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雪解けの果て

頭上から、暖かな風が吹き下ろしている。

少女はゆっくりと瞼を開けた。目尻には、生理的な涙がまだ滲んでいる。


見回せば、そこはいつもの場所。

紫煙の匂いが染み付いた、けれど妙に安心できるネットカフェの店内。


「お、起きたか? いいさ、まだ寝てな。運営の連中が来るまで起こしてやるからよ」


聞き慣れた声。少女は頭を振り、少し惚けた様子でモニターを見上げた。

画面に表示された金色の戦績が、やけに目に刺さる。


【121勝 - 0敗】


ゲーム内ランキング一位、『軍神』。

彼女は二位以下を大きく引き離し、この仮想世界ヴァーチャルにおける唯一なる王となっていた。


古ぼけたエアコンが唸りを上げている。

おかしい。

夢にまで見た勝利を手にしたはずなのに。心が躍るはずなのに。

どうしてこんなにも……胸に穴が空いたように虚しいのだろう。


カウンターへ視線を向ける。

いつもは無精髭ぶしょうひげの店長が、珍しく真剣な顔で書類を記入している。これからやってくる偉い人たちのために準備をしているらしい。


ふと窓の外を見る。

いつの間にか、純白の雪が降り始めていた。

汚れた現実世界を、白一色に塗り潰していくように。


「これで……本当にいいのかな?」


ガラスに映る幸福そうな自分に向かって、彼女は小さく問いかけた。


* * *


本来なら閑古鳥が鳴いているはずの店内は、今日に限って人で溢れかえっていた。

高価なカメラを構えた取材班。そして、営業スマイルを貼り付けたスーツ姿の大人たち。

彼らはまるで腫れ物にでも触れるかのように、少女を丁重に囲んでいる。


「おめでとうございます! 見事、ランキング一位に輝きましたね。こちらは公約通りの賞金です」


ドン、と。

重厚な金属製のアタッシュケースが卓上に置かれた。

その重みに、安物のパソコンデスクが小さく悲鳴を上げ、たわむ。


少女は箱を見なかった。

彼女の視線は、騒がしい人垣と、激しいフラッシュの明滅をすり抜け――部屋の隅にいる店長へと向けられていた。

群衆の最列後まで押し出された男は、それでも爪先立ちをしてこちらを覗き込んでいる。

その顔には、自分が宝くじに当たった時よりも嬉しそうな、誇らしげな笑みが浮かんでいた。


少女は金属ケースに手を添え、持ち上げてみる。

ずっしりとした手応え。

その重みだけで、未来の幸福な生活設計図が描けてしまいそうだ。


「こんなに……本当に私が貰っていいんですか?」

「もちろんです! 貴方は紛れもないチャンピオンですから」


柔和な目をした女性スタッフが答える。広報担当だという彼女は、優しく微笑んだ。


「今後もぜひ、我が社のゲームを盛り上げてください。よろしければ特別顧問として契約したいと考えています。貴方の意見の一つ一つが、我々にとって至宝なのです」

「私が……必要と、されている?」

「ええ。貴方は私たちにとって、とても大切な存在です」


胸に当てた少女の手を、お姉さんの温かい手が包み込む。


「そうですか……」


少女のもう片方の手が、ケースから力なく滑り落ちた。

降り注ぐシャッター音の中、彼女は幸福と困惑が入り混じった、苦笑のような表情を浮かべた。


* * *


夕暮れ。

最初の夜闇と共に太陽が沈み、騒がしかった人々もようやく去っていった。


普段は身なりに無頓着な店長だが、今日はまるで別人だった。

髭は綺麗に剃り落とされ、アイロンのかかった皺のないシャツを着ている。

少女がじっと見つめると、店長は照れくさそうに笑い返した。


マウスに乗せた少女の手は、動かない。


「どうした? やらないのか? 連勝記録、まだ続いてるぞ」


少女が振り返る。背後に立つ店長の瞳には、もはや客を見る儀礼的な色はなく、これまで見たこともないような慈愛が宿っていた。


「……いえ……少し、疲れちゃって……」


何かを壊してしまわないよう、少女は慎重に言葉を選んだ。


「そうか……なあ、それならさ。家に来ないか?」

「え?」

「ほら、お前さんもう一ヶ月近く店に泊まり込みだろ? 空調はあるといっても、椅子の上じゃ体も休まらねぇ」


男は剃り跡の青い顎をポリポリと掻き、バツが悪そうに視線を逸らす。


「俺の家、狭いけど小綺麗にはしてるんだ。離婚してからずっと一人暮らしでよ……正直、寂しくてな」


言葉を区切り、男は勇気を振り絞るように少女を見据えた。


「もし嫌じゃなけりゃ……俺が引き取ろうかと思ってる。実の娘みたいに、大事にするからよ」


男が紡ぐ一言一句。

そのすべてが、温かな綿のように、少女の心に空いた風穴を埋めていく。

