雨中の盗聴者
シトシトと、冷たい雨がロスアンの空に響いている。
氷のような雨粒は王都の石畳を容赦なく叩き、世界そのものを灰色のカーテンで覆い尽くしていた。
その分厚い雨の幕の中で、リアンドラは静かに瞼を閉じる。
意識を肉体から切り離し、外へと広げていく。それはまるで、嵐の中を逆走する一羽の孤独な鳥のようだった。
だが、それは決して容易なことではない。
覗き見たい場所にたどり着くには、まずこの“不純物”だらけの雨幕を突破しなければならないのだから。
空から降り注ぐ無数の雨粒。
それはただの水ではない。この世界に残留した、誰かの強烈な感情の破片だ。
「パパ、この仕事が終わったら……誕生日のケーキ、一番大きいのを買って帰るからな……」
「やったぁ! いちごのがいい! 一番高いやつ!」
――ポチャン。
巨大な雨粒が、リアンドラの意識に激突する。
父と娘の、未来への希望に満ちた会話。だが、雨粒が弾け飛んだ瞬間、リアンドラの胸に冷たい絶望が流れ込んでくる。
……あの少女が、ケーキを食べる日は永遠に来ない。
これが、代償だ。
リアンドラは眉をきつく寄せた。
脳内にこびりつく犠牲者たちの記憶。それらを振り払わなければ、その先にある景色を見ることはできない。
「このプロジェクトさえ成功すれば、うちは再興できる……病気だって治せるんだ」
「だから、お願い……持ちこたえてくれ……頼む、頼むから……」
――ポチャン。
また一滴、重たい雨粒が脳髄で炸裂する。
声は次第に詰まり、やがて言葉にならない嗚咽へと変わる。妻の病床で跪く夫の、絶望的な祈り。
ノイズ。悲鳴。祈祷。
無数の雨粒が無数の叫びとなって、分厚い壁のように立ちはだかる。リアンドラの意識を、この場に縫い止めようとするかのように。
(……失せろ!)
リアンドラは心の中で低く唸った。
奥歯を噛み締め、声の内容を理解することを拒絶する。意識を鋭利なナイフへと変質させろ。
落下してくる雨粒に対し、正面から特攻をかける。
粉砕しろ。
無視しろ。
記憶の豪雨の中、彼女は血路を切り開く。他人の悲劇も歓喜もすべて背後へ置き去りにして。
ようやく、あの窒息しそうな騒音が遠のき、視界が開け始めた。
だが――。
雨幕を突破し、標的へ意識を向けようとした、その瞬間だった。
不意に飛び込んできた“声”が、鋭い錐のように、築き上げたばかりの防壁を貫いた。
その声は涙に濡れていて――けれど、ひどく聞き覚えのあるものだった。
脳裏に、映像が強制的にフラッシュバックする。
決して広くはないが、温かく整えられた寮の一室。
ベッドの傍らには、亜麻色の髪を長く伸ばした少女が座り込み、昏睡し続ける友の手を握りしめていた。
「シミア、ごめんね……私、いつも嫉妬してた。あなたを独り占めしたかった。でも……実はね、あなたが目覚めてくれるなら、そんなことどうでもいいの。本当に……」
トリンドル・エグモント。
シミアが倒れて以来、あの高慢ちきな令嬢がまるで魂を抜かれたように、来る日も来る日も看病を続けている。
「あなたが目覚めてくれるなら……たとえ、他の誰かに奪われたとしても、あなたが幸せなら……」
(黙って! そこじゃない! 違う! ママが知りたいのはそんなことじゃない!!)
リアンドラは意識の中で絶叫した。必死に腕を振り回し、目の前の胸が張り裂けそうな光景を叩き割る。
映像が砕け散る瞬間、信じがたい激痛が電流のように神経を駆け巡った。
それは能力の反動ではない。“罪悪感”という名の猛毒だ。
彼女は強引に“視点”をねじ曲げ、王宮へと意識を飛ばす。
混乱する豪雨の中で座標を定めるのは至難の業だ。だが、やらなければならない。
「コーナ、シミアの件だけど……」
キーワードを捕捉した瞬間、彼女はなりふり構わず声の発生源へとダイブした。
分厚い雨の壁を抜け、王家図書館の威容が浮かび上がる。
高くそびえ立つ本棚の列をすり抜け、古書の香りが漂ういつもの一角へ。そこには、コーナとミリエルが向かい合って座っていた。
テーブルにはティーセット。だが、紅茶はすっかり冷めきっている。
二人の表情に、いつもの優雅なお茶会の面影はない。空気は、絞れば水が滴り落ちそうなほど重く張り詰めていた。
ミリエルはコーナを見つめ、膝の上に置いた両手でドレスの裾を握りしめている。指の関節が白くなるほどに。
「……よかった。バイタルは安定しているのね」
ミリエルは深く息を吸い込み、何かを決断したかのように顔を上げた。
「南方の情勢は一刻の猶予もありません。わたくし、今夜にも発つ準備をします」
「ミリエル様、本当にもう少し待てないのですか? シミアが目覚めるまで……」
コーナの声には、懇願の色が滲んでいた。
シミア。
普段なら聞き慣れた名前。だが今夜、リアンドラの意識の中で、その名は呪いのようにどこまでも反響する。
