荒野の再会(解)
灰色の空は相変わらず。
誰かに捨てられた、薄汚れたキャンバスのようだ。
洞窟の入り口。
リリアは見えないリズムに身を委ね、身体を揺らしている。
紫煙で燻したような独特のハスキーボイス。名もなき歌を口ずさみながら。
穏やかな旋律。優しい調べ。太古の子守唄のようだ。
けれど、その節回しにはこの時代のものとは思えない異質な響きが混じっている。深夜に聞けば背筋が凍るような、奇妙な違和感。
「ん……」
リリアの膝の上。シミアが微かな声を漏らす。
睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開かれた。
刹那。
灰色の現実が視界に雪崩れ込み、極彩色の夢の余韻に浸っていた神経を刺した。
「動かない方がいいよ。意識が戻ったばかりだ。処理の終わっていない工芸品みたいに、まだ脆いからね」
リリアが顔を覗き込む。冷たい指先が目尻を撫で、いつの間にか流れていた温かい雫を拭い去った。
「私……どうして、あんな夢を?」
喉に綿が詰まったように、声が掠れる。
リリアは空を見上げたまま、枯れ井戸のように虚ろな瞳で答えた。
「あれは『繭』さ。君の苦痛をすべて剥ぎ取り、潜在意識の渇望を読み取って、完璧な幸福を編み上げる。そして君を……永遠にあの優しい夢の中に、標本みたいに閉じ込めるんだ」
「標本……」
「あの世界は創造主の強烈な意識の残滓でできている。シャボン玉みたいに不安定で、外からの干渉は難しい。君自身が目覚めるしかなかった」
「じゃあ……あのお寿司も……パパも……」
「君を繋ぎ止めるための『餌』だよ」
リリアが小首を傾げ、皮肉めいた笑みを浮かべる。
一拍置いて、彼女は囁くように付け加えた。
「あの瞬間、もしあのお寿司を食べていたら――君の意識は本当にあの世界に溶けて、二度と帰ってこられなかっただろうね」
「そうですか……」
シミアは再び目を閉じた。 完璧な幸福。かつて焦がれた日常。 だからこそ……
シミアは奥歯を噛み締め、バラバラになりそうな身体の痛みに耐えて、リリアの膝から身を起こした。
姿勢を正し、正座する。
目の前の不思議な少女に、深く頭を下げた。
「ありがとう、リリア。君が連れ戻してくれたんだね」
「礼には及ばないよ」
リリアは視線を荒野へ逸らす。
「私はきっかけ(裂け目)を作っただけ。あの甘い猛毒を拒絶して、この苦痛に満ちた現実を選んだのは、君自身の意志だ」
洞窟の外。灰を巻き上げた風が吹き荒れる。
死と静寂以外、何もない世界。
「過去と向き合い、溺れないこと……それが、あそこから出る唯一の鍵だったのかもしれないね」
リリアが独り言のように呟く。
シミアは顔を上げ、その横顔を見つめた。
これほど近くで彼女を見るのは初めてだ。丸みを帯びた輪郭には幼さが残るのに、その瞳に宿る荒涼とした死の気配は、まるで風化した往昔を懐かしむ千歳の老人のようだ。
シミアは言葉に詰まる。
だが、首を振った。
「ううん……私は過去と向き合ったわけじゃない」
自嘲気味に笑う。その視線はどこか焦点が合わず、声は風に消え入りそうだ。
「あの夢……出来が悪すぎたの」
「ん?」
意外そうに振り向くリリア。
シミアは掌を見つめる。夢の中の父の温もり。それを握り潰すように、拳を固めた。
「あのネットカフェは……私が最期にいた場所は、もっと煙草と安っぽいカップ麺の臭いが充満していて、空調も壊れていて……風が吹けば凍えるような、あんなに暖かくて明るい場所じゃなかった」
シミアが顔を上げる。
その瞳には、胸が痛くなるほどの冷徹な理性が宿っていた。
「あのお寿司だってそう。あんな高級なもの、食べたこともない。私の記憶に、お寿司を買って優しく笑ってくれる父親なんていない」
「あの夢の最大の欠陥は、暖かすぎたこと。暖かすぎて信じられなかった。都合が良すぎて、私の人生じゃないみたいだった」
声が震える。だが、そこには鋼のような意志があった。
「あっちの世界で私が一度も持っていなかった幸福で満ちていたから、すぐにわかったの。……あれは、偽物だって」
「あの思い出に、未練なんてない。でも……私が体験した『あの時間』は、暖かくて、優しかった」
頬を微かに染める。
「あんな過去を体験させてくれて感謝してる。たとえ慰めでも……素敵な記憶だったから」
緑の瞳が見開かれる。
リリアは驚きを隠せず、シミアを凝視した。
時が止まる。
やがて、リリアは呆れたように、けれどどこか嬉しそうに口の端を吊り上げた。
「過去が絶望的すぎたから、幸福に捕まらなかった……か。いかにもシミアらしいね」
リリアが立ち上がる。スカートの灰が払い落とされる。
背を向け、洞窟の外へと歩き出す。灰の世界で、その背中は酷く小さく、けれど巨大に見えた。
「待っ……」
追いかけようとして、限界が来た。
糸が切れた凧のように意識が遠のく。景色が回転し、闇が押し寄せる。
「シミア、時間切れみたいだね」
深海の底から聞こえるような、遠い声。
「その痛みを覚えておくといい。それから……君をあの世界に留めようとした人間は、実はすぐ近くにいる」
「またね。……必ず会えるさ」
それが最後の言葉。
泥のような眠りが、再びシミアを深淵へと引きずり込んでいった。