涙が、決壊した。


「おいおい! 泣くなよ! なんか俺、変なこと言ったか? ほら、拭けって」


男は慌ててティッシュを差し出す。

涙で視界が歪む。けれど、その滲んだ光景の中で、男はどこへも行かなかった。

彼女が涙を拭き終わるまで、不器用に、ただ根気強く待っていてくれた。

ずっと側で、守ってくれていた。

まるで――本当の家族のように。


「お父さん……って、呼んでもいいですか?」


震える声。そこには微かな探りと、切実な祈りが込められていた。

男の動きが止まる。

やがて、その目元も赤く染まった。


「……『パパ』って呼んでくれねぇか? お前さんになら、そう呼ばれたい」


男は赤くなった顔を照れ隠しするように摩り、馬鹿みたいに笑った。

その笑顔を見つめながら、少女は、どうしようもなく悲しく、寂しい表情を浮かべた。


「パパ。一つだけ、お願いがあります」

「お願いなんて水臭いこと言うなよ! これからは俺の娘だ。なんだって言ってみろ。空の星だって取ってきてやる!」

「あの日の高級なお寿司……もう一回、食べたいです」

「あ? そんなことでいいのか?」


男は拍子抜けしたように瞬きし、自分の太腿を叩いた。


「おう! 任せとけ! 腹いっぱい食わせてやる! パパが一番デカいのを買ってきてやるからな!」


男は迷わず駆け出した。カウンターへ走り、電話で店を確認し、上着も羽織らずに店を飛び出していく。

猛吹雪の中へ。


ガタガタと揺れるガラス扉を見つめ、少女は濡れたティッシュを握りしめた。

その瞳から迷いが消え、代わりに、ある種の残酷な決意が宿る。


* * *


二十分後。


「はぁ……はぁ……待たせたな!」


男は汗だくになって戻ってきた。袖で額の雪解け水と汗を乱暴に拭い、大事そうに抱えていた袋から、豪奢な漆塗りの寿司桶を取り出す。


「どうだ! 速かったろ? ……パパはな、これでも若い頃は陸上部のエースだったんだぞ!」

「ありがとう」


少女は桶を受け取る。指先に触れた表面には、男の体温が熱いほどに残っていた。


「ほら食え、冷めないうちにな。今回は『特上』だぞ。前回より高いやつだ!」


男は褒めて欲しい子供のように、期待に満ちた目で促す。

少女はキーボードとマウスを脇へ退け、目の前の食事に深く頭を下げた。

あの日と同じように、うやうやしく蓋を開ける。


完璧な盛り付け。宝石のようなネタ。艶やかなシャリ。

すべてが理想的で、芸術品のように美しい。

彼女は箸を取り、その中で最も美しい中トロを一貫、持ち上げた。


「いただきます」


小さな声で呟き、口へと運ぶ。

咀嚼。

少女の食事は静かで、表情には何の波紋も浮かばない。

男は固唾を呑んで見守っている。

やがて、彼女がごくりと喉を鳴らした。


「どうだ? 美味いか?」


男の問いかけに、少女が顔を上げる。

その瞳にもう涙はなく、すべてを悟ったような悲哀だけがあった。


「想像していた通りです……」

「……え?」

「味が、しません」


少女は静かに告げた。


「な……?」男は耳を疑い、絶句する。「味がしないって、そんなわけあるか。ワサビが足りなかったか? それとも……」


「だって……私、お寿司なんて食べたことないですから」


少女は、自分を愛してくれた『父親』を見つめ、凄絶なほどに美しく微笑んだ。


「私の記憶の中に、『高級寿司』の味なんて存在しない。だから……この夢の中でどれだけ美味しそうに見えても、味だけは再現できないんです」


ピキリ。

少女が真実を口にした瞬間。

空間が、凍りついた。


騒がしかったネットカフェの環境音が消える。宙を舞う埃が静止する。

世界はまるで、ハンマーで叩かれた鏡のように、無数の亀裂に覆われた。


「……夢?」


男の輪郭が明滅しはじめる。接触不良のホログラムのように。

少女は立ち上がり、歩み寄った。両手を広げ、パパと呼んでくれた男を最後に一度だけ抱きしめようとする。


けれど。

その腕は虚しく、男の体をすり抜けた。


温かくて、お寿司を買ってきてくれて、不器用に慰めてくれた男。

彼は幻影のように無数の光の粒となり、少女の目の前で霧散していく。

温かなネットカフェが崩れ落ち、その背後に隠されていた無限の闇が、深淵が、口を開けた。


それが、彼女が直面すべき現実。


少女は崩壊していく世界の中心に立ち、その虚無に向かって深々と一礼した。


「ありがとう……パパ」


二度と届くことのない感謝を告げ、少女は瞳を閉じる。

言葉にできない苦痛を噛み締めながら、彼女の意識は、より深く、重い闇の底へと堕ちていった。

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