「待てません、コーナ。ヴラドの足場が固まらないうちに打って出なければ、南方を失うだけでなく、王国の半分を失うことになるでしょう。そうなれば……シミアが命懸けで守ろうとした戦略も、この国の希望も、すべて水泡に帰します」
ミリエルは立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。その視線は、窓の外の暴雨に向けられていた。背筋は凛と伸びているが、どこか儚さを感じさせる。
「承知いたしました」コーナは小さく溜息をついた。「もしシミアが目覚めたら、なんと伝えましょうか」
ミリエルは一瞬の沈黙のあと、横顔に、泣き顔よりも辛そうな、けれど気高い微笑みを浮かべた。
「伝えてちょうだい。『次期王位継承者として、待つことの辛さを学ぶいい機会よ。今回は……あなたが私の凱旋を待つ番ね』と」
気丈な言葉とは裏腹に、ミリエルの瞳の奥に宿る陰りは、空を覆う黒雲よりもずっと濃かった。
(……もういい)
脳が千本の焼けた針で刺されたように痛む。情報は取れた。
帰ろう。
リアンドラは自分に言い聞かせた。
* * *
「はっ……はぁっ……!」
ガバッと目を開けると、現実世界の薄暗い天井が視界に飛び込んできた。
リアンドラは荒い呼吸を繰り返し、パジャマはまるで水に浸かったかのように冷や汗でぐっしょりと濡れている。
「リアンドラ?」
耳元で声がした。
首を巡らせると、ベッドの脇に座るママが、心配そうな目でこちらを覗き込んでいた。
「ママ……」
リアンドラは痙攣する顔の筋肉を必死に動かし、弱々しい笑みを浮かべた。さっき味わった地獄のような苦しみを、ママに悟られないように。
ヴァナが手を伸ばし、リアンドラの氷のように冷たい手を包み込む。
少しガサガサとした、荒れた手触り。
リアンドラはその体温を感じ取り、そこから無理やり安心感を汲み取ろうとした。
大丈夫。あの声に苛まれても、友達を裏切ったとしても、それは仕方のないこと。
すべては……自分と、ママの幸せのためなんだから。
「リアンドラ、王宮の動きはどうだった?」
ヴァナは「痛くないか」とは聞かなかった。「疲れていないか」とも聞かなかった。
彼女の第一声は、核心のみを突いていた。
リアンドラの心臓が小さく引きつる。だが、彼女はすぐにそれを仮面の下に隠した。
「うん……女王様は、今夜にも南方へ向けて出発するみたい。あとは全部、コーナ先生に託すって」
「そうか……夜通しの行軍か」
ヴァナはリアンドラの手を離し、満足そうに彼女の頭を撫でた。
「よくやったね、リアンドラ。これなら、次の計画に移れるよ」
その“温かい”手は、すぐに離れていった。
余計な愛情表現はない。情報を得たヴァナはすぐに立ち上がり、部屋を出ていく。
カチャリ、とドアが閉まる音がして、部屋は再び死の静寂に包まれた。
リアンドラは、閉ざされたドアを呆然と見つめ続ける。
なぜだろう。目の前に、さっき見た映像が焼き付いて離れない。
シミアの手を握り、目覚めさえすればいいと泣いていたトリンドル。
(もしトリンドルが知ったら……私がシミアをあんな目に遭わせた犯人だって知ったら、あの子はまだあんな目で私を見てくれるのかな?)
(もし知ってしまったら。毎日一緒にご飯を食べて、授業を受けていたリアンドラが、実は一番大切な親友を殺しかけた元凶だったなんて……)
制御できない思考が、入学初日の記憶を引っ張り出す。
臆病な自分の背中を押してくれた、あの太陽のようなシミアの笑顔。
『リアンドラ、すごいじゃない! あなたなら絶対大丈夫だよ!』
あれが初めてだった。
たとえお世辞だとしても、リアンドラの人生で初めて、胸の奥がポカポカするような感覚を味わったのは。家柄のためでも、任務のためでもなく、ただ“リアンドラ”という人間を見てくれた。
そしてシャル。いつも厨房で忙しくしているけれど、一人一人の好みを覚えているあの少女。
『ご心配なく、リアンドラ様。このクッキーは特にお砂糖を控えめにしてありますから、ぜひ召し上がってください……シミア様の力は皆を守るためのものです。あなたも、その一人ですよ』
皆を、守る……
(ごめんなさい……私は、みんなの仲間じゃない)
(私は、あなたたちの敵なの)
(シミアはもう戻ってこない。私が、この手で彼女を……)
巨大な罪悪感が、見えない巨人の手となって喉元を締め上げる。息ができない。
意識の奥底に残る激痛に抗いながら、リアンドラは歯を食いしばり、震える腕で身体を支えてベッドから這い出した。
窓の外では雨が降り続き、雷鳴が轟いている。
(言わなきゃ……みんなに、言わなきゃ)
(たとえ憎まれても、殺されたとしても……)
リアンドラは胸元の服をぎゅっと掴み、決意を固めた。




