ!! シミアがッ!!!」
「えっ……!?」シャルの手から、ティーカップが滑り落ちそうになる。
「目が、覚めた……!?」
リアンドラは弾かれたように立ち上がり、その顔からは一瞬で血の気が引いた。
「行くぞ! 今すぐに!!」
シメールは有無を言わさず、呆然とする二人の腕を鷲掴みにすると、そのまま雨のカーテンの向こうへと駆け出した。




