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未だ、選択せず

早朝。

淡い金色の陽光が、エグモント邸の隅々までを満たしていた。


姿見の前。黒と白の執事服に身を包んだレインは、口元を押さえ、極めて抑制されたあくびを一つ漏らした。

指先で生理的な涙を拭うと、その瞳に鋭い光が戻る。

蝶ネクタイの角度を微調整。袖口の視認できないほどの皺を撫でて消す。最後に、雪のように白い綿の手袋を装着。


完璧だ。

レインは静かに自室のドアを開けた。


廊下には深紅の絨毯が敷かれ、柔らかな木漏れ日が水たまりのように点在している。

歩きながら、手袋越しの指先で窓枠のさんをスッとなぞる。

顔の高さまで上げ、確認。

純白のまま。埃ひとつない。

よし、と小さく頷く。


だが。

一階のメインホールに足を踏み入れた瞬間、その完璧な平穏は破壊された。


ホールのど真ん中。

そこに、銀色に輝くフルプレートアーマーが鎮座していたのだ。


優雅な調度品に囲まれた空間で、それは圧倒的な異物感を放っている。表面に刻まれた無数の傷跡が、血と鉄の匂いを撒き散らしているようだった。

レインの足が止まる。

この屋敷にこんな物を持ち込み、しかも堂々と飾る人間など、一人しかいない。


「どうした? 腰が抜けたか、レイン」


背後から、老いてなお力強い声。

振り返れば、いつの間にかバセスが立っていた。自慢の弟子を見るその目は、悪戯っ子のように輝いている。


「いえ……私はただ……」


レインは困惑し、鎧とバセスを交互に見比べた。


「『執事たるもの、不測の事態には自らの判断を優先すべし』。そうだろう?」


レインが目を見開く。それは、見習い初日にバセスから叩き込まれた鉄の掟。

深く息を吸う。

表情筋をリセット。

直立不動の姿勢へ。


「進言いたします。共用スペースであるホールに、個人的かつ威圧的な金属塊を配置するのは不適切です。バセス爺様」

「それでいい」


叱責を予想していたレインの肩を、分厚い掌がバシりと叩いた。

バセスは陽光のように豪快に笑っている。


「よく言った。相手がワシだろうと、お前の判断を曲げるな。安心しろ、こいつはすぐに片付ける。……あるべき場所へ持っていくからな」

「……ついて来い」


* * *


朝の光に満ちた回廊を抜け、二人は屋敷の奥にある家族会議室へと入った。

バセスが重厚なカーテンを開け放つ。

眼下に広がる庭園では、庭師が植え込みを整え、メイドたちが買い出しへと出かけていく。視線を上げれば王都の貴族街が一望でき、その先には青空を背負った王宮がそびえ立っていた。


「以前お前に考えさせた件だが、どうだ? レイン」


レインの脳内CPUが高速回転する。

記憶領域メモリにある『未処理タスク』を検索。

……ヒットなし。バセス流の教育方針は『即日実行』だ。レインに先送りの習慣はない。

いや。

一つだけ、例外があった。

ある午後の雑談。バセスが何気なく投げかけた、あの問い。


『お前の未来、どうするか考えたか?』


あの時の声が、今の声と重なる。


「私は……」


レインの能面のような顔に、珍しく迷いの色が浮かんだ。

自分の、未来。

思考を構築しようとする。だが、エラーが出る。

『お嬢様を護衛せよ』『帳簿を確認せよ』『絨毯のシミを抜け』。

明確なタスクがあれば、最適解を導き出し、最短時間で遂行できる。

だが、『未来』という単語は抽象的すぎた。仕様書がない。完了条件ゴールも不明だ。


自分は、精巧な懐中時計なのだと、レインは思う。

歯車は完璧に噛み合っている。針も狂わない。けれど、誰かが『竜頭リュウズ』を巻いてくれないと、動くことさえできない。


孤児院時代、生き残るための指令は『弟妹の世話』だった。

拾われてからの指令は『完璧な執事になれ』だった。

すべては、バセスの期待に応えるための出力結果。

なのに、そのバセスから『自分の任務タスクを自分で設定せよ』と言われても――それは未知の領域だ。


「わかりません……バセス爺様」


レインは正直に首を垂れた。

ポン、と。

温かい手が頭に乗せられ、撫で付けた髪をくしゃくしゃに乱す。

驚いて顔を上げると、そこに失望の色はなかった。あるのは、すべてを見透かすような穏やかな瞳。


「昔、ワシは先王陛下の近衛軍にいた」


バセスは窓の方へ向き直り、遠く輝く宮殿を見つめた。


「陛下はいつも具体的だった。『あの城を落とせ』『防衛線を死守せよ』『敵軍を殲滅せよ』……」


老人はふっと笑った。執事の仮面が剥がれ、かつての武人の顔が覗く。


「カカッ……だがな、最後の命令だけは王らしくなかった」

「最後の、命令?」

「ああ。崩御される直前のことだ。『他のことはどうでもいい。国が滅びても構わん。だがバセス、娘だけは守ってくれ』とな」


声のトーンが落ちる。そこには無限の思慕が滲んでいた。


「あの日、ミリエル殿下はワシを近衛軍から追放した。表向きは『軍縮』だが、その実、ワシを安全なここへ逃がし、陛下との約束を守らせるためだ」


バセスは振り返り、きょとんとしているレインを見た。

レインには理解できない。『追放』が『命令遂行』になるロジックが繋がらない。

そんな少年の様子を見て、バセスは苦笑した。


「覚えておけ。現実って奴はな、否応なくお前に選択を迫ってくるもんだ」

「……?」

「ま、今はまだ早いか」


バセスは首を振り、襟元を正した。いつもの厳格な執事長に戻る。


「では、聞け。ワシはミリエル殿下と共に南方へ発つ」

「ワシが戻るまで、この屋敷とエグモント家のすべてを、お前に任せる」


カチリ。

レインの瞳に、光が灯った。

バセスの口から語られた、いつも通りの、具体的で明確な任務。

『現実と選択』の意味はわからない。だが、任務さえあれば、この懐中時計は完璧に時を刻み続けられる。


「畏まりました」


部屋を出ていくバセスの背中に向かって、レインは背筋を伸ばし、迷いのない声でそう答えた。

ついに五十万文字に到達しました!

読者の皆様には伝わりにくいかもしれませんが、私の内心は今、とてつもない喜びに満ち溢れています。


この瞬間の喜びを、どうしても皆様と分かち合いたくて。

『軍神少女』をこれまで支えてくださった皆様、本当にありがとうございます。


また、もし「『軍神少女』なんて嫌いだ」と思いながらもここまで読んでくださった方がいらっしゃいましたら、その方にも、心からの、そしてありったけの感謝を捧げさせてください。

作者にとって最も辛いのは「誰にも見向きもされないこと(無関心)」です。ですから、どんな形であれ読み続けてくださる読者の方には、心の底から感謝を伝えたいのです(読者定着率があまり良くない自覚はあるのですが……苦笑)。


さて、今回のエピソードですが、執筆がとてもスムーズに進みました。

執筆には「フロー」と呼ばれる(全身全霊で没頭している)状態があるそうですが、今日はまさにそれでした。私にとっては数少ない(無意識に自分へプレッシャーをかけすぎているせいか)、貴重なフロー体験でした。


『軍神少女』をサイトに投稿し始めてから、気づけばもう半年が経ちました。

思い返せば、皆様とのご縁はあの一瞬から始まったのですね。今でも少し現実感がないくらいです。

執筆中は色々な作風を試してきましたし、今後も少しずつ変化していくかもしれません。実は、新しい試みをするたびに内心では「大丈夫かな」とドキドキしています。プロットや展開についても葛藤の連続です。時には、ストーリーについて非常に有益なアドバイスをいただくこともありました。

皆様に「この小説を見限りたくない」と思っていただけるよう、これからも精一杯努力します。もし不満な点があれば、ぜひ教えてください!


私の中での『軍神少女』への期待は、最初から「全十巻以上」という壮大なものでした。

ですから、五十万文字というのは通過点に過ぎず、本来なら祝うようなことではないのかもしれません(まあ、そう言うのは少し強がりですが)。


以上、作者の独り言でした。

とにかく、ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。

物語はまだまだ続きます!

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